泥
幽霊とかそういったものの類には、何かしらの科学的な根拠がある。
自分はどちらかというと、そう言って不可解な現象を否定する側の人間だった。
金縛りは脳が起き、体が眠っている時の睡眠障害。
心霊写真は何らかの光が映り込んだり、現像ミスによるもの。
霊が現れる時に気温が下がるのは、老朽化した建物の隙間風が原因。
言葉にしてみれば簡単なもので、世間が幽霊だ祟りだ呪いだと騒いでいるすべてのものが、100%まやかしであると証明されているような気になってしまう。
しかし、自分がそういう類に疑いの目を向けてしまうのには一番の理由があった。
単純に、「見たことがないから」である。
生まれてからの21年間、幽霊はおろか、金縛りにすらあったことがない。
普段自分が優しくしてもらっている人が実は殺人鬼だという噂を聞いたところで、頭から信じてしまう人はそれほど多くはないだろう。
しかし、その人が目の前で誰かを殺す瞬間を目撃したのなら信じざるを得ない。
それと同じで、「幽霊」というものを見たことがない自分にとって、それは何かの錯覚で、この世に存在しないものであると断言するには十分過ぎる理由だった。
「お、始まった始まった。オレこれ結構楽しみにしてたんだよね」
新品のソファーにだらしなく腰かけていた友人の修也が、姿勢を正してテレビを見つめた。
そのついでにテーブルの上にあった何本目かのビールに手を伸ばし、蓋を開ける。
プシュッ、空気が抜ける音。
「あんまり飲むなよ。潰れたお前を介抱すんのは誰だと思ってんだ」
「いいじゃんか、久々の飲み会なんだから」
「飲み会っていってもお前とオレの2人だけだろ。何が楽しくて男2人で酒飲んで、挙句の果てにこんな番組観なきゃなんねぇんだよ」
「ん、弘こういうの嫌いだっけ」
あまり飲むなと言うのに既に缶の半分近く飲み終えた修也が、口元を軽く拭ってこちらに顔を向けた。
そのおよそ成人したとは思えない友人の顔を見て、オレは溜め息をひとつつく。
絶対こいつ今日潰れるな。
「嫌いっていうより退屈なんだよ。つまんなくて眠くなんの」
「えー、めっちゃ面白いじゃん。…うわっ、見た!?今の分かった!?」
「耳元で叫ぶんじゃねぇよ馬鹿、あと唾飛ばすな!」
テンションが高い茶髪頭を平手で叩き、卓上の菓子に手を伸ばしながらなんとなくテレビの画面に視線を移す。
一度放送した動画を、視聴者が分かるようにリプレイするところだった。
それはまるで今の自分達のように、アパートの一室で飲み会を開いていた女数人をビデオカメラで撮影した映像のようだ。
全員ほど良く酔いが回り、盛り上がってきた飲み会の最中。
画面右端の1人がカメラに向かってにこやかにピースサインを出した時、彼女の座るテーブルの下に、こちらを無表情で見つめる髪の長い女がぬっと顔を出した。
隣で女みたいな声で悲鳴を上げる友人を無視し、俺は別段怯えもせずにポテトチップスの1枚を口に放り込む。
そんな自分を見て、「マキちゃんはこんなやつのどこがいいのかね…」と俺に叩かれた頭をさすりながら唇を尖らせる修也。
マキ、という名前を聞いて、自然と窓際に置いてある花瓶に視線が移った。
花瓶に1本だけ生けられた、白い花。
「いいなぁ、俺もマキちゃんみたいな彼女欲しい。くれ」
「やるわけねぇだろ。自分で探せ」
「しかしマキちゃんってお前のバイト先の常連客で、向こうから誘ってきたんだろ。やっぱ顔のいい奴は違うよなぁ」
スナック菓子の塩気に混じって、花の瑞々しい甘い香りが微かに匂う。
俺のバイト先というのは個人でやっている小さな花屋だった。
飲食店と違ってわりと時間の都合がつき、それでいて忙し過ぎない。
その分給料の方は安かったが、俺にとってはそれでも十分すぎるバイト先だった。
マキはそこの常連客でしかも同い年、初対面から話しかけられ、3回顔を合わせるあたりには偶然にも同じ大学であることが判明した。
そこで彼女が買ったのがこの白い花。
ラッピングして渡すとすぐに俺の手に戻され、「よかったら私と付き合って下さい」ときたものだ。
当然面食らい、最近の女は積極的だなぁと感心したりもしたものの、自分達は結局そういう関係になったのだった。
スナック菓子を飲み下し、自分の分のビールを開ける。
テレビでは2本目のビデオ動画を映していた。
森に探索に来たらしい数名の外人が、何者かの声を聞く。
全員が動きを止め、耳をそばだてていると、突然森の奥から白い服を着た長髪の女が物凄いスピードでこちらに向かってくる。
一気に冷たくなる視線を隠そうともせず、ビールをひと口飲んだ。
あまりにもはっきりしすぎだ、合成ですって言ってるようなものじゃないか。
「あのさ、オレこういうのホント駄目なんだよ」
「じゃあ見るんじゃねぇよ」
「だって想像するじゃん。もしかしたらあんな風に、俺らの所にもいるんじゃないかってさ」
怯えたように言うその視線が、自分達の足元、ちょうどテーブルの下辺りへとゆっくり降ろされる。
テーブルの下からこちらを睨み上げる、女の姿。
ただ見えないだけで、本当はそこにいるかもしれなくて。
もしかしたらもっと近く、吐息がかかるくらいの場所に――
「うっぷ」
「!」
何やら不穏な声が聞こえ、嫌な予感を感じて横を見ると、案の定口元を押さえた修也が苦しそうに背を丸めていた。
さっきまで赤かったその顔色は、今はやけに青白い。
「怖いの見たら、なんか気持ち悪くなってきた…」
「精神弱すぎだろお前!おい、ここで吐くな!トイレ行けトイレ!!」
先ほどと打って変わって、蚊の鳴くような声で気分の悪さを主張する修也を、トイレの方向へと押しやった。
口元を押さえたままよろよろと部屋を出て行く修也に向かって、思わず舌打ちが漏れる。
あの馬鹿、廊下で戻したりしたらただじゃおかないからな…!
乱暴にリモコンを掴んで、今度は別の心霊動画を映していたテレビを消した。
途端に、部屋を包む静寂。
修也のうるさい声とテレビの音、その2つがほぼ同時に消えた室内では、エアコンの稼働音だけがやけにうるさく響く。
買い置きしてまだ手をつけていない数本のビールを手早くまとめながら、ふと、修也の座っていたソファーの場所に何かついているのに気がついた。
茶色の生地に染み込む、黒っぽい汚れ。
「…泥、か?」
ビールを再びテーブルに戻し、膝を曲げてそれに顔を近づける。
それは確かに、泥の汚れのようだった。
しかし、最近買ったばかりのソファーになぜこんなものがついているのか。
一瞬修也が汚したのかとも思ったが、一緒に外で夕食をとった後、この部屋に入るまで行動を共にしていたのだ。
その間に転んだり、ドブに落ちたりは絶対にしていないし、仮に自分が目を離した隙にそうなったとしても、服が汚れていれば気づくはずだ。
さっきまで隣で酒を飲んでいた修也は、体のどこも汚してはいなかった。
なのに、なぜ。
一時それを見つめた後、注意深く指で拭ってみた。
人差し指についた、茶色。
それが、妙に赤っぽいのは気のせいだろうか。
「…………」
気がつくと、嫌な汗をかいていた。
ふわり、と甘い匂いが鼻腔をつく。
ぎこちなく首を回して、窓際にある花瓶を見つめる。
香りは鼻を近づければやっと分かるくらいのもので、部屋の中をはっきりと漂うことなんて今まではなかったのに。
ここまで甘ったるい、強い香りだったか?
いつから、こんなに匂いがしていた?
無言のまま身を起こし、
「!」
そこにあったものに全身の筋肉を硬直させた。
また、泥。
しかしそれはひとつだけではなく、まるで汚れた何かを引きずっていったように、赤茶色の筋が廊下に向かって続いている。
その中には、いくつか落ち葉まで混じっていた。
「修、也…?」
口の中がからからに乾いていた。
さっきあいつが出て行った時は、絶対にこんなものは無かったのに。
その汚れを辿るように、静まり返った室内を歩いて廊下に顔を出した。
予想通り、廊下の奥へと続く泥汚れがそこにはあった。
そこまで広い物件でもないので、廊下を数歩歩けばトイレ付きバスルームへと到着する。
そこにあるトイレで嘔吐しているはずの修也の声が、全くしない。
具合が悪いと言って出て行ったわりには、あまりにも静かなのだ。
ごくりと唾を飲んで、泥汚れを辿るようにバスルームの方へと足を踏み出した。
部屋の中では小さなものであった赤茶色の汚れは、重いものを引きずったかのようにその幅を太く、そして濃く色を変えていた。
ゆっくりと廊下を進み、半開きになったバスルームへと到着する。
やはり、何の物音もしない。
「おい、何の真似だよ」
ドアに手をかけて少しためらった後、一気に押し開けた。
…いない。
「え…」
そこにはこちらの反応を窺う修也がいるものだとばかり思っていたので、思わず言葉を失った。
が、すぐにカーテンの閉められた浴槽に目がいって、少しでも驚いてしまった自分に舌打ちが漏れる。
何隠れてんだあの野郎。
「おい、お前いい加減にし、」
僅かに開けたカーテンの隙間から見えたものに、言葉が途中で止まった。
こちらに背を向けて座る女の姿。
長い髪は絡まり、着ている服は元の色が分からないくらい泥で汚れている。
引いていた汗が、一気に噴き出す。
なんで、こんな、女なんかがここにいる?
ここにいなければいけないのは修也だ。
確かにこっちに向かったのだから、いないわけがない。
じゃあ、これは一体誰だ?
荒くなる息を抑え込み、誰かが家に忍び込んだのだと無理やり結論づける。
警察、警察に電話しないと。
そう思って振り向いたすぐ目の前に、泥で汚れた女の顔があった。
「っ、うおあぁっ!!?」
叫んだ瞬間足の裏が滑り、盛大に転んだ。
浴槽へと背中をしたたかに打ちつけ、一瞬息が止まる。
しかし、その痛みなんてほとんど感じる暇もなかった。
泥に汚れた女がすがるように両手を前に伸ばし、ゆっくりとこちらに一歩踏み出したのだ。
ずり、とワンピースの長い裾を引きずる音に、頭の中で必死に否定する。
嘘だ、こんなの嘘だ!
すぐに横をすり抜け、ほとんど四つん這いのまま廊下を戻った。
展開が突然すぎて、頭がまったくついていかない。
なんだこれは。
なんでこんなことになってるんだ?
部屋から廊下まで漏れた花の香りは、もはや心地良いものではなく、悪臭と言えるくらいに強く漂っていた。
強烈な甘い香りを吸い込むと、頭がくらくらして思考がまとまらなくなる。
とりあえず、外に出ないと。
それだけを一番に考え、半分転びかけながら玄関を目指していた俺は、さっき飲み会をしていた部屋から突き出した、2本の腕にとっさに反応できなかった。
「がッ」
迷うことなく指を首に巻き付けたそれの、持ち主の姿はどこにもなかった。
物凄い力でこちらの首を締め上げるその腕は、二の腕辺りで切断されている。
切断面からぶらりと下に垂れ下がった肉片が、妙に生々しい。
細いくせに力の強いその腕からは、強い泥と血の香りがした。
「やっ、め」
やめろと叫びたいのに、喉からはひゅう、と情けない音が漏れるだけだった。
必死で指を外そうともがくが、まるで金属か何かのように固まって動かない。
ずっ、ずり…
音が、どんどん近付いて来る。
廊下の向こうから、あの女が。
”あの女の頭が”。
ずりずりという音は、衣擦れから髪の毛を引きずる音にいつの間にか変わっていた。
ぼさぼさの長い髪を引きずり泥と血の筋を床につけながら、こちらにゆっくりと近づいて来る女の首。
喉を締め上げる細い手。
歪む視界の中、どうして自分がこんな目に合うのか理解できなくて、だけどそれを言葉にすることもできずに、床を這ってくる女の頭を見つめていた。
泥に汚れた白い顔が、ひび割れた唇が。
長い前髪の下に隠れた、真っ黒な瞳が目前に迫ってきて、
それを見た瞬間、この女が誰なのかはっきりと分かった。
いや、”思い出した”。
「―――マ、」
玄関のドアが、物凄い音をたててこじ開けられたのはその時だった。
廊下に寝転がった俺を見て、スーツ姿の男数人が目をわずかに見開く。
しかしその表情はすぐに険しいものへと変わり、素早い動作でハンカチを取り出し自らの鼻と口を塞いだ。
「奥田弘だな?」
先頭に立っていた男が、威嚇するような低い声で俺の名前を言った。
開いた扉から流れ込んできた夜特有の湿っぽい空気が、俺の頬を撫でる。
「お前を殺人容疑で、逮捕する」
その言葉を合図にしたかのように、後ろに控えていたと思われる仲間数人が俺の家の中に踏み込んできた。
腕を掴まれ、無理やり立たされるまでの数秒の間に、俺は見た。
俺の胸の上に落ち、ぴくりとも動かない両腕を。
泥だらけで血の気のない肌をした、女の首を。
部屋の中に収まらず、廊下にまで溢れ出した白い花の植木鉢を。
そして、とても人を呼べる状態じゃないほどゴミや汚物で埋まり、荒れ果てた自分の家を――
《今、速報が入りました。今月4日、○○市で起きた殺人事件で、警察は、奥田弘容疑者を殺人容疑で逮捕しました。この事件は、4日の未明に街からおよそ10km離れた山中で細川修也さん21歳、古谷マキさん21歳が頭部と四肢を切断され、土に埋められた状態でいるのを近くを通りかかった男性が通報したことから発覚したものです。古谷マキさんの頭部と腕は奥田容疑者の自宅に保管されていたとのことで、警察の発表では、奥田容疑者は大量の麻薬物質を所持しており、うわ言のような言葉を繰り返しているということです。なお、奥田容疑者は自分が通う大学の近くにある花屋でアルバイトをしており、その流通経路に紛れこませて麻薬物質を含む花を入手していた疑いがあります。警察は、動機の解明を急ぐとともに、奥田容疑者の精神鑑定の準備に取り掛かる方針です。――では、次のニュースです…》
「いや、酷いもんだったよまったく。あれくらいのは、久々に見るね」
「…やっぱすごかったんですか?」
「なんせ部屋ぎっしりの大量の麻薬。そこらじゅうに汚物やゴミ、きわめつけは自分が殺した女のバラバラ死体。悪臭がとんでもなかった」
「一体、何があったんでしょうね」
「奥田の言っていることは未だ支離滅裂だが…周りの証言によると奥田はもともとかなり嫉妬深く、自分の恋人と友人が関係を持っているんじゃないかと酷く疑っていたらしい。いつから薬をやっていたのかはまだ分からんが、その思い込みと麻薬の幻覚作用、被害妄想の増長の結果ってところかな」
「うわ…思い込みだけで殺すなんてとんでもないですね」
「一体奥田には、今までどんな世界が見えていたんだろうなぁ。…でも、少しだけ気になることがあってな」
「なんですか?」
「死体発見現場の穴の中から、古谷マキの毛髪や手につけていたブレスレットが見つかったんだよ。つまり一度、古谷マキの体は全身穴に埋めたんじゃないかって思ってね」
「…………」
「なのに、なんで頭と腕が奥田の自宅にあったんだろうなぁ…」
fin.