episode 8
「ママ、ねぇママ。」
巧の声で我に返った。
聡が単身赴任になって、巧は急に大人びた気がする。
小学生になって環境が変わった事もあるのかもしれないけれど。
話し方もしっかりしてきたし、
行動も、衝動的に騒ぐような事も減ってきて
真面目に宿題に取り組んでいる姿は
見ていて大きくなったなあと実感する。
「ママ、パパね、クリスマスには間に合わないって。
28日に帰って来るって。
プレゼントはその時にだって。
サッカーの試合29日だよね。
パパ見に来てくれるって。」
矢継ぎ早に話す巧に、
なんだか申し訳なくなる
巧をパパから引き離したのは私。
今住んでるマンションだって賃貸だし、
仕事だってパートだし、
巧だって新学期から向こうの学校にだって
行けたんだけれど、
私のワガママで東京に残ったようなものだ。
友達と離れるのがかわいそうとか、
仕事が軌道に乗ってるとか、
九州で暮す自信がないとか、取って付けたような理由ばかり。
それでも、聡は一言も反論せず、
「分かってるよ、何年かの辛抱だから
俺が一人で行くのが当たり前だ。」
って言った。
当たり前なんかじゃない、分かってる。
「巧、寂しい?パパがいないと。」
聞くつもりはなかったのについ口をついた。
巧はちょっと困った顔をした。
余計なこと聞いちゃった。後悔したけれどもう遅い。
「ママもいなかったら寂しいよ。」
小学校一年生とは思えない返事が返ってきた。
「ごめん、嫌なこと聞いたね。」
そう言うと、ニコッと笑って
「テレビ付けていい?」
そう話を変えて来た。
子供に気を遣わせるなんて、私は最悪だな。
巧はテレビを付けて、お笑い番組にチャンネルを変えた。
テレビの中からは大きな笑い声。
家の中に寂しく響いた。
*******************
待ち伏せされた後は、
相沢加奈さんは、その後しばらくは静かだった。
でも、6月の終わりになって、
見知らぬメールアドレスからのメールが携帯に入った。
梅雨の晴れ間で、溜まってた洗濯物に
追われていたので、メールを開いたのは
2時間後だったが、その間に5通も入ってた。
全部タイトルは無題になっている。
古い方から開いて、私はその場に立ち尽くした。
さっさと別れればいいのに
その言葉が繰り返し入力されていた。
画面ぎっしりにその言葉が並ぶ。
あまりに狂気じみたメールに手が震えた。
震える手で2通目を開いた。
ムカつく、死ねよ。無視するな!
3通目は
あんたのせいで聡さんと付き合えないんだ、消えろ。
4通目からは開く事が出来なかった。
体が震えて止まらない。
あの人、会社にいるんじゃないの?
仕事中にこんなことやってるの?
私のアドレスどこから手に入れたの?
怖い、怖い・・・
湧きあがる恐怖感で、私は窓を全部閉めた。
玄関も鍵をかけ、カーテンを閉めた。
一気に部屋の気温が上がる。
もったいないけれどエアコンを入れて
震える指で聡にメールを入れた。
出来ればすぐにでも電話を入れてと。
時間は午前11時半。昼休みまでかかってこないと思ってたら
5分もかからず電話がかかってきた。
その着信音で私はびくっとした。
聡の名前を携帯の画面で確認して
「さ、聡?ごめん仕事中に。」
「いや、今まで実花がこんなメールしたことないし、
なんだ、何かあったのか?」
その声に、急に涙があふれて来た。我慢できない。
「どうした、実花。泣いてたら分からない。」
聡が電話の向こうで動揺したのが分かった。
メールすべきじゃなかったのかな。
仕事中だし、終わるまで我慢するべきだったのかな。
でも、怖くてたまらない。
どこかで私を見ているような気がした。
「どうしてあの人私のアドレス知ってるの?
怖い。会社にいるんじゃないの?」
ガタガタと自分が震えているのがわかる。
なんとことはない、ただのメールだ。でも怖い。
こんなの普通じゃない。
文字の羅列なのに、ただならぬ思いが感じ取れる。
「アドレスって?メールか?」
「うん。」
「実花、落ち着け。
そのメール、俺の携帯に転送できるか?」
「多分・・・」
聡がゆっくり言い聞かせるように言った。
「いいから、そのメールを俺に転送してくれ。
それからまた電話するから。泣くな実花。」
「うん。」
「じゃ、一回切るぞ。いいか落ちつけよ。」
そう言って電話が切れた。
私はキッチンの隅で小さくしゃがみこんで
そのメールを聡に転送した。
4通目と5通目は開かないまま転送した。
その日は開く勇気が出なかった。
私はそのまま、台所の隅でぼんやりしていた。
こんな事が私の身に起こるなんてね。
そうぼんやりと呟きながら。