消耗品のような夜
夜は消耗品だ。声に出さずにそう呟いた。襲い来る寂寞に耐えられなくなった夜、僕はいつもこのチェーンの喫茶店で時間を潰す。かなり古いジャズが流れる店内には現在四組の客が座っている。
一人で来ている老人、二人の若い男女、物憂げに天井を見つめる婦人、そして僕。店に入った時からそれは変わっていない。僕は苦いブラック珈琲を啜った。
珈琲は良い。第一に上質な薫り、第二に目が覚めるような苦味がある。五感のうち二つを一気に満たすことができるのだ。それに珈琲は夜と似ている。ダークな色と消耗してなくなるところが。どちらも濃度を深めることができるというところも似ている。天井の灯も手伝って、マグカップの中の珈琲は吸い込まれそうなほど黒かった。それを見つめた後、また啜った。
窓の外に広がる濃紺の闇を眺めながらため息をつくと曇った。吐息の証拠を残すように仄白く。その後、ブラックコーヒーを飲み終わった僕はそろそろ帰ろうと立ち上がった時、近くのテーブル席に座っている若い男女二人組が興味深い話をし始めた。
「最近、気晴らしにドライブをしたんだけど、その時に行った山で見た夜景がめちゃくちゃ綺麗でさ」
「良いじゃん。また行こうよ!」
「行こ行こ」
紫のスカジャンを来た若い赤髪の男と胸がはだけた黒のトップスを着ている金髪の女の二人はおそらくカップルだろう。声の調子が甘ったるい。だが夜景か。良いかもしれない。山頂から見える光の輝きは寂寥感を鎮めてくれるような気がする。僕は会計を済ませて店を出た。ブラック珈琲は一杯四百五十円だった。
駐車場に停めていた車に乗り込む。キャラメル色の塗装とほぼ真四角のフォルムが特徴のムーヴだ。キーを回すと牛の鳴き声のような音を立てて目を覚ました。
駐車場を出て暫く走っていると大通りに出た。両端にビルディングやマンションが無感情に隣接し合っている。
前方の信号が黄色から赤に変色したので、スピードを落とし白線に停まる。青に変わるのを待つ間、横断歩道を渡る人間を観察することにした。
草臥れたスーツ姿の男が四人と、夜の官能的な雰囲気に酔っている制服姿の女三人が渡った。前者は焦燥し、後者は興奮した表情を浮かべて。同じ夜でも過ごし方や置かれている立場によって反応が分かれる。夜は多面体のようだ。
信号が青色に変わった。目の前の横断歩道に誰もいないことをしっかりと確認してまた車を発進させた。しばらく走っていると建物が少なくなってきて、小さな古民家が立ち並ぶようになった。
左右の歩道に設置された街灯の数も徐々に減り、全体的に薄暗い。
眩いヘッドライトだけが光量を下げることなく、前方を照らし続けている。
光は偉大だ。発明者には感謝をしなければならない。零から一を産み出す発明の母性は中々宿る物ではない。ますます暗くなり狭くなる闇に光だけが対抗することができる。
ナビを使っていないので、今どこを走っているのかはわからない。山だけをひたすらに目指している。左右には田園が広がり、街灯は一本も見当たらなくなった。道幅も狭く、四メートルといったところだ。脳裏に事故を起こした悲惨な光景が浮かび冷や汗が垂れた。ヘッドライトの光を頼りにまるで探検家のように注意して進む。
昔に見たグーニーズという映画を思い出した。探検には勇気が不可欠だ。怯えてばかりいたら始まらない。前方に山へ登るための車道が見えてきた。僕は興奮した。この時を待ち侘びていた。薄開きの窓から虫の囀りが聞こえるようになった。夜闇に紛れ、大小様々な虫たちが飛翔している。入ってこないように窓を閉めた。これによって、空間は蒸し暑くなった。耐え難いので冷房をつけた。噴き出す冷気が肌を撫でる。北国の女の頬擦りのようだ。少しエロティックな気分になった。
山道を登り始め、立ち並ぶ木々は出迎えているようだ。鬱蒼とした雰囲気は、夜の深まりをより一層助長していた。山の螺旋はとぐろを巻いて、いずれ飲み込まれそうだった。どこまで登ったのかを知るのは山だけだ。
周りには時折葉の残骸が道路に転がっている。人や動物がいないことに安堵した。できれば何も轢きたくはない。この時間帯だから飛び出してくることはない。そう思った時、それは唐突に現れた。人の影だった。キーーーーーーーーー!
慌てて踏んだブレーキは調子はずれの弦楽器のような音を響かせた。しかし、間に合わなかった。ドンッ! という音を立てて衝突する。
「大丈夫ですか?」
車を飛び出し、携帯の影の場所をライトで照らす。吹き飛ばされた可能性を案じ、少し離れた場所も照らした。しかし、ライトは何も照らさなかった。その上、当たったはずの車も無傷だった。
僕は混乱した。狐に摘まれたようだった。しかし、数秒後事故を起こしていないということに安堵し、再び車を走らせた。もしかすると疲労による幻覚かもしれないと思った。
辿り着いた山頂は広場になっていた。車を停められるスペースがありそこに駐車した。外へ出ると、柵がある展望スペースを見つけた。その場所に小走りで向かった。
そこから見下ろした街は銀河のように光り輝いていた。呼吸するように光が脈動している。
それらはとても美しかった。しかし、寂寞は消えなかった。落胆を誤魔化すために煙草が吸いたくなった。しかしすぐに切らしていることに気づき、山を降ることにした。煙草を買いにコンビニに向かうのだ。 僕は歩き出した。
どこからか声が聞こえてきた。
「山を下るといい。君は大いなる気づきを得るだろう」
若い女の声だった。まだ少女のあどけなさが残っていた。
「君は誰だ」
僕は虚空に問いかける。
「今はまだ君がそれを知るべき時じゃない」
そんな声が聞こえてきた。
「知るべき時じゃない」
そのフレーズだけを繰り返してみたが、声はそれきり何も答えてはくれなかった。代わりに何か示唆的な静寂を残していったが、真意を読み取ることはできなかった。
下り道を走っていると、コンビニの青い光が見えてきた。入り口近くのスペースに駐車した後、注意深く車を降り、念入りにロックをかけた。
店内に冷房が良く効いていてとても涼しかった。店内をぐるりと歩行し、ウィスキーの瓶とメビウスのボックスを購入することに決めた。
黒縁メガネの女性店員にそれらを渡し、六百五十円の会計を千円で払うことにした。
「お釣りは三百五十円になります」
彼女は機械的なトーンで言って、掌に小銭を置いた。それを財布にしまい、購入した二つを持とうとした時、ふとあの山の出来事のことが気になって、気がつけば問いかけていた。
「ねえ、僕は十五分前、ここの近くの山で不思議な声を聞いたんだけど、何か有名な心霊スポットだったのかな?」
彼女は無表情で僕を見つめ、暫くの間沈黙した後、無愛想に言った。
「どの山のことを言っているのか存じ上げませんが、付近の稲葉山なら幽霊が良く出ると言われています」
「稲葉山」
僕はその名称を繰り返す。なるほど、先ほどの山は稲葉山というところだったのかもしれないな。
「ありがとう」
礼を言うと、彼女は小さく会釈をした。それを見届け、僕は自動ドアの方に歩き始めた。ありがとうございました。外へ出た時、後方からやはり不愛想な声が追いかけてきた。
入り口の前には背の高い灰皿が一つあるだけの孤島のような喫煙スペースがあった。僕はそこで咥えた煙草に火をつける。その状態で深く息を吸うことによって、先端を赤く灯らせるのだ。口内の煙を肺に入れて吐き出す。すると、吐き出された白靄は天高く登り、やがて消えた。
舞い上がる煙と若い自分を重ねた。あの時はとにかく何ごとにも縛られたくはなかった。存在するかも分からない本当の自由というものを求め、他者への迎合などこれっぽっちも考えず、自分至上主義を貫く日々を当時は生きていた。
その頃に比べれば、今はとても温厚になったと思う。自分よりも他人の幸せを願い、自己犠牲の精神というものを曲がりなりにも培った。
変化が起きたタイミングは娘が出来た時からだ。それまでは自分が世界で最も大事な存在だった。結婚した時でさえも。しかし、娘は僕の価値観を瞬く間に変えた。娘を第一に行動するようになった結果、自己中心的な思考は消え去り、周りを取り囲む全ての事象に思いやりを持つようになった。その結果仕事も家庭も順風満帆に事が進み、周囲の輝きは日を追うごとに増えた。まさに黄金の日々だった。その日々はとても長く続いた。終わりがないように思えた。永遠に続くものだと思っていた。
もう少しで脳裏に記憶の全容が浮かび上がりそうになった時、追想を打ち止めするかのようなタイミングで、一台の軽自動車が光を放ちながら、こちらに接近してきた。
色は白。パーキングブロックに接触する直前までバックで接近し、とても綺麗に停まった。おそらくドライバーの腕前は相当に円熟しているだろう。
それからすぐ運転席からサングラスをかけた男性が降りてきた。髪は逆立ち、黒と金のジャージに身を包んでいる。その男は車に鍵をかけた後、口笛を吹きながら僕の前を通り過ぎ、颯爽と自動ドアから店内に入っていった。
二度ほど深く煙を吐き出した時、自動ドアが開いて男が出てきた。右手に買い物袋を提げて、此方へゆっくりと近づいてくる。
そして僕の隣で立ち止まった後、袋から煙草のボックスを取り出し、その内の一本を摘み、口に咥えてライターで火をつけた。
赤く灯らせ、そして僕と同じように深い煙を吐いた。そして突然、「やぁ、今日は煙が美味い夜だね」と僕に話しかけた。
「二十年以上の喫煙歴の中でも、この夜は最高の夜の一つだよ。気温も微風の心地よさも何もかもが最高点だ」
沈黙していると、男は口から離して手元にある煙草を寂しそうに見つめながら、問いかけた。
「君もそう思わないか?」
「そうですね」
明らかに僕に向けた質問であったので、無視するわけにもいかず仕方なく答えることにした。その返事を聞くと男はそうだろうそうだろうと言って、数回頷いた後、煙草を持つ手元を眺め、そろそろ俺は行くことにするよ。と言って、まだほとんど残っている紙煙草の火を灰皿の金網の部分で掻き消し、水の溜まる吸い殻入れに投げ落とした。
そして車に戻っていく途中、男は唐突に立ち止まって此方を振り返らずに「煙草を吸っているあんたがなんだか寂しそうに見えたものだから、それを聞いて安心したよ」と言った。その後、またどこかで会えたらいいね。と言う言葉を言い残して、車に乗り込み、颯爽と夜の闇に消えていった。
後に残ったのは彼が吸った煙草の甘ったるい煙の薫りだけだった。
そろそろ出よう。そう思い、まだ二吸いほどしか吸っていない煙草の火を無理矢理に掻き消し、吸い殻入れに落とした。ポチョンと小石が井戸に落ちたような音が響く。その音が完全に水の中に消えた後、僕は歩き始めた。ムーヴに乗り込んでキーを回す。鳴り響くエンジン音は、眠りから覚めた後の大きな欠伸のようだった。
周囲に広がる暗闇をヘッドライトが照らす。薄白く光る前方の道を走りながら、僕はあの男が言った台詞を脳裏で反芻し続けていた。煙草を吸っている僕が寂しそうに見えた。その指摘は的を射ていた。
五年前に娘を亡くした。まだ十五歳だった。夕方の部活帰り、交差点の信号を渡ろうとしていた時に、無視して突っ込んできた乗用車に跳ね飛ばされて死んだのだ。
娘は僕を非常に慕ってくれていて、明朗で活発なとてもいい娘だった。心身共に大人になっていきつつあり、明るい将来を思い描いていた矢先の出来事だった。
それが与えた衝撃は凄まじく、葬儀が終わってからも妻と僕は悲しみから立ち直ることができず、仕事も手につかなくなり休職届を出して、僕らは一日のほとんどを家で過ごすようになった。
何もせずに茫漠と一日を過ごす。そんな日々が一ヶ月ほど続いた頃だろうか。先に立ち直ろうとしたのは妻だった。少しずつ外に出るようになり、放置気味だった家事にも以前のように積極的に取り組むようになった。
娘のためにもこのままではいけないと思ったのだろう。妻は以前の自分を取り戻すために必死で試行錯誤していた。暫く経った頃、その努力の甲斐あって、妻は徐々に以前の自分を無理せずに振る舞えるようになっていった。
どんよりと沈んだ表情が消え、生来の眩しい笑顔が見られるようになり、僕はとても驚いた。娘を失ったショックから妻が徐々に立ち直り、前を向き始めた頃、妻は私も共に喪失の深淵から救い出そうとし始めた。
外出する時に僕も一緒にと声をかけてくれたり、夕食時にあえて明るい話題を振ってくれたり、妻は実に多種多様な試みを用いて私にアプローチをしてくれた。全ては二人で前を向くために。
しかしそんな健気な努力も虚しく、僕はいつまで経っても娘を亡くしたショックから立ち直れなかった。
最初の方こそ、妻はそんな僕に同情し、いつか以前の姿に立ち返ってくれることを信じて、ひたすら懸命に未来を信じて他者を変える努力をし続けた。
しかし、いつまでも変容しない不甲斐ない陰鬱な僕を間近で見続けた結果、妻はとうとう自分だけが前を向くために必死に明るく振る舞っていることに嫌気がさし、憤慨した。
そして僕を変えるための試みに匙を投げ、その足で家を出て行った。翌日、妻の実家からかかってきた電話で、妻から別居の申し出をされた。僕はそれを受理し、何度か話し合いをし、手続きを踏まえたのちに私たちの別居は成立した。それから半年後くらいに私は職場に復帰して、多少のブランクを克服した後には、以前と変わらないクオリティで仕事をこなすことができた。復帰直後は職場の人間などに心配そうな目で見られていたが、すっかり立ち直ったと言う態度を演じることが出来た。
しかし、決して僕は娘の喪失から立ち直ったわけではない。そのような態度を装うことができるようになったと言うだけだ。 相変わらず私の心にはぽっかりと深い穴が空いていて、時折そこから陰鬱な風が吹き上がってくる。
そんな状態では他人を騙せても、長きに渡り、パートナーとして苦楽を共にしてきた妻のことは騙せない。だから、僕は別居を続けることにした。(それは今も続いている)しかし、家でずっと一人でいるとどうしても心の隙間に寂寞が入り込んでくる。会社から家に帰ってきた夜なんかには特にそうだった。だから僕は夜を嗜好品として昇華させるために、あらゆる過ごし方で暗澹たる夜を彩った。
酒、煙草、映画、小説、孤独な夜を彩るためにあらゆる娯楽に手を出した。それらはとても刺激的で、のめり込むほどに強烈な夜の魅力に僕は取り憑かれていった。しかし、同時にそれらはとても刹那的だった。
一時的に気分を高められたとしても、魔法はすぐに解け、耐え難い寂しさが僕を襲った。それから逃れるためにより一層夜に没入し、解けた後に降る寂寞を深めていくという悪循環に陥った。
孤独の夜を過ごす限り逃れられる術はないと言う真実から目を背け続けた。その結論はとてもシンプルなのだが、過去がそれと向き合うことを非常に困難なものにさせた。娘と夜を過ごすと言う願望が叶わなくなった寂寥は孤独な限りなくなることはなく、それを満たすためにはやはり、娘と過ごすしか道はない。だが、それは決して叶わない。
もしも、妻とよりを戻して共に夜を過ごせることができたとしても、この巨大な穴を埋めることはできないだろう。新しい子供をこさえてもそれは勿論無理だ。なぜなら我が子だから大切なのではなく、あの子だから大切だったのだ。彼女の代わりを担う存在はどこにもない。まさに永久欠番なのだ。
少し前方に信号の黄色の灯が見えたのでスピードを落とし、止まった。後方にも前にも横にも車はない。間もなく赤に変わった。ブレーキペダルを踏みながら、前方を見回した。十字路だ。特に目的地もないので、気分に任せて、右へ曲がることにした。直前にウィンカーを出すことはドライバーに煙たがられる迷惑行為だが、周囲に車がいないので叱責される恐れはない。歩行者信号が点滅し、間もなく自動車用信号が青色に変わると言う時、再び若い女の声が耳を襲った。
「君は無理難題を押し付けられた苦学生のように困っている」
「だったらなんなんだ」
僕は吐き捨てるように言った。
「君は問題をそのままの見方で直視しすぎているせいで、唯一の解決策が身近にあることに気づいていない」
不思議と声が先ほどより近くから聞こえてきているように思えた。信号が青に変わったので進む。
「解決策なんてない」
右に曲がりアクセルペダルを踏みながら僕は言った。
「ある」
「いいや、あるはずがない」
「ある。君がまだ気づいていないだけだ。
呪縛から解放されるために必要な鍵はすでに君のそばにある」
その声は、車の中から聞こえたような気がした。
「そんなに言うなら今教えてみてくれよ」
「いいだろう」
今度はすぐ隣の助手席から声がした。それと同時に車内に人の気配を感じた。僕は車を運転しながら、チラリと横目で助手席を見やった。その時、隣に人が座っているのが確認できた。それはありえないことだった。
カーステレオから発される薄ぼんやりした光しかない車内でも、その人影が制服に身を纏った女学生であることが伺えた。
しかしながら、制服を着ている胴体しか見ることが出来ず、その顔まではわからなかった。
真夜中の閉め切った車内の中に突然ワープしたように現れた若い女学生に僕は困惑し、奇妙な怪異に遭遇した時に多くの人がそのような反応をするように、僕も薄気味悪さを覚えて唾すら飲み込めずにいた。それでも僕は勇気を振り絞って、その女学生に訊ねた。
「君はどこから現れた?」
恐怖のあまり、声は裏返った。女学生は笑うことなく沈黙の後、滔々と話し始めた。
「私は君に答えを教えに来た者だ。解答者とでも呼ぶがいいさ」
女学生は解答者と名乗った。
「解答者か。わかった。君は要するに僕を度々困らせていた声の主ということでいいのかな?」
「そうだな。私は君に何度か話しかけていた。君はその都度、困っていたのだな」
「ああ、困ったさ」
「それは申し訳ないことをした」
解答者は嫌に素直に謝った。
「まあいいよ、それより答えというのはなんだ? 僕はそれを知りたい」
「そうだったな。では教えよう。だが、その前に君の身上を今一度整理しておきたい」
「ああ、すればいいさ」
解答者と名乗る女学生は、それからポツリポツリと僕の現状や現状に至るまでの経緯を、記憶を辿るように話し始めた。
「君は、娘を持ってからしばらくの間仕事や家族サービスに精を出し、どちらからも好感を持たれる一角の人物として知られていた。しかし、娘が亡くなってからは逆に、どちらにも精が出せなくなり、何事にも虚無的な感情を持つことしか出来なくなった。情熱を持っていた仕事をも休職してしまうほどに。そんな君を懸命に立ち直らせようとした妻も、しばらく経てば君に呆れて、家を去ってしまった。そこから君の中の喪失感は加速し、埋めるために夜に熱中するようになった。会社には半年ほどで復帰したが、それ以降も以前と同じ今日まで狂ったように夜をあらゆる手段で彩ってきた。しかし、一時的に快楽で上書きできても、完全には喪失感を無くすことはできず、夜が明ければ寂寞の思いがさらに増した。そのことに目をそれし続けた。だが、今日コンビニで出会った男に隠してきた真実を言い当てられ、向き合わざるを得なくなった。そして、向き合った結果、喪失感を完全に失くすこと不可能であると悟り途方に暮れている。そんなところだろう? 違うかい?」
「いや、合っている」
分析は正確だった。まるで僕をそのまま読み上げているかのように。
「しかし、それをどうしたらいい? 君ならわかるだろ? 君が言う通り、僕は途方に暮れているんだ」
「まだわからんのか君は」
解答者と名乗る女学生はため息をついた。
「なぜ呆れる?」
僕は前を見たまま訊ねた。
「君があまりにも鈍いから」
「どう言うことだ? 」
「少しだけ横を見てみればいい」
「そんなことできるはずがない。事故をしてしまう」
「周りには車通りはない。少しだけなら神も見逃すだろうさ」
「いや、無理だ」
「見なよ」
「だめだ」
「見ろ!」
解答者の怒声に驚き、ハンドルを右に思い切り曲げてしまいそうになった。曲げていたら大事故を起こしてしまっただろう。
僕は驚きと恐怖で震え慄く唇を操り、なんとか言葉を紡いだ。
「そんなに怒鳴らなくてもいいじゃないか」
「君が意固地なのだ。いいから見なさい」
「わかったよ。その前に車を停めさせてくれ」
念の為に車を路肩に寄せて、スピードを落としてゆっくりと進む。停車するために。その際に、首を少しだけ助手席の方を見た。あたりには街灯が増え始め、解答者の横顔が照らされ、輪郭がはっきりと見えた。亡くなったはずの娘の横顔だった。
そのことに驚愕し、完全に路肩へ寄っていないのに車を止めた。迷惑だとかそんなことを気にしている余裕はなかった。なぜ? 頭の中でその問いが反芻される。しかし、言葉にはならなかった。声を出せない僕はただただその横顔を見つめることしかできなかった。
娘の横顔は静かにフロントガラスから夜の奥行きを眺めている。それは見れば見るほど生前の僕の娘そのものだった。横顔はもちろんのこと、座り方に至るまで記憶の中の彼女と何ら差異はなかった。まるで精巧な人形のようにじっと眺めていると全身が泡立つ思いだった。
息を呑んで解答者に魅入っていると、僕の困惑を読み取ったように、彼女は運転席の方を見ないままで発言した。
「驚いた?」
信じられないことに娘の声に変わった。五年ぶりに耳を揺らすあどけなさと成熟さがちょうど半分に混ざった不思議な声。僕が影を娘と認識した瞬間、声までもが変容したのだ。それは寸分違わず娘の声だった。それ以前は当たり前に聞けていたが、ある日を境に永遠に聞くことができなくなった声。思わず涙を流しそうになったが、まだそれが疲弊した精神が生み出した幻覚という可能性を捨てきれていなかったので、堪えた。そして、震える舌の根で、精一杯の言葉を紡ぎ出した。
「ああ、驚いたさ。君は一体何者だ?」
助手席の方を見やりながら言う。その存在の正体を見極めるために、また、それがこちらを振り返ってくれることを密かに願って。
願いが通じたのか、助手席の彼女はゆっくりと僕の方を振り返った。その時に初めて彼女の顔を正面から見ることになった。カーステレオの薄青い光に照らされたそのきめ細やかな輪郭はやはり娘と一致していた。その存在の中身は分からないが、外見は間違いなく娘そのものであった。
努めて冷静にその驚きを表面に出さないようにしていたのだが、彼女は僕の一雫程の動揺に気づいたのか、ニヤリと笑い、
「君の内側は今、大きく揺れ動いているね。けれど大丈夫。私は君を救済しに来ただけだから」と言った。
声の調子は極めて落ち着いていた。僕は疑問を抱いた。もしも突然に生き返った娘が僕の前に現れたと言うことであれば、僕と同様に娘も動揺をするはずだろうはずなのに、彼女は沈着冷静なのだ。人間味が欠如しているように思えた。娘本人ではないかもしれない。その可能性が困惑の沼から浮上する。時を経て再会した親子の反応がここまで対照的なことがあるだろうか? 僕はこんなにも困惑しているのに。そんな疑念に薄気味悪さを覚え、僕は投げかけられた質問に対して何も答えなかった。が、声の主は沈黙を相槌の一つとして受け取り、続けた。
「君は私の正体を知りたがっているようだから、そのヒントを教えてあげる。山だよ」
山? 僕は直接口には出さなかったが、その単語が気にかかって、心の中で反芻した。
「少しだけ目を見開いたね。君はどうやら山のことが気になっているようだ。何か山で不思議なことはなかったかい?」
山での不思議な出来事と言えば、山頂で初めて不可思議な存在の声が聞こえてきたことだ、思えばあれが全ての始まりだった。
「山頂か?」
僕は尋ねる。すると、
「違う。もっと前に私と出会っているはずだ」
もっと前?僕は記憶を巡らせる。
「思い出せ。かなりショッキングな出来事だったはず」
ショッキングな出来事。それを聞いて思い出した。山の登り路で唐突に目の前に現れ出た人影のことを。その影は跡形もなく消えて、狐に摘ままれたような気持になったことを。
「そうか、あれは君だったのか」
「そうだよ。正確に言えば君の記憶の中から、娘さんの姿形を間借りしただけだけどね」
「つまり、君は娘を媒体に現れ出た別世界の人間ということか?」
「う~ん、少しだけ違う。私は君の娘の体を乗っ取ってこの世界に現れたわけじゃない。この世界で解けない呪縛に思い悩まされている人々を救うために派遣された案内人のようなものだよ」
「案内人?」
僕は繰り返した。解答者と案内人、どちらの呼称でよべばいいのだろう?
「そう。呪縛を解く手伝いをし、救済に導くことから私たちはそう呼ばれている。
そして、その呪縛はとても強いから解呪するためには対象者にとって最も忘れられない存在の姿を借りて、この世界に現れ出なければならない。また、この世界に顕現するためには、ある程度、霊的な力に満ちているところじゃないと駄目で時間帯は夜に限られる。それがたまたまあの山で、そしてこれまたたまたま夜に君が通りかかったっていうわけ」
「なるほど、様々な偶然が重なりあった結果というわけか。そして、対象者にとって最も忘れられない存在というのが僕の場合、娘」
「そういうこと。だから私はあの時、君のトラウマを再現する形で路上に現れ出た。
君は轢いていないと思っていただろうけど、ちゃんと轢かれてね」
そう言うと、案内人は本当に痛そうに腕を抑えた。
「なるほど。僕はまだ完全には信じ切れていないけど、なんらかの理解が及ばない霊的な力の干渉によって、君が僕の前に現れ出たという大筋は理解できたよ。だけど、娘の姿を借りただけの君なんかの力じゃ僕の寂寞は埋められやしない。本当に僕の救済目的で来たのであれば、残念だけど力不足だ」
僕がそう言うと、彼女は俯き、黙った。その姿は無力感に打ちのめされているように見え、少し心が痛んだがこればかりは仕方がない。今の僕の心を埋められるとすれば、完全な娘本人のみだ。よくできた複製人形ごときでは目は満たせても心までは満たせない。声はかけずに、僕は暫くそれを眺めていた。すると、不意に彼女は顔を上げて僕を見つめ、にやりと笑った。
「それはそうだろうね。私にもそのくらいの想像は出来ていたよ。で、ここからが質問なのだけれど、私がなんの用意もせずに君の前に現れたと思うかい?」
「どういうことだ?」
「まあ見てなよ。じゃあ代わるね」
「代わる?」
突如、彼女は魂が抜けたような茫然とした表情になった。声を掛けようかと逡巡していると、間もなく顔に生気が戻った。が、先ほどとは雰囲気が変わっていた。
先刻を影とするならば、こちらは光。とにかく顔の造形は同じなのに纏っている色彩が全く異なっているのだ。まるで、別人のように。
「おい、大丈夫か?」
不気味に思い、たまらず声をかけた。すると、彼女は数度瞬きをして、僕を真っすぐに見つめた後、信じられないことを言った。
「お父さんなの?」
僕は絶句した。今度は顔や声だけではなく、話し方や、目の動きなどの部分まで何もかも娘だったからだ。
「美紀なのか?」
「そうだよ! 久しぶり! お父さん!」
「しかし、何故? どうなっている!?」
驚いているとそれを見透かしたようにあの声が聞こえた。
「驚いた? 実はもしものために娘さんの魂も一時的に呼び寄せておいたのだよ。私は彼岸にも干渉できるからね。大抵、私一人の力じゃ解呪できないから、一緒に連れてくるようにしているのだけれど、その反応を見るに喜んでくれたみたいだね」
初めに聞こえてきたものと同じ声、この声の主が先ほど娘の体に乗り移っていたのだろう。
「そうだったのか」
「そうだよ。あの人が私をここまで連れてきてくれたの」
「いや、やはり僕には信じられない。質の悪い幻覚が僕を騙そうとしているに決まっている」
「そんな! 違うよ! 信じてお父さん! 」
「だめだ! どうしてもというなら娘を名乗るに足る証拠を提示してもらおうか!」
僕はまだ完全には信じ切れていなかった。
「わかった。私が娘本人であるということをお父さんに証明したらいいのね?」
「ああ」
「待ってて」
娘かもしれない存在は目を瞑った。そして数秒後、ピンク色のオーデコロンと言った。おもわず目を見開いた。それは生前の娘が欲しがっていたものの名前だったからだ。娘かもしれない存在はさらに続ける。
「限定色ですごく高かったから、中学生の私には手が届かなくて、定期テストでいい点数を取ったご褒美という条件でお父さんにお願いした。お母さんに内緒で。でも、折角買ってくれたそれを受け取る前に、私は事故で死んでしまった」
娘が死んでからプレゼント包装をしてもらったそのオーデコロンを何度捨てようと思ったかわからない。見るたびに事故を思い出し、辛くなってしまうからだ。
僕の悲哀の象徴。しかし、それは同時に娘の喜色の象徴でもあり、娘が最後に欲しがったものであるために捨てることができなかった。あの日以来ずっと、僕の部屋のクローゼットの奥深くに眠っている。
「私が死んだ後、お母さんが家に居ないとき、何度もそのオーデコロンをごみ箱に投げ入れようとして、手を止めていたよね。私が悲しむと思ったからでしょう? その時のお父さん、とても辛そうな表情をしていたから良く覚えている」
「やめろ」
「お母さんと上手くいかなくなって、独りぼっちになっちゃってからは、夜に色々なことをして寂しさを埋めようとしていたけど、逆にそれをする度にどんどん寂しそうな顔つきになっていっちゃったから、私は悲しくなって何度も声をかけて止めようとした。見えなかっただけで、私はずっとお父さんの傍にいたの」
「やめろといっているだろう」
これ以上、言わないでくれ。
「けど、私の声は届かず、お父さんはどんどん破滅的に夜にのめりこんでいった。
私も万策尽きたような思いがして、半ば諦めていたら、今日通ったあの山道で、案内人さんと出会って、お父さんを救うために協力してもらったの」
「やめろ!」
僕は叫んだ。
「もうわかったから」
気付けば泣いていて、語尾は嗚咽が混じって、上手く発音することが出来なかった。
「お前は美紀だ」
眦を拭うも、涙を止めることはできず、さらに激しくなるばかりだった。美紀はそんな僕を優しい目で見つめる。
「ただいま。お父さん」
その瞬間に僕は慟哭を上げ、美紀に抱擁した。そして、幼児の様にただ名を叫びながら泣き続けた。娘は拒絶することなく、抱擁し返し、背中を安らかに撫でおろし続けてくれた。
それからどれくらいの時間が経ったのかはわからない。僕は泣き止み、落ち着いた心で美紀の顔を正面から見られるようになった。
「美紀、お前はいずれ消えてしまうのか?」
僕は尋ねた。すると、
「そうだね。おそらくこの夜が明けるとき、私も一緒に消える」
そう言って美紀は悲しそうな目を浮かべた。携帯で時刻を確認する。午前三時、夜が明けるまでは後、二、三時間と言ったところか。あまりにも短い。
「そうか」
僕は俯いた。気まずい沈黙が流れる。美紀はそれを破るために明るい声色で言った。
「だから、今日はお父さんと二人で夜を楽しむために来たの」
「僕と夜を楽しむため」
「そう。お父さん言っていたじゃない。私に夜の楽しみ方を教えたいって」
そうか。美紀は僕の悲願を叶えるために現れた。呪縛から解放してくれるために現世に姿を現してくれたのだ。しかし、果たして無事に鎖を断ち切ることが僕にはできるだろうか。引きずることなく以前の様に戻ることができるだろうか。
「だからお父さん」
美紀が続ける。
「私がいなくなったら絶対に立ち直ってよね。お母さんとも仲直りして」
「ああ」
「約束だよ」
娘との約束ならば絶対に守らなければいけないな。
「約束する」
「じゃあいこっか」
美紀はシートベルトを締めて僕に笑いかけた。
「いこう」
残された時間は短い。夜が明ける前に急がなければ。キーを回し、エンジンをかける。豪快な音は暗闇に寂しくこだました。
かかる直前に、「存分に楽しみな。似た者親子」という声が聞こえた。
僕はありがとうと呟き、車を走らせる。はやる気持ちを抑えて、二度と来ない一時を噛みしめるためにゆっくりと進んだ。どんな時も決して忘れてはいけない。
過ごし方次第で浅くも深くもなる。夜は至高の消耗品だということを。




