誰もいない森で木が倒れとき……
とある山の中に、ひっそりと佇む一軒のバーがあった。
木目調の壁と床。年季の入った木製カウンターには無数の傷が刻まれ、ニスはすっかり剥げ落ち、鈍く沈んだ光を放っている。棚に並ぶ酒瓶のガラスは曇っており、長らく手が触れられていないのがわかる。壁に貼られた色褪せたポスターには、かつて流行したバンド名がかすかに読み取れた。
すきま風のせいか、天井のランプが時折小さく揺れ、柔らかな明かりがグラスの表面を撫でるたびに小さな光の粒が滲むように広がり、そして散った。奥に並ぶ小さなテーブル席はただ静かに影の中に沈み、かつての賑わいの残響だけが、どこか遠く、耳の奥でかすかに響くようだった。
マスターはカウンターの内側で、無言で目を細めてグラスを磨いていた。時計の針はとうに深夜を回り、店内の空気は静かに眠りに落ちようとしている。
そろそろ店じまいか――そう思い、マスターは磨き上げたグラスをそっと置いて一息ついた。そのときだった。
ドアが軋む音を立てながら開いた。
そして、夜の冷気とともに一人の男が足を踏み入れた。薄暗い店内を静かに見渡し、まっすぐカウンターへ向かう。椅子に腰を下ろし、低く掠れた声で呟いた。
「……ウイスキーを頼む」
マスターは小さく頷き、棚からグラスを取り出す。氷を落とし、琥珀色の液体を静かに注いだ。
「どうぞ」
男は差し出されたグラスを少し間を置いてから手に取り、一気に喉へ流し込んだ。
マスターは小さく眉を上げた。癖のある黒髪に無精ひげ、黒いトレンチコート。旅行客――アイデアを探して放浪する芸術家か、それとも傷心を癒すための独り旅か。どこか屈折した頑固さを纏っていた。
「……もう一杯だ。いや、瓶ごとくれ」
「かしこまりました」
男はマスターが差し出した瓶を乱暴に掴むと、そのまま手元のグラスへ勢いよく注ぎ足した。氷のぶつかる音と、男が吐き出す息だけが響く。
マスターは再び手元のグラスを磨き始め、店内にはしばし静かな時が流れた。
やがて、男はポケットに手を突っ込んだ。それから、ふっと短く息を吐き、グラスの中の氷をゆっくりと転がし始めた。
「この店……長いのか?」
男は物憂げな視線をグラスに落としたまま、ぼそりと言った。
「ええ、まあ」
「そうか……だが、今夜で最後になる」
「え? ……ああ。いやあ、ははは。まあ、リピーターは多くありませんね。町からそう遠くないとはいえ、交通の便が悪い。来るのは旅行客ばかりで、最近はそれもなかなか……。まだ続けられたらいいと思っているんですがねえ」
マスターは店内を見渡し、遠い目をした。男は静かに息を吐いた。
「そういう意味じゃない」
「え?」
「誰もいない森で木が倒れたとき、音はするのか」
「……は?」
「哲学だ。知覚されなければ存在しない。たとえば、このコートのポケットに何が入っていようと、あんたがそれを認識しない限り、それは存在しないのと同じというわけさ」
「は、はあ……」
「なあに、そう難しく考えなくてもいい。……このバーはもう存在しなくなるんだから」
「な、ど、どういう意味ですか……?」
「おれは二度とここを訪れない。ああ、誤解しないでくれ。気に入らなかったわけじゃない。ただ、旅行先の店に二度来るほうが珍しいだろう? それはさておき、おれがここを出た瞬間、このバーは認識から外れる。つまり、存在しないも同然。消えるってことさ」
男は氷を転がしながら淡々と言った。
「えっと……あなたの記憶から消えるという意味ですか?」
「この世界から、だ」
「それは……少々傲慢な考えではないかと。まるで神のような……」
マスターは苦笑した。
「そうか、そうだな……だが、おれには確信がある。あんたはどうだ?」
男はグラスから手を離し、ゆっくりと視線を上げた。その眼差しは鋭く、暗がりの奥まで射抜くようだった。マスターは思わず唾を飲み込み、後ずさった。
「あ、あなた……まさか……」
「どうやら、あんたも感じ始めたらしいな……」
男がゆらりと立ち上がった。カウンターに両手を置き、ぐっと身を乗り出す。不敵な笑みが口元に浮かび、その影は床に長く伸びていった。
マスターの背中が棚にぶつかり、酒瓶がかすかに音を立てて揺れた。冷たい緊張が空間に波紋のように広がっていく。
男はふいに身を引き、ドアのほうへ向き直った。そして静かに歩き出す。
「あ、あの……」
「……」
「お客さん……?」
「いい店だったよ。もっとも、思い出すことはないだろうがな……」
「いや、お代は……?」
マスターがカウンターから出て、男に言った。男は足を止め、振り返って薄く笑った。
「さっきポケットを調べたんだが……どうも財布の存在が観測できなくてね……いてっ!」
「いや、金を忘れたなら最初からそう言いなさいよ! 代金はもういい、出てってくれ! 店じまいだ!」
マスターに小突かれ、男は肩をすくめてそそくさと店を出ていった。
外の空気はひどく冷たかった。夜露に濡れた草がズボンの裾を湿らせ、冷えきった地面に足を取られそうになりながら、男は足早に歩いた。
舗装された道路に出たところでようやく立ち止まり、白い息をひとつ吐いて夜空を仰いだ。
「お互い、認識し合ってしまったな……。あの店、これからも残り続けそうだ……なんてな。しかし、辺鄙な場所にあったなあ……えっ」
ふと振り返った瞬間、男は息を呑んだ。
先ほどまで確かにあったはずのバーは影も形もなく、闇に沈んだ林の奥には、ただ黒い空洞のような暗がりが広がるばかりだった。
――灯りを落としただけだ。
そう自分に言い聞かせた瞬間、口の中に強烈な苦味と酸味がどっと広がった。鼻腔を刺激臭が駆け抜け、男は膝に手をつき、「おえええっ」「おえっ!」とえずいた。
その様子を林の奥の闇から、一匹の狐がじっと見つめていた。目を細めて口角を吊り上げ、喉をくっくと鳴らしている。
だが、男がその存在を認識することはなかったのであった。




