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先輩と僕

作者: 八太烏

 先輩と僕


        ♪


 旧校舎の東階段前にあるこの理科準備室は、実験道具なんかがたくさん放置されている。しかし当の理科室は新校舎にあるので、授業で使う道具を理科準備室から持ってくるときは、理科委員である僕が一役買っている。

 いつの時間に入っても、この部屋は気持ちが悪い。朝に入ると差し込む朝日に照らされた、薬漬けのヘビが気持ち悪い。昼に入ると、今にも動き出しそうな人体模型が気持ち悪い。夜は……入ったことがないのでわからない。

 とにかく、僕は理科委員でありながら、こう言った実験器具が生理的に嫌いだった。

 しかし、悪いことだらけではないことも事実だ。

 ――ああ。今日もいる。

 僕は麗しい先輩の姿を見て、感嘆のため息を漏らした。長方形の事務机に胡坐で座り、行儀悪くパンを貪っている。何の感情も読み取れない、澄んだ湖のような眼をして、窓の外を注視している。カレーパンのカスがぽろぽろとこぼれて、弛んだスカートに降り注いでいる。

「先輩、こんにちは」

 先輩は僕の挨拶を華麗に無視した。相槌さえ打たない。きっと何か考え事をしているのだろう。我が校始まって以来の天才と謳われるこのお方が熟考することなんて、僕が想像できない難事であることは確定的だ。先輩は逡巡の後、ぽつりと漏らした。

「世の中で生きるのは、やっぱり色々めんどくさい」

「悟りすぎじゃありませんかね先輩」

 僕は高校一年生で、先輩は高校三年生だ。卒業まであと十二日と迫った三月六日。なんで僕なんかがこの人と、こんな風に親しげに会話できるのか、今でも信じられない。

 ――先輩と親しげになったきっかけは、僕が理科委員あらため理科道具発掘委員であったことだ。最初に、理科準備室で物憂げな顔をしながらパンを食む先輩を見つけた時は、理科の女神か何かが、やる気なく委員を務める僕を、お叱りに降臨したのかと真面目に考えた。しかし、そう言うわけでもないらしい。

 先輩は、「世の中で生きるのは色々めんどくさい」と言うのが口癖なほど、面倒臭がりな人なのだ。角が立たないよう、人付き合いを事務的に行っている先輩にとって、昼休みくらいは兜の紐を解いて、自分のペースでだらだらと過ごしたいらしい。なにせ、普段の彼女は、クラスメートからの人望も厚く、常に人垣を作りながら歩いている程著名な人物なのだ。

じゃあ、僕がいるのが邪魔なのかと訊けば、そうでもないらしい。

 彼女の考えでは、めんどくさいのは嫌だけど、寂しいのはその次に嫌らしい。自己矛盾しているような理論だが、分からなくもないなと頷いてしまう僕がいる。

 誰だって一人は嫌に決まっている。

 僕は人間離れした美貌を持つ先輩の横に座りながら、こんな完璧に体を持たせたような先輩にも、人間みたいな弱点があるんだなと思い返した。不意に、先輩が食べかけのカレーパンを僕に押し付けてきた。あと一口と言うところまで食べている。少しだけ、中のカレーが残っていた。

「これ、処理しといて」

 先輩はそう言い残すと、音もなく立ち上がる。僕は腕時計を確認した。昼休みが終わる時間まで、あと十五分近くある。まだ昼休みは終わる時刻では無いのに、何故だろう。

僕は先輩のカレーパンを食べようか捨てようか、しばらく悩んだ末、食べようと言う結果にいきついた。捨てるのはカレーパンを作ってくれた人に悪いし、くれた先輩にも悪い気がする。僕は先輩みたいに、視線を外に投げ出しながらパンを口に近付けた――ところで、手が止まった。放送部の女の子の声だ。

『三年c組 牧原幸恵さん。第一玄関まで来てください』

 牧原幸恵――先輩への呼び出し?

僕はカレーパンを机に置くと、窓を開け、身を乗り出して第一玄関の方向を眺望した。一組の夫婦が、男性教師と何事か口論していた。声は聞こえなかったが、身振り手振りから、激昂していることが分かる。

「あれって……先輩のご両親?」

 少し経って、先輩が玄関から出てきた。上履きを履いたままだ。先輩は教師に向かって何か言うと、頭を下げて、校舎に入らせた。僕は両親と先輩との会話の様子をただ見つめ続けた。

 先輩はときどき、弱弱しく頭を下げる。両親は唾をまき散らしながら先輩を罵倒する。あんな非力な先輩を初めて見た僕は、言葉を失った。とても同じ人物とは思えない。

 しかし、そこに失望の念は湧かなかった。純粋に、先輩をあそこまで追い込む両親への憤怒がこみ上げてくる。どんな理由かは知らないが、僕の敬愛する先輩を虐げるのだけはやめてほしい。先輩は僕の中で、もっとも崇高な人物であり続けるべきなのだ。

両親はがっくりと肩を落とすと、先輩を校舎に戻らせた。

 僕は、持っていたカレーパンを両親に投げつけてやろうかと考えた。来賓者用の駐車場へはこの教室のすぐ下を通らねばならない。いっそのこと、人体模型でも落としてやろうか。

 僕の人差し指と親指に摘ままれるカレーパンが、ひょいと何者かに摘出された。僕はあわてて振り返る。計画を悟られたかと思ったからだ。

いつの間にか戻ってきていた先輩が、僕の横にちょこんと腰かける。そして、肩口まで伸びた艶やかなく黒髪を、耳に掛けた。その動作が妙に色っぽい、彼女は僕から取り戻したカレーパンを嚥下する。

 僕は励ましの言葉を言えず、コブシを握りしめて座りなおした。机の冷たさが、僕の怒りを急に冷やす。結局、なにも言う事ができず俯いてしまった。僕は思いを人に伝えるのが得意な方ではないのだ。

 先輩が、口を開いた。

「……私は高校卒業したらアメリカの大学へ行くんだ」

 その噂は、僕の耳にも入っていた。信憑性が確かで無い情報だと、一笑の下捨て去っていたが、先輩の口から聞かされた以上、信じるしかあるまい。いや、その話を聞かされた時も、自分はそれが真実である事は知っていた。ただ、先輩の口から告げられるまで忘れようと意識していたのだ。

たしかに、先輩と離れ離れになるのは心苦しいが、僕は先輩が素晴らしい人間であることが世に認められたような気がして、少し嬉しかった。

「でも……私は日本にいたい。理科準備室にいたいんだ……」

 先輩はそう言って、机の上で体育座りした。

泣いているのだろうか。あの先輩が。

 僕はあまりにも先輩のイメージとかけ離れたその言動に、狼狽を隠せなかった。押しつけだということは分かっている。しかし、こんな風に、誰かに愚痴を漏らす先輩を、僕は正面から受け止めることができなかったのだ。

「先輩。良い学校へ行けると言うのは名誉なことなんですから……」

 先輩は僕に失意のまなざしを向けた。僕はその視線に耐えることができず、閉口した。

「お前まで……私にいなくなってほしいのか……?」

「そういうわけではありません。……僕だって、出来ることなら先輩とここでずっと昼食を食べて、のんびりしていたいです。……でも、本当に先輩の幸せを考えるなら……」

 先輩は両手を強く握りしめると、怒鳴った。

「本当に私の幸せを願うならッ! 行くなって……――ッ」

 先輩は最後、蚊の鳴くような声で言うと、僕のことを一睨みして机から立ち上がった。苛立ちに任せて、理科準備室に鎮座する人体模型を蹴り倒し、五臓六腑を丁寧にぶちまけてから、教室を出て行った。



 僕は、先輩の最後の言葉を何度も反芻した。反芻しているうちに、午後の授業が終わり、放課後が訪れた。馬鹿な僕がいくらニューロンを酷使しても、先輩の言葉の真意は掴めないままで、僕はただ、次に誰かが行動を起こすのを、指をくわえて待っているしかできない。

 ――先輩は、僕に止めてほしいのだろうか。

 そんな答えはとうに踏襲済みだ。この時期に進路の変更なんて出来るはずがない。親も止めるし、教師も止める。彼女の大学推薦はとうに内定しているのだ。あとは、アメリカの方へ荷物を送るのみ、学生寮もとってあるという。

 僕の一存で何ができるって言うんだ……。僕はいつも通り下駄箱を開けた。

 そこから、一通のメモが落ちた。素早くそれを取り上げ、目を通す。

『屋上』

 小さい、奇麗な字だ。この字には見覚えがある。牧原幸恵――先輩の文字だ。僕は喧嘩別れした先輩が心配だった。それは先輩も一緒なのだろう。僕はほっと短く息を吐いた。

 このままお互いに無干渉で卒業してしまうかもしれないと、僕は早くも焦心していたからだ。先輩もきっと、謝ってくれるだろう。

 

 僕は疑いもせず屋上へ行った。卒業式が近いため、最近は短縮授業が多い。今日もまた、午後三時には全時間割を終えていた。乾いた風が屋上に舞う。今日は三月にしては温かい方だが、まだまだ冬と言った気温だ。

 一陣の風が吹き、僕はぐっと身を縮めた。目を細め、タイルが敷き詰められた屋上の、安全柵を越えた先に居る牧原幸恵、僕の先輩を見た。


 先輩は一瞬、嘘のように舞いあがる。

そして、屋上の縁から、姿を消した。



「い、今、人、落ちたよな……!?」

 僕の思考を現実に引き戻したのは、僕の後からやって来ていた上級生の、戦々恐々とした声だった。上級生は僕にそう訊いた。しかし、僕が振り向くと、上級生は別の上級生とお互いの見たものが夢や幻でないことを確認していた。彼らは、階段を本当に転げ落ちるようにして降りて行った。

「……先……輩?」

 僕はまだ、目の前で起こったことが信じられなくて、ふらふらと安全柵に手をかける。そして、覗き込もうか止めようか、散々迷った挙句、柵を乗り越え、先輩が立っていた位置から下を覗き見た。

 現実が、そこには横たわっていた。

 僕は口を押さえると、あわてて身を戻した。なんとか吐くことは堪えたが、喉のところまで吐瀉物がせりあがっていた。そんなバカなこと、あの先輩が……。

 僕は視線を落とした。その場にぺしゃんと這いつくばる。震える体を押さえつけることができず、何回も、「先輩」という言葉を連呼した。その〈先輩〉の中に、〈牧原幸恵〉は亡くなっている。抑えようのない恐怖から、僕の全身の毛がざわめき立った。

 ふと、視線を落とすと、一通の手紙が落ちていた。

 青い便箋に入った物だった。

 僕はすぐにそれを制服の内ポケットに入れた。それが何であるか、僕は瞬時に理解してしまったからだ。やがて、僕は後からやって来た教師によって保健室に運ばれた。いくら呼び掛けても返事はなく顔は死人のように真っ青だったからだそうだ。やがて、親がやって来て、僕を家に連行した。その時、教師はこんなことを両親に言っていた。

「憧れの先輩が転落死したのを見てしまい、酷く動揺しているようです。二三日、休ませてあげてください」

 これは、事故じゃない。

 先輩は自殺してしまったんだ。僕は懐に忍び込ませた一通の遺書を、上着の上から押さえつけた。

 


 牧原幸恵の名は、一躍有名になった。と言っても、それは一過性のものだ。その美貌、学歴、不運な事故とくれば、マスコミが食いつかないはずがない。大きな記事に大きな写真が掲載され、先輩の死後には多くのファンがついた。

 そんな社会の動きを、僕は達観した様子で見守っていた。まだ、遺書は開封していない。今でも上着の内ポケットに入っている。

 僕が先輩にとって、寂しさを紛らわすための要員でしかないことは自覚している。だが、僕にとって先輩は、憧憬の対象だ。僕の憧れの人が、遺書を残して自殺をした弱い人間だなんて、誰にも言ってほしくない。

 今だって、社会が同情一色なのは、先輩が事故死したからで、自殺したからではないのだ。先輩が自殺したと言う事がばれたら、先輩は弱虫のそしりを免れることはできないだろう。そんなことになったら、僕は本当に、おかしくなってしまう。

 でも、だからって、遺書を隠すなんて非人道的だ。こんなことしたって、先輩が浮かばれるはずがない。――いや、頭の良い先輩のことだ。もしかしたら全てを読んで、遺書を仕掛けたのかもしれない。

自殺するなら、なぜ僕を屋上に呼んだ。それは……。

僕に復讐するため?

そんなはずない。確かに先輩とは少し喧嘩した状態だったけど、だからって、死に様を見せてトラウマを植え付けるなんて、先輩らしいやり方ではない。でも、自殺と言う行為自体が先輩らしいのかと訊かれれば、僕は首を縦に振ることはできなくて。

結局、僕はなにも決めることができず、先輩のお通夜の日――三月十日がやって来てしまった。


先輩のお通夜には、三年生全員と、親しかった下級生が参列していた。僕はどうにも、その列に入る気になれず、一人でさっさと会場に向かった。

 怖かった。あの時、覗きこんだ時と同じ状態で先輩がいたらどうしようかと思った。でも、眠っていたのは酷くきれいな顔をした、いつも通りの先輩だった。

 今にも、カレーパンを食べながら、にこやかに片手をあげて「世の中で生きるのは、やっぱり色々めんどくさいだろ? 葬式にも出なきゃいけないしね」と言って来そうで、僕は笑ってしまった。

 笑ったはずなのに、涙が止まらなくって、僕は呼吸が困難になるほどの激しい嗚咽に襲われた。こんなに泣いている人間は、両親を抜いたら僕だけかもしれない。

 先輩は常に僕の近くにいた。八方美人を通して、絶対に自分の心の奥まで人を近付けなかった先輩が、どう言う気まぐれか、凡人の僕を、誰よりも近くにいさせてくれた。そんな先輩だからこそ、僕は問いたい。

 ――この遺書を、僕は両親に渡すべきなんですか?

 先輩は、僕をどうして屋上に呼び、遺書の第一発見者にさせたのだろう。――僕は、こう結論付けた。先輩は、僕に遺書の行方を握らせるため、屋上に呼んだのだと。例え、今遺書をばらばらに引き裂いても、先輩は許してくれるだろうと。

 僕にとって都合のいい解釈なのかもしれない。しかし、先輩の姿を見た瞬間、覚悟は決まった。僕は、この遺書を何らかの方法で処理する。あの日、先輩に返してしまったカレーパンのようには行かない。僕が、何かをしなければ、遺書は消えないのだ。

 お焼香が終わり、僕はお通夜の会場から抜け出た。

 この遺書を誰が処理するのかは、決まった。しかし、どう処理するのかは未定のままだ。先輩の家から少し離れたところで、考え込んでいると、近くで教師の声がした。どうやら、あの集団もお焼香が終わり、現地解散となったようだ。僕だけ制服を着ていないので、みんなは同じ学校の生徒だと気付いていない。三年生が好き勝手に騒ぎ始めた。

「あ~あ。ったく、牧原も嫌な時期に死んでくれるよな」

「本当本当、それに、転落死なんて」

「そう言えば、自殺なんじゃないかって言う噂もあったな。その日の両親と大喧嘩してるのを放送部の子が見ててさぁ」

「ああ、聞いたことある――」

 どうして彼らはそんな酷いことが言えるのだろう。僕は強い憎悪を覚えた。その会話にどんどん人が集まって行く。みんな、先輩のことを使って遊んでいる。誰ひとり、止めようと言う人間はいない。

 なんで、つい先日まで、先輩を囲って笑っていたじゃないか。なのに、なんで居なくなってしまった人を嗤える。

 僕は酸素不足に近い感覚に陥った。目の前で起こっていることが、どんどん遠くなる。そして、音は遮断され、視界は暗転していった。


 そうか。僕は怒ってたんじゃない。キレたんだ。


 そう気付いた時には、名前も知らない先輩――いや、この言葉は彼女のためにある。こんな下衆に使うのは死んでしまった先輩への冒涜だ――二個上の男を、殴り倒した後のことだった。男は目を白黒させながら、路上に倒れこむ、僕は攻撃の手を緩めず、男のこめかみ辺りにローキックを打ちこんだ。

 もちろん、その後、僕は袋叩きに遭った。



僕が先輩と会って間もないころ。先輩は心の底から疲れていたように思える。口を開けば面倒臭いばっかりだったし、理科準備室の机の上で、体を丸めて眠っているシーンも多く見かけた。男の前で完全に無防備になる先輩もどうかと思うが、僕はなんだか、その行為が自分への信頼の証のような気がして、嬉しくてたまらなかった。

先輩は一度、こうぼやいたことがある。

「頭も顔も良くても、幸せになれないとはこれはどうなのよ」

「なんか、全人類を敵に回すような発言ですね」

 その頃は丁度、アメリカへの推薦の話が持ち上がって来た時だったと、記憶している。高校の全国模試で二位を取り、一気に脚光が浴びた時のことだ。

 頭の良い先輩は高校三年までその実力を隠して来ていたのだ。全く、凡人の僕には及ばない考えだ。

「私の将来の夢って知ってる? 医者だ、弁護士だ、科学者だって言われてるけど、私はただ、この疲れる渡世から隔離した環境で暮らしたいだけなのよ」

「ってことは、世捨て人とかですか?」

「……馬鹿にしてる?」

 先輩は頬を膨らませた。割と、真面目に推察しての発言だったため、僕は全力で「馬鹿になんかしてませんよ」と否定した。一度機嫌を損ねた先輩も、そこまで長くへそを曲げることはなく、なんとなく許してくれた。

 先輩は満面の笑みで言ったのだ。

「私は。ただ、好きな人と隔絶した空間で暮らせればいいのだよ。女バージョンのヒモだな」

「……素直に、〈お嫁さん〉って言えばいいのに……」

 僕は、先輩の口から好きな人と言う単語が出たことに、酷く焦心した。もし先輩に好きな人ができてしまったら、僕がここにいる必要はなくなってしまう。しかし、それ以降も先輩の恋愛事情に変化があったわけではなかった。相変わらず、朝には下駄箱からラブレターが降って来て、帰りにも、ラブレターが降ってくるといった状態だった。



 僕はびっこ引きながら、バス停を目指した。服はところどころ破れ、口内は血だらけだ。こんなんじゃ、天国にいる先輩に笑われるな。自嘲してみるが、口が切れているせいで、上手く笑えなかった。

 帰ったら、病院、行かなきゃな……。唐突に、僕は先輩の死に顔を思い出し、再び泣きたくなった。

愛別離苦の苦しみが、こんなに酷いものだとは思わなかった。両親は、時間が僕をいやしてくれると言うが、一世紀掛けても、この気持ちは変わらない気がした。

僕は懐から先輩の遺書を取りだし、それを眺める。

一体、先輩はどう言う思いで遺書を書いたのだろう……。

疲れで弱まった握力から、手紙が逃れた。それは道路寸前で止まる。――こんなことで遺書をおじゃんにしたら、それこそ恨まれる! 僕は滑り込むように手紙を取った。その時、封が破れ、手紙が少しだけ飛び出した。

こんな、ろくな葛藤もせず開けてしまうなんて……。僕は早くも泣きたい気持ちでいっぱいになったが、手紙に隠されていた宛名を読んで、目を見張った。

『親愛なる後輩へ』

 ……これは、全後輩に向けて行っている言葉じゃない。

 僕に向けられた言葉だ。


バス停に一脚だけとりつけられている長椅子の中央に、ちょこんと座り、僕は遺書を開いた。僕宛の遺書ならば、問題あるまい。



『親愛なる後輩へ


 まず一つ言わせてもらう。先日は突然怒って、すまなかった。私にも、少しばかりの負い目があったと思う。責任の九割はお前にあるが、一割は私の物だ。それについては謝る。

 こんなことになって驚いていると思う、いや、私が一番驚いている。まさか、私から告白する破目になるとはな。


 初めて会った時、「あ~あ。私のイメージが崩壊するなぁ」って思いながら、カレーパンを食べてた。なにせ、学校一の美少女が、胡坐をかきながらパンを貪るなんて、狂気の沙汰としか思えないだろ?

 でも、お前は全く私に先入観なく接してくれた。っま、その直後に「パンツ見えますよ」はカチンと来たけどな。今となっては良い思い出だ。

 まだまだ言う事があるが、もうそろそろウンザリしているようだから止めておく。云いたいことは最初から一つだけだ。



 私がつらい時、お前はいつでも、私のそばにいてくれた。

 本当の私を容認してくれた。笑ってくれた。

 アメリカに行っちゃったらもう、言えないと思うから、今伝える。

 私は、お前を初めて見たその時から、君に夢中なんだ』



 これは、遺書なんかじゃない。

これは、ラブレター(・・・・・)だ。

 僕は遺書――あらため恋文を握る手が震えるのを感じた。

 先輩が僕を屋上に呼んだのは、遺書を託すためではない。――告白するためだったんだ。きっと、あの時、先輩はラブレターを何かの間違いで、柵の向こう側に落としてしまったんだ。そこに風が吹いて……。

 結局、僕は最後まで先輩の恋に気付いてあげられなかった。先輩は、口を開けば「面倒臭い」って人だったから……、だから、そんな人間が、〈面倒臭い〉の塊である恋をするなんて、僕は絶対にないものだと考えていた。先輩は、アメリカに行きたくなかったんじゃなくて、僕と……離れたくなかったのか?

 僕は力なく笑うと、バス停の時刻表に激しく頭突きした。

「……僕だって……僕だって離れたく無かったッ! 言えるなら、行くなって、言いたかったんだよッ! ……でも……」

 怖かった。

 先輩の人生に介入するのが、怖かった。

 先輩の人生を滅茶苦茶にしてしまいそうで、怖かった。

先輩を……幸せに出来そうもなくて……怖かった。

 こんな最悪の結果が待っているのなら、僕は顧みず告白した。先輩の両親に哀願して、懇願して、醜態をさらしまくって、先輩が、僕の隣にいられるよう、全力で手配した。

 でも、それはもう、できない。

 先輩は天国に行ってしまった。こんな遺書紛いなラブレターで、最後まで僕を困らせて。


 そう言えば、先輩の夢は、お嫁さんだったな。

 叶えてあげたかったな。

 その夢。


 鼻水が止まらない。涙も止まらない。 全てはこの一通の手紙、もとい、先輩のせいだ。

 どこかから声が聞こえた気がした。

「な? 面倒だろ」その声はとても先輩に似ているような気がして、僕は悲しみを噛み殺しながら「上はどうですか?」と尋ねた。その声は小さく笑った後「お前の隣の方が良かった」と呟いた。






こんにちは。八太烏です。

あとがきは面倒なので、手短に……。

今作品はどこかに応募しようかなぁと考えながらも、最後までパソコンのフォルダに残っている作品です。お楽しみいただけたでしょうか。


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