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悪役令嬢の私が、スキル【封印】で暗殺されそうな婚約者の王子を宝石に閉じ込めて持ち歩く

掲載日:2026/10/06

絶対に評価ポイント、ブックマークお願いします。

人気が出たら、連載版も考えているのでコメント感想お願いします。

起 毒杯と琥珀

 シャンデリアの光が、やけに眩しい。

 王宮の大広間。建国記念の夜会。グラスの触れ合う音と、上品な笑い声と、私だけを避けて流れていく人の輪。

 ぜんぶ知っている。この夜会は、前世で三周した乙女ゲーム『星冠のアリア』の、第一章の山場だ。

 そして私、クラリス・ベルンシュタインは、そのゲームの悪役令嬢である。

 今夜、婚約者のエルヴィン第一王子は、乾杯の葡萄酒を飲んで倒れる。毒だ。犯人にされるのは私。理由は簡単で、私が「不吉」だからだ。

 ベルンシュタイン侯爵家は、代々王家の牢番を務めてきた。罪人を閉じ込める家。その血にまれに現れるのが、スキル【封印】――生き物を宝石の中に閉じ込める力だ。

 十歳の鑑定式でそれが出たとき、母は泣き、父は黙り、周囲は「罪人を閉じ込めるしか能のないハズレスキル」と囁いた。以来十年、私の渾名は「牢番令嬢」である。

 前世の記憶が戻ったのは三か月前。それから毒の出どころを探ったけれど、証拠はひとつも掴めなかった。誰に訴えても、牢番令嬢の妄言で終わる。

 だから今夜、私にできることはひとつしかない。

 封印の中では、時が止まる。毒も刃も届かない。家の帳面にはそう書いてあった。罪人を生かしたまま閉じ込めておくための力なのだから、当然だ。

 人間に使ったことは、一度もないけれど。

 原作のスチルは、今でもはっきり覚えている。殿下は乾杯の一口目で杯を取り落とし、そのまま床に崩れる。駆け寄った給仕が杯を拾い、たまたま近くにいた私の手に押しつける。次の場面で、私は毒杯を握った犯人として取り押さえられている。

 杯を叩き落とすだけでは足りない。毒は、次の杯に入るだけだ。だったら今夜ひと晩、殿下を誰の手も届かない場所に置けばいい。

「――皆、杯を」

 壇上で、エルヴィン殿下が葡萄酒の杯を掲げた。

 金の髪。穏やかな声。誰にでも等しく向けられる微笑み。外の殿下は、いつだって完璧だ。婚約者の私にさえ、礼儀正しくて、温度のない笑顔しかくれない。

 別に、それでいい。好かれたくてここにいるわけじゃない。死なせたくないだけだ。……死なれたら、私も処刑されるし。

 私はドレスの裾をつかんで、人の輪を割った。

「殿下。その杯、お待ちください」

 殿下がこちらを見た。わずかに眉が上がる。周囲がざわつく。牢番令嬢が、また何か。

 杯の縁が、殿下の唇に触れかけた。

 説明している時間はない。私は壇上に駆け上がり、殿下の手首をつかんだ。

「失礼いたします。――【封印】」

 光が弾けた。

 次の瞬間、殿下の姿はどこにもなかった。私の掌に、親指の先ほどの宝石がひとつ、転がっているだけだ。

 蜂蜜を固めたような、澄んだ琥珀色。我が家の名と同じ色の石。

 支えを失った杯が床に落ち、絨毯に赤い染みが広がった。

 一拍おいて、悲鳴が上がった。

「殿下が消えた!」

「牢番令嬢だ、あの女が殿下を――!」

「ハズレスキルよ。殿下を閉じ込めたんだわ」

「だから牢番の家など、王家に近づけるべきではなかったのだ」

 人垣が割れ、銀の鎧が進み出る。騎士団長ガレス・ドレイク。原作で、私を断頭台に引きずっていく人だ。

「クラリス嬢。殿下をどこへやった」

「毒です。殿下の杯に毒が入っていました。だから、やむを得ず――」

 私は足元を指さした。

 そこには、赤い染みしかなかった。

 杯がない。ほんの数秒前まで転がっていたはずの杯が、跡形もなく消えている。人垣の向こうで、銀盆を抱えた給仕の背中が、扉の陰へ吸い込まれていくのが見えた。

 ――持っていかれた。

「毒、だと?」

 ガレス団長の声は低く、冷たい。周囲の目も同じ温度だった。

 わかっている。悪役令嬢の言葉なんて、誰も信じない。証拠の杯もない。絨毯の染みを調べさせたところで、結果が出る前に私は牢の中だ。あるのは、王子が牢番令嬢のハズレスキルで目の前から消えた、という事実だけだ。

「殿下を返せ。今すぐだ」

「……ええ、もちろん」

 私は宝石を握り、解除を念じた。

 石は冷たいまま、うんともすんとも言わない。

 もう一度。やはり、何も起きない。

 背筋が冷えた。牢番の家に伝わる古い帳面の一節を、私は甘く見ていた。

 ――封じられし者、自ら出ることを望み、封じ手これを許すとき、封は解ける。

 私が許すだけでは足りない。中の殿下が、心から「出たい」と望まなければならない。そんなもの、出してやると言えばすぐに望むだろうと、高をくくっていた。

 そして殿下はたぶん、いま自分の身に何が起きたのかすら、わかっていない。

「返せないのか」

 ガレス団長が、剣の柄に手をかけた。騎士たちが左右に散り、私を囲みにかかる。

 捕まれば終わりだ。宝石は取り上げられ、私は牢へ。原作どおりの断頭台が、少し早まるだけ。

 でも、あいにく私は、このゲームを三周している。

 王宮の抜け道は、全部頭に入っているのだ。

 私は宝石を胸元に押し込み、燭台を蹴り倒した。蝋燭が絨毯を転がり、騎士たちが一瞬ひるむ。その隙にバルコニーへ。手すりを越え、蔦をつかみ、夜の庭へ滑り降りる。

「追え! 牢番令嬢を逃がすな!」

 背後で怒号が響く。私は靴を脱ぎ捨て、生け垣の迷路へ飛び込んだ。

 息が上がる。心臓がうるさい。胸元で、宝石だけがひやりと冷たい。

 その宝石が、かすかに震えた。

「……ここ、どこ?」

承 花畑と雷

 声は、胸元から聞こえた。正確には、頭の中に直接響いた。

 私は生け垣の陰にしゃがみ込み、宝石を引っぱり出した。

「宝石の中です、殿下」

「宝石」

「私のスキルで、殿下を封じました」

「ふうん。……で、なんで僕は閉じ込められてるの。三行で説明して」

 一瞬、誰の声かわからなかった。

 あの穏やかで品のいい王子様の声が、寝起きのようにだらけている。

「……殿下の杯に毒が入っていました。飲む直前に封印しました。その結果、私が殿下を消した犯人として追われています」

「へえ」

「驚かないんですか」

「毒は今月三回目だし」

 さらりと言われて、言葉に詰まった。原作では語られなかった数字だ。

「それより君、本当にクラリス? いつも澄ました顔で、僕のことなんか石ころみたいに見てる、あのクラリス?」

「その石ころに入っているのは殿下です」

「うわ、うまいこと言う」

「……殿下、お静かに。いま逃げているので」

「僕の声、外に漏れるの?」

「いいえ。殿下の声は、封じた私にしか聞こえません」

「じゃあ問題ないじゃん」

「問題は、私が独り言を言っているように見えることです」

 実際、生け垣の切れ目で、夜回りの庭師の老人が口をあんぐり開けてこちらを見ていた。夜会のドレスで、裸足で、宝石に向かって小声で話しかける令嬢。どう見ても正気ではない。

「……よい夜を」

 私は会釈して、老人の横を走り抜けた。背後で、ランタンの落ちる音がした。

「今の、絶対あとで噂になるよ。牢番令嬢、ついに石と喋る」

「誰のせいだと思っているんですか」

 足音が近づいてきた。私は宝石を握り込み、生け垣の奥へ身をかがめて走った。庭師の物置の裏に、古い排水路の入口がある。三周目で見つけた隠しルートだ。

 鉄格子を外し、暗い水路へ潜り込む。湿った石の匂い。ドレスの裾が水を吸って重い。

「殿下。今すぐ出してさしあげます。出たいと、強く望んでください」

「やだ」

「は?」

「ここ、快適なんだよね。暗殺者いないし、公務ないし、朝の謁見もないし。お腹も空かないし、疲れもしない。最高じゃない?」

「殿下が出てこないと、私の冤罪が晴れないんです!」

「それは困ったね」

「困っている声に聞こえません!」

 言った瞬間、手の中の宝石が、ぴしりと光った。

「わ。急に雷。なにこれ」

 私は宝石を目の高さに掲げた。

 親指の先ほどの琥珀が、内側から淡く光っていた。その奥に、小さな世界があった。黒い雲が渦を巻き、針のように細い稲妻が走っている。その真ん中で、豆粒ほどの人影が、のんきに空を見上げていた。

 帳面の一節を、また思い出す。封じ手の心は、石の内に景色として映る。

「……殿下。それ、たぶん私の機嫌です」

「君の?」

「封印した者の心の状態が、中の景色になるそうです。怒ると嵐、とか」

 沈黙が落ちた。

 嫌な沈黙だった。

「つまり、君の考えてること、ぜんぶ僕に見えるってこと?」

「見えるのは景色だけです」

「十分だよ。面白くなってきた」

 雷が一段と激しくなった。殿下はなぜか、それを楽しそうに眺めている。

 水路の上を、重い足音が通り過ぎていく。騎士たちだ。私は息を殺した。話し声がするが、石に反響してよく聞き取れない。

「『夜明けまでに見つからなければ、ベルンシュタイン侯爵家ごと拘束する』だって」

 殿下が、何でもないことのように言った。

「……聞こえるんですか」

「うん。中のほうがよく聞こえるみたい。外の音、全部筒抜け」

 足音が遠ざかる。私は水路の壁にもたれ、ずるずると座り込んだ。

 家ごと、拘束。父も母も、私のせいで。

「……三か月も準備したのに」

 声に出ていた。

「三か月?」

「なんでもありません」

「なんでもないなら、なんでこっち、冷たい雨が降ってるの」

 覗き込むと、琥珀の中の小さな世界は、灰色の雨に沈んでいた。最悪だ。隠し事のひとつもできやしない。

「……三か月前から、今夜殿下が毒を盛られると知っていました。誰に言っても信じてもらえないので、一人で準備していただけです」

「どうやって知ったの」

「秘密です」

「ふうん」

 殿下はそれ以上、聞かなかった。代わりに、少しだけ柔らかい声で言った。

「誰にも信じてもらえないのに、一人で僕を助けようとしたんだ。……ありがと。助かった」

 ――外の殿下は、一度だって、私にそんな声を出さなかった。

 胸の奥が、ふっと緩んだ。

 手の中で、宝石がぽうっと温かく光った。

「……あれ」

 雨が止んでいた。雲が割れ、柔らかな日が差し、足元から次々と花が咲いていく。白、薄紅、黄色。小さな世界が、見る間に一面の花畑に塗り替えられていく。

 その真ん中で、豆粒ほどの殿下が、こちらを見上げていた。

「花畑になった」

「……気のせいです」

「怒ると嵐なんでしょ。じゃあ、これは?」

「知りません」

「僕は知ってる気がするなあ」

 殿下は花の中に寝転がり、ひどく満足そうに言った。

「君、僕のこと好きでしょ」

「好きじゃありません!」

 ばり、と雷が落ちた。

 花畑の上に。

「すごい。晴れてるのに雷が鳴ってる。器用だね、君」

「黙ってください!」

「花、まだ増えてるけど」

「増えてません!」

 増えていた。

 私は宝石を握り込んで、視界から消した。顔が熱い。水路の中で本当によかった。誰にも見られずに済む。

 ――中の一人を除いて。

「まあ、そういうわけだから」

 殿下は欠伸まじりに言った。

「僕はしばらくここで寝てるよ。花畑、気持ちいいし」

「出る気、ないんですね」

「今のところはね」

 ため息をついて、私は立ち上がった。夜明けまでに、どこか安全な場所へ。それから、この怠惰な王子様を外へ引きずり出す方法を考える。

 水路の出口が、月明かりにぼんやりと白んでいた。

 その光の中に、人影がひとつ、立っていた。

 黒い外套。顔を覆う布。騎士の鎧ではない。手には、月光を鈍く弾く短剣。

「探したぞ、牢番令嬢」

 男の声は、ひどく静かだった。

「その宝石を渡してもらおう。――中身ごと、砕かせてもらう」

転 満開

 私は一歩下がった。踵が水を踏む。

 振り返ると、水路の奥にも、ランタンの灯りがひとつ揺れていた。

「お嬢様。靴をお忘れですよ」

 灯りの下で、男が片手に私の靴をぶら下げていた。庭に脱ぎ捨てた、あの靴だ。

 見覚えのある顔だった。夜会で、銀盆を抱えて扉の陰に消えた給仕。

「足跡を追うのは簡単でした。裸足の令嬢は、なかなか見かけませんので」

 前に刺客、後ろに給仕。水路の幅は、人が二人すれ違えるかどうか。逃げ道はない。

「……ねえ、クラリス。これ、まずい?」

「とても」

 小声で答えると、刺客が首を傾げた。

「石と話しているのか。さすがは牢番の娘だ、気味が悪い」

 刺客は短剣の切っ先で、私の胸元を指した。

「牢番の家の封印石は、砕けば中身ごと死ぬ。昔は、それで罪人を処刑したそうだな。便利な力だ」

 知っている。だからこそ、このスキルは不吉と呼ばれてきたのだ。

 私は呼吸を整えた。考えろ。時間を稼げ。

「騎士団が、すぐそこまで来ています。ここで私を殺せば、あなたたちも――」

「騎士団なら、東の門だ」

 刺客があっさり遮った。

「牢番令嬢は東へ逃げた、と親切な誰かが教えてやった。今ごろ見当違いの森を這い回っている」

 はったりは通じない。準備のいい相手だ。私の三か月より、ずっと。

「空、暗くなってきたよ」

 殿下が、のんきに言った。宝石を覗く余裕はない。でも、見なくてもわかる。琥珀の中の小さな空は、灰色の雲に塗りつぶされているはずだ。

「怖いの?」

「怖くありません」

「雷、鳴らないね。怒ってないってことは、やっぱり怖いんだ」

「黙っていてください。今、考えているんです」

 頭の中で、冷静な私が計算を始める。宝石を渡せば、殿下は死ぬ。私は口封じに殺される。渡さなくても、たぶん殺される。どちらに転んでも、助かる道はない。

「クラリス」

 殿下の声が、静かに響いた。

「渡しなよ。中は時間が止まってるから、砕かれてもたぶん痛くない。君だけでも、命乞いすれば――」

「嫌です」

 口に出していた。刺客が眉をひそめる。

「何だと?」

「お断りします、と申し上げました」

 刺客は鼻で笑い、給仕のほうへ顎をしゃくった。

「杯はどうした」

「あの方のもとへお届けしました。中身ごと」

「処分しろと言ったはずだ」

「ご自分の目で確かめたい、と。念の入ったことです」

「まあいい。王子が毒で死ねば、毒を盛ったのは牢番令嬢。王子が石ごと砕ければ、王子を殺したのも牢番令嬢。どちらに転んでも、あの方の手は汚れない」

 二人とも、私の前で平然と話している。どうせ死ぬ娘に聞かれても構わない、ということだ。

 そして、石の中にも聞こえているとは、思いもしていない。

「――全部、聞こえた」

 殿下の声から、だるさが消えていた。

 その声に背中を押されるように、私は動いた。

 足元の水を蹴り上げ、給仕のランタンに浴びせる。火が消え、水路の奥が闇に沈んだ。その隙に、刺客の脇をすり抜けようとして――

 髪を、つかまれた。

 引き倒され、石の床に膝を打ちつける。目の前に火花が散った。

 刺客がのしかかってくる。私の手首をつかみ、指をこじ開けようとする。私は宝石を握ったまま身をよじり、石の床にうずくまった。両腕で胸元を抱え込み、背中を丸める。

「放せ」

「嫌です」

 肩に、焼けるような痛みが走った。短剣が掠めたのだと、遅れてわかる。

 合理的に考えるなら、ここで手を放すべきだ。どうせ助からないのだから、せめて痛みの少ないほうを選べばいい。

 なのに、指が動かない。

 死なれたら私も処刑されるから。そんな理屈は、もうどこにもなかった。

 この人に、死んでほしくない。それだけだった。

 顔も知らない誰かに毒を盛られて。それでも夜会では完璧に笑って。誰も信じていないみたいな顔で、宝石の中なら快適だと言う、この怠惰で、口の減らない王子様に。

「クラリス、もういい。放して」

「放しません」

 二度目の痛みが、背中に来た。歯を食いしばる。

 胸に押し当てた宝石が、熱い。

 指の隙間から、光があふれていた。金色の、蜂蜜みたいな光。水路の暗い壁が、ぼうっと照らし出される。刺客が一瞬、手を止めた。

「……クラリス」

 殿下の声が、かすかに震えていた。

「満開だよ」

 見なくても、わかった。

「花が、空まで咲いてる。地平線の向こうまで、全部。……見たことない。こんなの」

 言わないでほしかった。そんなこと、私がいちばんよく知っている。

 刺客が舌打ちし、短剣を逆手に持ち替えた。柄頭で、私の腕ごと宝石を叩き割るつもりだ。

 その瞬間、頭の中に、殿下の声が響いた。

 さっきまでのだらけた声でも、夜会の完璧な声でもない。初めて聞く、低くて、まっすぐな声。

「クラリス。――出たい」

結 たまには

 出たい、と。

 この人が、自分からそう言った。

「――許します」

 答えた瞬間、腕の中で宝石が弾けるように光った。

 金色の光が水路いっぱいに広がり、目を開けていられない。石の熱がすっと引き、代わりに、誰かの体温がすぐそばに立った。

「僕の婚約者から、手を離してもらおうか」

 穏やかで、品のいい声。夜会で聞き慣れた、完璧な王子様の声。

 光が収まると、エルヴィン殿下が、刺客の手首をつかんでいた。刺客の手から短剣が落ち、水の中で小さく跳ねる。

「な……ぜ、出て……」

 刺客が呆然と呟いた、そのとき。

 水路の入口から、いくつものランタンの光がなだれ込んできた。

「いたぞ! こっちだ!」

 銀の鎧。先頭にいるのは、ガレス団長だった。その後ろで、夜回りの庭師の老人が、腰を抜かしそうになりながら水路を指さしている。

「あ、あの娘です! 石と喋りながら、こっちへ……!」

 あの人が、騎士団を呼んだらしい。東の門へ向かったはずの騎士団を。

 逃げようとした給仕が、あっという間に取り押さえられる。ガレス団長は殿下の姿を認めて目を見開き、それから、うずくまった私へ剣先を向けた。

「殿下、ご無事で……! その女から離れてください」

「剣を下ろせ、ガレス」

 殿下の声は静かだった。それなのに、騎士たちが一斉に動きを止めた。

「彼女は、僕の命の恩人だ。夜会の杯には毒が入っていた。彼女は飲む直前に僕を封印し、ここまで守り通した。――この男たちの話も、石の中で全部聞いていた」

 殿下は、刺客と給仕を順に見た。

「『王子が毒で死ねば、毒を盛ったのは牢番令嬢。王子が石ごと砕ければ、王子を殺したのも牢番令嬢。どちらに転んでも、あの方の手は汚れない』」

 一字一句、そのままだった。刺客の顔から、血の気が引いていく。

「石の中から、聞こえるはずが……」

「聞こえるんだよ。外の音、全部筒抜け」

 ほんの一瞬だけ、宝石の中のだらけた口調が混じった。私以外、誰も気づかなかったと思う。

「その給仕は、夜会の杯を持ち去った。中身ごと、『あの方』のもとへ届けたそうだ」

 ガレス団長が、ゆっくりと剣を下ろした。私を見る目が、変わっていた。

「……『あの方』とは、誰です」

「それは、陛下の前で話す」

 殿下は即座に答えた。取り押さえられた給仕が、くつくつと喉の奥で笑った。

「殿下は、とうにご存じでしょうに」

 殿下は何も答えなかった。夜会のときと同じ、完璧な微笑みを浮かべていた。

 その笑顔が、宝石の中のどんな景色よりも冷たく見えて、私は思わず殿下の袖をつかんでいた。

 殿下はちらりとこちらを見下ろし、それから膝をついて、私を抱き上げた。

「ちょっ……殿下、自分で歩けます」

「背中、切られてるでしょ。黙って運ばれて」

 騎士たちに聞こえない、小さな声。宝石の中の声と、同じ声だった。

 殿下の腕の中で、私は自分の肩口を見下ろした。ドレスが裂け、血が滲んでいる。思っていたより、ずっとひどい。

「……ごめん」

「殿下が謝ることでは」

「僕がもっと早く『出たい』って言ってれば、こうはならなかった」

 殿下の顎の線が、こわばっていた。宝石の中の、豆粒みたいな姿からは見えなかった顔だ。……当たり前か。中にいた間、景色が変わるのは私のほうだけだったのだから。

 この人の本心は、顔を見なければわからない。

 三日後。私の冤罪は、正式に晴れた。

 王子を救った封印の令嬢。王宮の噂は、一晩で手のひらを返した。「ハズレスキル」と囁いていた令嬢たちは、廊下で私とすれ違うたびに目を逸らし、顔色を悪くしている。ガレス団長は私の前に膝をつき、騎士団の名で謝罪した。正直、少しだけ胸がすいた。

 中でも傑作だったのは、伯爵令嬢のマルガレーテだ。鑑定式の日から十年間、私を「牢番の娘」と呼び続けてきた彼女が、昨日、両手いっぱいの薔薇を抱えて見舞いに来た。

「クラリス様のスキルは、本当に素晴らしいものでしたのね。わたくし、前々からそう思っておりましたの」

「そうですか。では、十年分の『牢番の娘』は、どなたのお言葉でしたの?」

 マルガレーテの笑顔は、薔薇より先にしおれた。

 ただ、「あの方」の名は、どこにも出なかった。

 給仕は牢の中で口を閉ざしたまま。刺客は翌朝、騎士団の牢で冷たくなって見つかった。そして毒の杯は、王宮のどこからも出てこなかった。

 殿下が陛下の前で何を話したのか、私は知らない。

「ここにいたんだ」

 夜。王宮のバルコニーで風に当たっていると、殿下がやってきた。手すりにもたれ、大きく伸びをする。外の殿下とは思えない、だらしない格好だ。

「……『あの方』は、誰なんですか」

「さあね」

 殿下は、夜会の微笑みではなく、宝石の中の声そのままの、気の抜けた顔で笑った。

「でも、外はしばらく物騒だ。毒も刃も、まだまだ来ると思う」

「……ひとつ、聞いてもいいですか」

「どうぞ」

「あのとき、どうして急に『出たい』と思ったんです。あれほど、中が快適だと言っていたのに」

 殿下は少し考えて、手すりに頬杖をついた。

「花が、空まで咲いたでしょ」

「……覚えていません」

「僕は覚えてる。あんなの、外で一度も見たことなかった。誰かが僕のために、あんなふうに本気になってくれたことも」

 殿下は、夜風に目を細めた。

「中にいたら、君の顔が見えないんだよ。景色はわかっても、その景色を咲かせてる顔が見えない。……それが急に、我慢できなくなった」

 返事ができなかった。

 私は手の中の琥珀を見下ろした。空っぽになった石は、今はただの綺麗な宝石だ。

「だからさ」

 殿下が、その石を指でつついた。

「たまには戻ってもいい?」

「……は?」

「中、快適だったし。それに」

 殿下は、私の顔を覗き込んだ。

「あそこにいると、君が何考えてるか、全部わかるから」

「お断りします!」

 叫んでから、気づいた。殿下は、心底楽しそうに笑っている。

「景色、見なくてもわかるよ。今、満開でしょ」

 私は琥珀を握りしめて、そっぽを向いた。

 頬が熱いのは、夜風のせいだ。たぶん。

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