直紀 事故前 3
「ホント、参るよな。俺以上に環にピッタリ嵌る男がいるなんて」
直紀は妻に抱いている疑惑を問い質すこともせず、ストーリーを勝手に完成させて自滅している器の小さい男に成り下がっていた。
そう、あのときに何度もチャンスはあったのに・・・・・・。
自嘲的に鼻で笑い、掃いて捨てるように呟くと、やり場のない苛立ちが込み上げてきて堪らずハンドルを叩いた。
雅孝のアトリエで環を拾ってから、2人は車で1時間ほどかかる隣県の一軒家を訪問する予定になっている。
数日前に「インペリアルジュード」または「琅玕」と呼ばれる最上質の翡翠を手に入れられるかも知れない、とバイヤーから連絡が入ったのだ。
今回の目的は、現物の品質、色、透明度を確認することである。「琅玕」は濃いエメラルドグリーンで表面に油を垂らしたようなとろみが美しい宝石である。そして、文字が書かれた紙の上に置くと、その文字が読めるほど透明度が高い。
バイヤーとはその琅玕の所有者の自宅で落ち合うことになっていた。
ジュエリーデザイナーや宝石バイヤーの元には「良い宝石があるが買わないか」というメッセージが日常的に、そして大量に届くが、殆どは紛い物や質の悪い物でとても使い物にならない。それでもたまに「当たり」があり、その情報を1度見落とすとそれは2度と手に入らないのだ。
だから今回のように、信頼できるバイヤーから信憑性の高い情報があれば、稀少な宝石を買い付けるためにどこへでも足を運んで確認するのである。
車内に流れるサックスの音を聴きながらの運転は、沈んでいた気持ちを少し楽にしてくれる。
自分は嫉妬深く粘着質な性格の持ち主だが、環を苦しめたくない。心移りしたのは環のほうであり、それを裏切りだと断罪できる優位な立ち場にいるとしても、彼女の前では最後まで「格好良い直紀」でいたいとも思っている。
ー大丈夫。ちゃんと良い表情も作れているはずだ。
カーオーディオから Don't Know Why が流れてきたとき、雅孝のアトリエに着いた。
都心から少し離れた閑静な住宅地の一軒家で、その広い敷地に車を停める。そして、玄関まで両側に槙が並んで植えられたアプローチを歩く。
引き戸を開けると三和土があって、左手に無垢の一枚板で作られた式台がある。そこから12畳の和室に上がるのだ。三和土の通路の奥にアトリエがあり、その床も三和土になっている。雅孝は妻と8か月になったばかりの愛息の3人暮らしで、1階を仕事場と居間、2階を寝室にしている。
直紀はアトリエまで進む前に足を止めて、階上から聞こえてくる赤ん坊の泣き声に頬を緩めた。
「雅さん、こんにちは」
声をかけてアトリエを覗くと、パイプ椅子に座ってジュエリーケースを手にしてる環の顔を見て眉間に皺を寄せた。
ー泣いていたのか?目が腫れているじゃないか。
環は直紀が来たことを知って、目を極限まで細めて笑いー恐らく泣いたことを誤魔化すためだろうー、「このネックレスもとても素敵ですね」とアクセサリーが入れられたケースを直紀に手渡した。
雅孝の前で泣いていた理由を聞くのは今じゃない、と判断してぐっと奥歯を噛みしめながら、ジュエリーの仕上がりを確かめる。
「うん。やっぱり雅さんは120点の出来で仕上げてくれる」
今回も期待以上の完成度に満足して何度か頷き、スエードが敷かれたジュエリーケースに収め直した。
「これから例の『琅玕』か?」
「そう。送られてきた画像を見る限り、今回は期待できそうだから、デザイン画ができたら雅さんに連絡するよ」
「翡翠は友香里の好きな宝石だから、いつも以上に加工の腕が鳴るなぁ」
直紀は、友香里の名前が出たところで出発前に挨拶しようと思った。
「友香里さんと忍くんの顔を見に2階に上がってもいい?」
雅孝は一瞬「っう」と言葉を詰まらせて、「多分、おっぱいやって寝かし付けてると思うから、今日は遠慮してくれ」と両手を合わせて「ごめん」のポーズをとった。
「わかった。じゃあヨロシクって伝えといて」
直紀が時計を見て、今から出発すれば丁度よい時間に到着できそうだから、と雅孝に言って、環に「行こうか」と声をかけた。
「はい」
まだ目が腫れている環の顔を見るのが忍びなくて1歩先を歩き始める。
ところが、環が付いてくる気配がないので振り返ると、彼女は雅孝を見てコクッと頷いている。その仕草を直紀が訝し気に見ると、何かを取り繕うような笑顔で雅孝は、「気を付けて」と2人を送り出したのだった。
車に乗り、エンジンを始動させると、先程途中で切れた Don't Know Why が流れてきた。
「友香里さんと忍くんは元気にしてた?」
「はい。忍くんは会うたびに重くなってて、ハイハイがとっても速くなってました。あと少しでつかまり立ちできそうです。本当に小さい子の成長って早いですよね。・・・私も子ども欲しい…」
その発言にびっくりして、思わず右の助手席の環を見ると目が合った。言うべきことではなかったと思ったのか、すぐに彼女は視線を僅かに逸らした。
「あの……帰ったら聞いて欲しいことがあって………」
車内に流れるジャズに搔き消されるくらい小さな声だ。
暫く待っても直紀の反応がないのは、聞こえなかったからなのかと、環が再度「帰ったら……」と口にした。
「聞こえてる」
環の言葉に被せてピシャッと遮る。
自分でも驚くほど大きな声で、そして妻を凍らせるような口調だった。
直紀の冷たい態度に環はビクッと肩を震わせて、隣で縮こまって俯いてしまった。これ以上喋ることは許されないと受け取って、それ以降環はひとことも発しない。
唯一流れるジャズ音楽が、息が詰まるような空間をほんの少し和らげてくれた。
ーついに別れ話を切り出すのか?それとも浮気してごめんなさいと泣いて謝ってくるのか?
謝罪して、このまま夫婦でいたいと請われたら、それ以上追求せず許そうと気持ちを固めているし、そうであって欲しいと一縷の望みを抱いている。が、そうではなく「別れたい」と告げられたら、「はいそうですか」と叶えてやる覚悟がまだできていない。
ー子どもが欲しい、って言ったよな?・・・俺との?・・・誰との?
他の男に抱かれる環を想像すると、頭の中がぐちゃぐちゃに掻き回されるような感覚がして思考が完全に停止する。
ーとにかく環の話を聞いてから、それから考えよう。




