悪役令嬢の私が、スキル【封印】で暗殺されそうな婚約者の王子を宝石に閉じ込めて持ち歩く
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起 毒杯と琥珀
シャンデリアの光が、やけに眩しい。
王宮の大広間。建国記念の夜会。グラスの触れ合う音と、上品な笑い声と、私だけを避けて流れていく人の輪。
ぜんぶ知っている。この夜会は、前世で三周した乙女ゲーム『星冠のアリア』の、第一章の山場だ。
そして私、クラリス・ベルンシュタインは、そのゲームの悪役令嬢である。
今夜、婚約者のエルヴィン第一王子は、乾杯の葡萄酒を飲んで倒れる。毒だ。犯人にされるのは私。理由は簡単で、私が「不吉」だからだ。
ベルンシュタイン侯爵家は、代々王家の牢番を務めてきた。罪人を閉じ込める家。その血にまれに現れるのが、スキル【封印】――生き物を宝石の中に閉じ込める力だ。
十歳の鑑定式でそれが出たとき、母は泣き、父は黙り、周囲は「罪人を閉じ込めるしか能のないハズレスキル」と囁いた。以来十年、私の渾名は「牢番令嬢」である。
前世の記憶が戻ったのは三か月前。それから毒の出どころを探ったけれど、証拠はひとつも掴めなかった。誰に訴えても、牢番令嬢の妄言で終わる。
だから今夜、私にできることはひとつしかない。
封印の中では、時が止まる。毒も刃も届かない。家の帳面にはそう書いてあった。罪人を生かしたまま閉じ込めておくための力なのだから、当然だ。
人間に使ったことは、一度もないけれど。
原作のスチルは、今でもはっきり覚えている。殿下は乾杯の一口目で杯を取り落とし、そのまま床に崩れる。駆け寄った給仕が杯を拾い、たまたま近くにいた私の手に押しつける。次の場面で、私は毒杯を握った犯人として取り押さえられている。
杯を叩き落とすだけでは足りない。毒は、次の杯に入るだけだ。だったら今夜ひと晩、殿下を誰の手も届かない場所に置けばいい。
「――皆、杯を」
壇上で、エルヴィン殿下が葡萄酒の杯を掲げた。
金の髪。穏やかな声。誰にでも等しく向けられる微笑み。外の殿下は、いつだって完璧だ。婚約者の私にさえ、礼儀正しくて、温度のない笑顔しかくれない。
別に、それでいい。好かれたくてここにいるわけじゃない。死なせたくないだけだ。……死なれたら、私も処刑されるし。
私はドレスの裾をつかんで、人の輪を割った。
「殿下。その杯、お待ちください」
殿下がこちらを見た。わずかに眉が上がる。周囲がざわつく。牢番令嬢が、また何か。
杯の縁が、殿下の唇に触れかけた。
説明している時間はない。私は壇上に駆け上がり、殿下の手首をつかんだ。
「失礼いたします。――【封印】」
光が弾けた。
次の瞬間、殿下の姿はどこにもなかった。私の掌に、親指の先ほどの宝石がひとつ、転がっているだけだ。
蜂蜜を固めたような、澄んだ琥珀色。我が家の名と同じ色の石。
支えを失った杯が床に落ち、絨毯に赤い染みが広がった。
一拍おいて、悲鳴が上がった。
「殿下が消えた!」
「牢番令嬢だ、あの女が殿下を――!」
「ハズレスキルよ。殿下を閉じ込めたんだわ」
「だから牢番の家など、王家に近づけるべきではなかったのだ」
人垣が割れ、銀の鎧が進み出る。騎士団長ガレス・ドレイク。原作で、私を断頭台に引きずっていく人だ。
「クラリス嬢。殿下をどこへやった」
「毒です。殿下の杯に毒が入っていました。だから、やむを得ず――」
私は足元を指さした。
そこには、赤い染みしかなかった。
杯がない。ほんの数秒前まで転がっていたはずの杯が、跡形もなく消えている。人垣の向こうで、銀盆を抱えた給仕の背中が、扉の陰へ吸い込まれていくのが見えた。
――持っていかれた。
「毒、だと?」
ガレス団長の声は低く、冷たい。周囲の目も同じ温度だった。
わかっている。悪役令嬢の言葉なんて、誰も信じない。証拠の杯もない。絨毯の染みを調べさせたところで、結果が出る前に私は牢の中だ。あるのは、王子が牢番令嬢のハズレスキルで目の前から消えた、という事実だけだ。
「殿下を返せ。今すぐだ」
「……ええ、もちろん」
私は宝石を握り、解除を念じた。
石は冷たいまま、うんともすんとも言わない。
もう一度。やはり、何も起きない。
背筋が冷えた。牢番の家に伝わる古い帳面の一節を、私は甘く見ていた。
――封じられし者、自ら出ることを望み、封じ手これを許すとき、封は解ける。
私が許すだけでは足りない。中の殿下が、心から「出たい」と望まなければならない。そんなもの、出してやると言えばすぐに望むだろうと、高をくくっていた。
そして殿下はたぶん、いま自分の身に何が起きたのかすら、わかっていない。
「返せないのか」
ガレス団長が、剣の柄に手をかけた。騎士たちが左右に散り、私を囲みにかかる。
捕まれば終わりだ。宝石は取り上げられ、私は牢へ。原作どおりの断頭台が、少し早まるだけ。
でも、あいにく私は、このゲームを三周している。
王宮の抜け道は、全部頭に入っているのだ。
私は宝石を胸元に押し込み、燭台を蹴り倒した。蝋燭が絨毯を転がり、騎士たちが一瞬ひるむ。その隙にバルコニーへ。手すりを越え、蔦をつかみ、夜の庭へ滑り降りる。
「追え! 牢番令嬢を逃がすな!」
背後で怒号が響く。私は靴を脱ぎ捨て、生け垣の迷路へ飛び込んだ。
息が上がる。心臓がうるさい。胸元で、宝石だけがひやりと冷たい。
その宝石が、かすかに震えた。
「……ここ、どこ?」
承 花畑と雷
声は、胸元から聞こえた。正確には、頭の中に直接響いた。
私は生け垣の陰にしゃがみ込み、宝石を引っぱり出した。
「宝石の中です、殿下」
「宝石」
「私のスキルで、殿下を封じました」
「ふうん。……で、なんで僕は閉じ込められてるの。三行で説明して」
一瞬、誰の声かわからなかった。
あの穏やかで品のいい王子様の声が、寝起きのようにだらけている。
「……殿下の杯に毒が入っていました。飲む直前に封印しました。その結果、私が殿下を消した犯人として追われています」
「へえ」
「驚かないんですか」
「毒は今月三回目だし」
さらりと言われて、言葉に詰まった。原作では語られなかった数字だ。
「それより君、本当にクラリス? いつも澄ました顔で、僕のことなんか石ころみたいに見てる、あのクラリス?」
「その石ころに入っているのは殿下です」
「うわ、うまいこと言う」
「……殿下、お静かに。いま逃げているので」
「僕の声、外に漏れるの?」
「いいえ。殿下の声は、封じた私にしか聞こえません」
「じゃあ問題ないじゃん」
「問題は、私が独り言を言っているように見えることです」
実際、生け垣の切れ目で、夜回りの庭師の老人が口をあんぐり開けてこちらを見ていた。夜会のドレスで、裸足で、宝石に向かって小声で話しかける令嬢。どう見ても正気ではない。
「……よい夜を」
私は会釈して、老人の横を走り抜けた。背後で、ランタンの落ちる音がした。
「今の、絶対あとで噂になるよ。牢番令嬢、ついに石と喋る」
「誰のせいだと思っているんですか」
足音が近づいてきた。私は宝石を握り込み、生け垣の奥へ身をかがめて走った。庭師の物置の裏に、古い排水路の入口がある。三周目で見つけた隠しルートだ。
鉄格子を外し、暗い水路へ潜り込む。湿った石の匂い。ドレスの裾が水を吸って重い。
「殿下。今すぐ出してさしあげます。出たいと、強く望んでください」
「やだ」
「は?」
「ここ、快適なんだよね。暗殺者いないし、公務ないし、朝の謁見もないし。お腹も空かないし、疲れもしない。最高じゃない?」
「殿下が出てこないと、私の冤罪が晴れないんです!」
「それは困ったね」
「困っている声に聞こえません!」
言った瞬間、手の中の宝石が、ぴしりと光った。
「わ。急に雷。なにこれ」
私は宝石を目の高さに掲げた。
親指の先ほどの琥珀が、内側から淡く光っていた。その奥に、小さな世界があった。黒い雲が渦を巻き、針のように細い稲妻が走っている。その真ん中で、豆粒ほどの人影が、のんきに空を見上げていた。
帳面の一節を、また思い出す。封じ手の心は、石の内に景色として映る。
「……殿下。それ、たぶん私の機嫌です」
「君の?」
「封印した者の心の状態が、中の景色になるそうです。怒ると嵐、とか」
沈黙が落ちた。
嫌な沈黙だった。
「つまり、君の考えてること、ぜんぶ僕に見えるってこと?」
「見えるのは景色だけです」
「十分だよ。面白くなってきた」
雷が一段と激しくなった。殿下はなぜか、それを楽しそうに眺めている。
水路の上を、重い足音が通り過ぎていく。騎士たちだ。私は息を殺した。話し声がするが、石に反響してよく聞き取れない。
「『夜明けまでに見つからなければ、ベルンシュタイン侯爵家ごと拘束する』だって」
殿下が、何でもないことのように言った。
「……聞こえるんですか」
「うん。中のほうがよく聞こえるみたい。外の音、全部筒抜け」
足音が遠ざかる。私は水路の壁にもたれ、ずるずると座り込んだ。
家ごと、拘束。父も母も、私のせいで。
「……三か月も準備したのに」
声に出ていた。
「三か月?」
「なんでもありません」
「なんでもないなら、なんでこっち、冷たい雨が降ってるの」
覗き込むと、琥珀の中の小さな世界は、灰色の雨に沈んでいた。最悪だ。隠し事のひとつもできやしない。
「……三か月前から、今夜殿下が毒を盛られると知っていました。誰に言っても信じてもらえないので、一人で準備していただけです」
「どうやって知ったの」
「秘密です」
「ふうん」
殿下はそれ以上、聞かなかった。代わりに、少しだけ柔らかい声で言った。
「誰にも信じてもらえないのに、一人で僕を助けようとしたんだ。……ありがと。助かった」
――外の殿下は、一度だって、私にそんな声を出さなかった。
胸の奥が、ふっと緩んだ。
手の中で、宝石がぽうっと温かく光った。
「……あれ」
雨が止んでいた。雲が割れ、柔らかな日が差し、足元から次々と花が咲いていく。白、薄紅、黄色。小さな世界が、見る間に一面の花畑に塗り替えられていく。
その真ん中で、豆粒ほどの殿下が、こちらを見上げていた。
「花畑になった」
「……気のせいです」
「怒ると嵐なんでしょ。じゃあ、これは?」
「知りません」
「僕は知ってる気がするなあ」
殿下は花の中に寝転がり、ひどく満足そうに言った。
「君、僕のこと好きでしょ」
「好きじゃありません!」
ばり、と雷が落ちた。
花畑の上に。
「すごい。晴れてるのに雷が鳴ってる。器用だね、君」
「黙ってください!」
「花、まだ増えてるけど」
「増えてません!」
増えていた。
私は宝石を握り込んで、視界から消した。顔が熱い。水路の中で本当によかった。誰にも見られずに済む。
――中の一人を除いて。
「まあ、そういうわけだから」
殿下は欠伸まじりに言った。
「僕はしばらくここで寝てるよ。花畑、気持ちいいし」
「出る気、ないんですね」
「今のところはね」
ため息をついて、私は立ち上がった。夜明けまでに、どこか安全な場所へ。それから、この怠惰な王子様を外へ引きずり出す方法を考える。
水路の出口が、月明かりにぼんやりと白んでいた。
その光の中に、人影がひとつ、立っていた。
黒い外套。顔を覆う布。騎士の鎧ではない。手には、月光を鈍く弾く短剣。
「探したぞ、牢番令嬢」
男の声は、ひどく静かだった。
「その宝石を渡してもらおう。――中身ごと、砕かせてもらう」
転 満開
私は一歩下がった。踵が水を踏む。
振り返ると、水路の奥にも、ランタンの灯りがひとつ揺れていた。
「お嬢様。靴をお忘れですよ」
灯りの下で、男が片手に私の靴をぶら下げていた。庭に脱ぎ捨てた、あの靴だ。
見覚えのある顔だった。夜会で、銀盆を抱えて扉の陰に消えた給仕。
「足跡を追うのは簡単でした。裸足の令嬢は、なかなか見かけませんので」
前に刺客、後ろに給仕。水路の幅は、人が二人すれ違えるかどうか。逃げ道はない。
「……ねえ、クラリス。これ、まずい?」
「とても」
小声で答えると、刺客が首を傾げた。
「石と話しているのか。さすがは牢番の娘だ、気味が悪い」
刺客は短剣の切っ先で、私の胸元を指した。
「牢番の家の封印石は、砕けば中身ごと死ぬ。昔は、それで罪人を処刑したそうだな。便利な力だ」
知っている。だからこそ、このスキルは不吉と呼ばれてきたのだ。
私は呼吸を整えた。考えろ。時間を稼げ。
「騎士団が、すぐそこまで来ています。ここで私を殺せば、あなたたちも――」
「騎士団なら、東の門だ」
刺客があっさり遮った。
「牢番令嬢は東へ逃げた、と親切な誰かが教えてやった。今ごろ見当違いの森を這い回っている」
はったりは通じない。準備のいい相手だ。私の三か月より、ずっと。
「空、暗くなってきたよ」
殿下が、のんきに言った。宝石を覗く余裕はない。でも、見なくてもわかる。琥珀の中の小さな空は、灰色の雲に塗りつぶされているはずだ。
「怖いの?」
「怖くありません」
「雷、鳴らないね。怒ってないってことは、やっぱり怖いんだ」
「黙っていてください。今、考えているんです」
頭の中で、冷静な私が計算を始める。宝石を渡せば、殿下は死ぬ。私は口封じに殺される。渡さなくても、たぶん殺される。どちらに転んでも、助かる道はない。
「クラリス」
殿下の声が、静かに響いた。
「渡しなよ。中は時間が止まってるから、砕かれてもたぶん痛くない。君だけでも、命乞いすれば――」
「嫌です」
口に出していた。刺客が眉をひそめる。
「何だと?」
「お断りします、と申し上げました」
刺客は鼻で笑い、給仕のほうへ顎をしゃくった。
「杯はどうした」
「あの方のもとへお届けしました。中身ごと」
「処分しろと言ったはずだ」
「ご自分の目で確かめたい、と。念の入ったことです」
「まあいい。王子が毒で死ねば、毒を盛ったのは牢番令嬢。王子が石ごと砕ければ、王子を殺したのも牢番令嬢。どちらに転んでも、あの方の手は汚れない」
二人とも、私の前で平然と話している。どうせ死ぬ娘に聞かれても構わない、ということだ。
そして、石の中にも聞こえているとは、思いもしていない。
「――全部、聞こえた」
殿下の声から、だるさが消えていた。
その声に背中を押されるように、私は動いた。
足元の水を蹴り上げ、給仕のランタンに浴びせる。火が消え、水路の奥が闇に沈んだ。その隙に、刺客の脇をすり抜けようとして――
髪を、つかまれた。
引き倒され、石の床に膝を打ちつける。目の前に火花が散った。
刺客がのしかかってくる。私の手首をつかみ、指をこじ開けようとする。私は宝石を握ったまま身をよじり、石の床にうずくまった。両腕で胸元を抱え込み、背中を丸める。
「放せ」
「嫌です」
肩に、焼けるような痛みが走った。短剣が掠めたのだと、遅れてわかる。
合理的に考えるなら、ここで手を放すべきだ。どうせ助からないのだから、せめて痛みの少ないほうを選べばいい。
なのに、指が動かない。
死なれたら私も処刑されるから。そんな理屈は、もうどこにもなかった。
この人に、死んでほしくない。それだけだった。
顔も知らない誰かに毒を盛られて。それでも夜会では完璧に笑って。誰も信じていないみたいな顔で、宝石の中なら快適だと言う、この怠惰で、口の減らない王子様に。
「クラリス、もういい。放して」
「放しません」
二度目の痛みが、背中に来た。歯を食いしばる。
胸に押し当てた宝石が、熱い。
指の隙間から、光があふれていた。金色の、蜂蜜みたいな光。水路の暗い壁が、ぼうっと照らし出される。刺客が一瞬、手を止めた。
「……クラリス」
殿下の声が、かすかに震えていた。
「満開だよ」
見なくても、わかった。
「花が、空まで咲いてる。地平線の向こうまで、全部。……見たことない。こんなの」
言わないでほしかった。そんなこと、私がいちばんよく知っている。
刺客が舌打ちし、短剣を逆手に持ち替えた。柄頭で、私の腕ごと宝石を叩き割るつもりだ。
その瞬間、頭の中に、殿下の声が響いた。
さっきまでのだらけた声でも、夜会の完璧な声でもない。初めて聞く、低くて、まっすぐな声。
「クラリス。――出たい」
結 たまには
出たい、と。
この人が、自分からそう言った。
「――許します」
答えた瞬間、腕の中で宝石が弾けるように光った。
金色の光が水路いっぱいに広がり、目を開けていられない。石の熱がすっと引き、代わりに、誰かの体温がすぐそばに立った。
「僕の婚約者から、手を離してもらおうか」
穏やかで、品のいい声。夜会で聞き慣れた、完璧な王子様の声。
光が収まると、エルヴィン殿下が、刺客の手首をつかんでいた。刺客の手から短剣が落ち、水の中で小さく跳ねる。
「な……ぜ、出て……」
刺客が呆然と呟いた、そのとき。
水路の入口から、いくつものランタンの光がなだれ込んできた。
「いたぞ! こっちだ!」
銀の鎧。先頭にいるのは、ガレス団長だった。その後ろで、夜回りの庭師の老人が、腰を抜かしそうになりながら水路を指さしている。
「あ、あの娘です! 石と喋りながら、こっちへ……!」
あの人が、騎士団を呼んだらしい。東の門へ向かったはずの騎士団を。
逃げようとした給仕が、あっという間に取り押さえられる。ガレス団長は殿下の姿を認めて目を見開き、それから、うずくまった私へ剣先を向けた。
「殿下、ご無事で……! その女から離れてください」
「剣を下ろせ、ガレス」
殿下の声は静かだった。それなのに、騎士たちが一斉に動きを止めた。
「彼女は、僕の命の恩人だ。夜会の杯には毒が入っていた。彼女は飲む直前に僕を封印し、ここまで守り通した。――この男たちの話も、石の中で全部聞いていた」
殿下は、刺客と給仕を順に見た。
「『王子が毒で死ねば、毒を盛ったのは牢番令嬢。王子が石ごと砕ければ、王子を殺したのも牢番令嬢。どちらに転んでも、あの方の手は汚れない』」
一字一句、そのままだった。刺客の顔から、血の気が引いていく。
「石の中から、聞こえるはずが……」
「聞こえるんだよ。外の音、全部筒抜け」
ほんの一瞬だけ、宝石の中のだらけた口調が混じった。私以外、誰も気づかなかったと思う。
「その給仕は、夜会の杯を持ち去った。中身ごと、『あの方』のもとへ届けたそうだ」
ガレス団長が、ゆっくりと剣を下ろした。私を見る目が、変わっていた。
「……『あの方』とは、誰です」
「それは、陛下の前で話す」
殿下は即座に答えた。取り押さえられた給仕が、くつくつと喉の奥で笑った。
「殿下は、とうにご存じでしょうに」
殿下は何も答えなかった。夜会のときと同じ、完璧な微笑みを浮かべていた。
その笑顔が、宝石の中のどんな景色よりも冷たく見えて、私は思わず殿下の袖をつかんでいた。
殿下はちらりとこちらを見下ろし、それから膝をついて、私を抱き上げた。
「ちょっ……殿下、自分で歩けます」
「背中、切られてるでしょ。黙って運ばれて」
騎士たちに聞こえない、小さな声。宝石の中の声と、同じ声だった。
殿下の腕の中で、私は自分の肩口を見下ろした。ドレスが裂け、血が滲んでいる。思っていたより、ずっとひどい。
「……ごめん」
「殿下が謝ることでは」
「僕がもっと早く『出たい』って言ってれば、こうはならなかった」
殿下の顎の線が、こわばっていた。宝石の中の、豆粒みたいな姿からは見えなかった顔だ。……当たり前か。中にいた間、景色が変わるのは私のほうだけだったのだから。
この人の本心は、顔を見なければわからない。
三日後。私の冤罪は、正式に晴れた。
王子を救った封印の令嬢。王宮の噂は、一晩で手のひらを返した。「ハズレスキル」と囁いていた令嬢たちは、廊下で私とすれ違うたびに目を逸らし、顔色を悪くしている。ガレス団長は私の前に膝をつき、騎士団の名で謝罪した。正直、少しだけ胸がすいた。
中でも傑作だったのは、伯爵令嬢のマルガレーテだ。鑑定式の日から十年間、私を「牢番の娘」と呼び続けてきた彼女が、昨日、両手いっぱいの薔薇を抱えて見舞いに来た。
「クラリス様のスキルは、本当に素晴らしいものでしたのね。わたくし、前々からそう思っておりましたの」
「そうですか。では、十年分の『牢番の娘』は、どなたのお言葉でしたの?」
マルガレーテの笑顔は、薔薇より先にしおれた。
ただ、「あの方」の名は、どこにも出なかった。
給仕は牢の中で口を閉ざしたまま。刺客は翌朝、騎士団の牢で冷たくなって見つかった。そして毒の杯は、王宮のどこからも出てこなかった。
殿下が陛下の前で何を話したのか、私は知らない。
「ここにいたんだ」
夜。王宮のバルコニーで風に当たっていると、殿下がやってきた。手すりにもたれ、大きく伸びをする。外の殿下とは思えない、だらしない格好だ。
「……『あの方』は、誰なんですか」
「さあね」
殿下は、夜会の微笑みではなく、宝石の中の声そのままの、気の抜けた顔で笑った。
「でも、外はしばらく物騒だ。毒も刃も、まだまだ来ると思う」
「……ひとつ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「あのとき、どうして急に『出たい』と思ったんです。あれほど、中が快適だと言っていたのに」
殿下は少し考えて、手すりに頬杖をついた。
「花が、空まで咲いたでしょ」
「……覚えていません」
「僕は覚えてる。あんなの、外で一度も見たことなかった。誰かが僕のために、あんなふうに本気になってくれたことも」
殿下は、夜風に目を細めた。
「中にいたら、君の顔が見えないんだよ。景色はわかっても、その景色を咲かせてる顔が見えない。……それが急に、我慢できなくなった」
返事ができなかった。
私は手の中の琥珀を見下ろした。空っぽになった石は、今はただの綺麗な宝石だ。
「だからさ」
殿下が、その石を指でつついた。
「たまには戻ってもいい?」
「……は?」
「中、快適だったし。それに」
殿下は、私の顔を覗き込んだ。
「あそこにいると、君が何考えてるか、全部わかるから」
「お断りします!」
叫んでから、気づいた。殿下は、心底楽しそうに笑っている。
「景色、見なくてもわかるよ。今、満開でしょ」
私は琥珀を握りしめて、そっぽを向いた。
頬が熱いのは、夜風のせいだ。たぶん。
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