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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

「の」

「胡蝶の夢」

作者: ずほ子

「知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。」

 ~荘子『胡蝶の夢』より

 『はじめまして。私はかわひらです。よろしくね、すみくん』

 あれは何年前だっただろう。桜の季節。

 『大丈夫だよ。みんなはどう接していいか分からないだけだから。久住くんは悪くないよ』

 あれは何年前だっただろう。雨の季節。

 『……何か、困ったことあったら私に言って。できるだけ助けになるから』

 あれは何年前だっただろう。こがらしの季節。

 全て大切だった。大切だったのだ。


 『ごめんね、私、久住くんの気持ちには答えられない……』





 “死んでしまえ!”

 そうだ、こんな穢い世は捨て去ってしまえばいい。私自身がそう選択することで、この世界はたやすく滅び去る。

 私は目も眩む摩天楼の最上階に陣取った。

 眼前には唾棄すべき穢土が野放図に広がっている。遠く彼方の地平線を遮る竹林のような摩天楼たちや、そこに群がる無益な群衆、それら全てを呪った。

 どうせお前らは何もできないのだ。世界の崩壊はお前らの気づかないうちに広がり、そしてお前らの無意識のうちに収束するだろう。

 おさらばだ。

 願わくば、次のこの身は浄土へと。

 ―――風に乗って私の()()は穢土に堕ちた。





 「―――夢」

 また変な夢を見た。

 私は時折自殺する夢を見る。墜死だったり、轢死だったり、毒死だったりと様々だ。

 一体私は何度死ぬのだろう。

 これが現実であったなら、私の死体及び遺骨は山を為していることだろう。いささか物騒な絵面である。

 「大丈夫? なんか顔色悪いよ」

 ふっと前を見ると、知人の川平小百合が微笑んでいた。

 「今日はレポート提出の日だから、徹夜でもしたのかな」

 「あ……ああ、まあ」

 「あんまり無理しちゃだめだよ」

 川平はおさげ髪を指で弄びながらからかうように言った。

 「それとも、悩み事でもあるの?」

 「…え」

 「久住くんは顔に出るタイプだね」

 「…分かるかい、やっぱり」

 「分かるよ。バレバレだもん」

 


***



 私は川平小百合に言い淀みのある感情があった。

 あいにく、巷でいう恋愛とやらは門外漢である。告白などという一世一代の決断などできるわけもない。

 ゆえに私は川平を目で追っていた。

 揺れるおさげ、眼鏡をかけた理知的な顔つきの河平が微笑むたび、心のどこかで安堵する自分がいた。

 あれのために生きている―――そこまで言うと語弊があるが、まあ間違いではないかもしれない。

 「…もうこんな時間か」

 既に世界は夜の帳に包まれている。太陽は海の向こうへ没し、今中天に座するは皓々たるげつである。

 夜中に乙女のことを考えて悶々とするなど、気持ちのいい行動ではない。

 もう寝てしまおう。夜更かしは三文の損だ。





 目が覚めた。頭がフラフラする。

 妙な夢を見た。――――――蝶を追いかける夢である。

 昼の白光の中を飛ぶ紋白蝶を、文字通り地に足の着かない足取りで追いかける夢である。

 蝶は私の眼前を只々飛んでいた。

 距離は一向に縮まらなかった。私の体と蝶が糸で繋がっていて、それに引っ張られているようだった。

 蝶は私をけんいんして飛び続けた。

 やがて白光が終わりを迎え、遠くに極彩色の花畑が見えてきたころ、蝶はそのはねをもがれたようにバラバラになって死んだ。

 四散した蝶の死骸に私は手を伸ばして、視界は暗転し夢の世界は消滅した。


 なんだか寝覚めが悪い夢だな、と思って冷蔵庫に向かった瞬間、脳の片隅で嫌な予感が狼煙のろしを上げた。

 非常に細く小規模な狼煙であったが、それは起き抜けの私の心に微小なダメージを与えていった。

 (まあ、いい。大学に行こう)

 川平の顔を見よう。そうすれば気分も晴れるだろう。

 支度を整え、私はそうあんの薄っぺらいドアを閉めて外に出た。

 季節は春、ぬるい風が髪を乱していく。

 赤信号を目視したので歩みを止め、向こうに伸びる横断歩道に視線をよこした。

 (あれ? あれは…川平か)

 風に揺れるおさげ髪の乙女が佇んでいる。それは信号が青になったのを確認し、足を踏み出した。

 そこに暴れ馬のような三(トン)トラックが近づいていた。車両用信号が赤色を示しているのにも関わらず、一向にスピードを緩めようとしない。

 危ない、という私の声が届くはずもなかった。

 川平の華奢な体はあっという間に暴走トラックに飲み込まれ、巨大なタイヤとアスファルト地面の間に滑り込んでいった。

 

 世界が静止する。

 三噸トラックの下から湧き水のように広がるのは川平の血潮だ。

 黒い道路を不気味に浸してゆくその鮮血に私は戦慄しつつ、忘我していた。

 (ああ、蝶が。蝶が死んだ。)

 いつのまにか集まった群衆がワイワイと騒いでいる。―――お前らは何だ。川平の何なんだ?

 「川平、」

 最早信号を守る必要もない。私の足は無意識に動き、血潮の泉へと歩いていく。

 そしてガックリとくずおれた私は、泣いた。無色透明の血の涙を流して、川平の血潮を薄めた。



***



 息が荒かった。興奮しながら剃刀を見つめていた。

 西向きの窓から差し込む夕日が身を焦がすような気さえした。

 もうだめだ。あの娘がいない世界など何の肥やしになる? 肥やしにならぬ糞はただの糞なのだ。

 “死んでしまえ!”

 ああ、死んでやるとも。家族も友人もない孤独な私からあの蝶を奪った世界など、殺してやろう。

 川平がいたから頑張れた。川平がいるから頑張れる。川平がいないなら頑張れない。

 この情念は恋などという生易しいものではない。恩義であり、憧憬であり、愛情であり、忠義だ。

 “死んでしまえ!”

 彼女の死を止められなかった私も、この世界も、みんな死ねばいいのだ。

 世界よ終われ。しからばこの私が再び構築してやろう。

 この熱き血潮でもって!


 喉の肉と動脈が剃刀の刃によって断ち切られ、直後鋭い痛みに私は咆哮した。

 噴き出した鮮血の赤が室内の物体という物体を染め上げる。侵食する。

 うつしが夢と、消えた。





 「…夢」

 朝の柔らかい光が草庵を照らしていた。

 首元に手を当て、思わず息が漏れた。傷などない。嘘のように部屋を染め上げた血糊など、一滴も見当たらない。

 やけに現実味のある夢で一瞬肝が冷えたが、やはり夢は夢。目覚めてみると何事もない。

 しかし、自分が死ぬ夢とは何より寝覚めの悪いものだ。

 「大丈夫? なんか顔色悪いよ」

 「あ? ああ…川平」

 目の前で、河平小百合が可憐に微笑んでいる。

 年を重ねなお魅力的に映る笑みである。九年前初めて会った時と変わらない、私を虜にした笑みだ。

 それが今も私に向けられているのはえがたい喜びである。

 だというのに。

 (なんだ、この既視感は……)

 何度も繰り返し見た映画を再び見ているような気がするのだ。

 『今日はレポート提出の日だから、徹夜でもしたのかな』

 (…なんだ、今のは!?)

 川平の声がダブって聞こえた。

 「あ、ああ…まあ」

 『あんまり無理しちゃだめだよ』

 まただ!

 指でおさげ髪を弄ぶ動作―――私の脳内に昨日の夢がフラッシュバックした。

 蝶の屍。横断歩道の川平。信号無視の三噸トラック。轢死する川平。血潮の泉。泣き崩れる私。

 そして、異常な量の鮮血を見ながら自殺した私―――。

 なんだ? あの夢は。まるで夢とは思えない生々しさだったじゃないか。

 「久住くん…?」

 「…川平、俺は…起きてるよな?」

 「え? 何いってんの、寝言を言ってるようにはとても見えないけど」

 「ここは現実だよな? 夢じゃないだろ?」

 「どうしたの久住くん。今は西暦1987年、ここは京都のらくそん大学の文学部。もう、若いのにボケててどうするのよ」

 「いいか川平、信号はちゃんと守れ。それからトラックに注意しろ」

 これは現実だ。今朝見た世界が夢なのだ。

 現に川平は生きている。私も生きている。しかしフラッシュバックは消えず、脳裏にはいつまでも、河平の血潮と鮮血の部屋が残っていた。

 (今は現実…なのか? いや―――私はまた夢を見ているのか?)

 私が今いる世界が夢だと仮定したら、この世界は私の目覚めと共に消滅するだろう。

 (それは駄目だ! 生存している川平まで消滅するなど、あってならない!)

 私は大学を出た。

 止めねば。この世界の消滅を、止めねば。



***



 その悲願は叶わなかった。

 川平小百合は死んだ。―――殺された。

 夜道を歩いていた時、何者かに暗がりに引き込まれ金品を奪われた挙句、殺された。

 世界は崩壊したのだ。

 (おしまいだ! この世界はもう終わった! 夢の終わりだ!)

 復讐など私にはできない。この身をもって世界を終わらせるのが、せめてもの報いだ。

 (今朝見た夢の私も、こうやって死んだのだ。川平の死を悼んで後を追った。ならば今の私も)

 “死んでしまえ!”


 夜桜の下で私はした。春の宵の美しい桜だった。

 




 目覚まし時計の号令が私を叩き起こした。

 小鳥が鳴いている。…どうやら朝らしい。腰をひねり、窓を開けて日差しを浴びた。

 「それにしても」

 おかしな夢だった。今こうやって日差しを浴びている今こそが夢なのではないかと思うほど、生々しく現実味のある夢だった。

 「さて、大学に行かなきゃな…」

 川平が待っている。私の唯一の友人であり、大切な幼馴染であり、家族のいない私のただ一つの繋がりなのだ。

 窓の外を蝶が舞っていた。

 紋白蝶はヒラヒラと翅を羽ばたかせ、どこか遠くの方に飛んでいった。 

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