思い出作り 4
* * *
今夜は特に冷えるから、と言って直紀は東京タワー近くの駐車場に車を停めていた。
彼のマンションまでの短いドライブで、来週タイに行くという予定を聞かせてくれた。4月にタイで開催される「ジュエリーショー・イン・アジア」に出展するため、会場の下見と現地スタッフ及び責任者とのミーティングが目的だという。
「1年じゅう、いろいろなイベントで忙しいんですね」
「そうなんだ。忙しく飛び回る分、宣伝効果はバツグンなんだよ」
「TO-J」はまだまだ新参のジュエリーブランドであるから、顔とブランド名が広がり始めた昨今、精力的にイベントに参加する必要がある。その積み重ねが「有名ブランド」に近づくのだ。
インターネットで配信するだけでなく、どれだけ実際に動いたかが勝敗を分けると言われている。
直紀は自分がいなくなるまでの数か月間をブランド力強化のために使うと決めていた。
藤原小春と安達雅孝らに託し、彼らがきっと「TO-J」を成長させてくれると信じている。
それを見届けることができないのが、唯々残念ではあった。
「タイからメッセージを送るよ」
「楽しみにしています。気を付けて」
直紀のマンションに来たのは今夜で3度目。広い居室にも最上階からの眺めにも緊張しなくなったが、浴室を借りるのは初めてのため、少しドキドキする。正面の壁一面が鏡で大きな半円形のバスタブが鎮座している。
直紀の説明によると、バスタブと反対側の洗い場には天井にミスト装置があるので、使ってみると良いとのこと。
説明が必要な浴室と言うことで身構えたわけだが、同時に楽しみでもあった。
もちろん、碧衣はミストを存分に体験した。高校生の頃、家族で行った沖縄のホテルにも同じようなミストシャワーがあって、「きゃっほー」とはしゃいだ記憶が鮮明で、それをここで再現できるのか…とワクワクしながら微細な霧を浴びた。
「んー!やっぱり最高」
ラグジュアリーホテルのように広い浴室でミストシャワーだけでなく、ジャクジーも満喫して、気が付けば浴室内のデジタル時計が40分も経ったことを示していたのだった。
碧衣は大急ぎで身体を拭き、濡れた髪を乾かしてから寝巻代わりに持って来たTシャツと短パンを着てリビングに戻った。
「すみません。あまりにも楽しくて長湯してしまいました」
Tシャツに短パン、スッピン姿の碧衣に直紀はドキッとして直視できない。
「いや、構わないよ。うちに来る友人にもここの風呂は大人気なんだ。楽しんでもらえたのなら良かった」
意識をせずとも短パンから出る白くて細い足に目がいってしまう。
決して下心があるわけではないが、健康な男性が持つ生理現象だから…と自己を正当化する。
ー頭を冷やさないと。
この家で若い女性が無防備な姿でウロウロしたのが環だけだったため、こんな事態になることを想定できなかった自分に呆れた。
「泊まれば」と誘った時点で予測しておくべきだったのだ。好意がある女性の風呂上がり姿を目の当たりにして胸が高鳴り、「俺は何歳なんだ」と心の中でつっこみを入れのだった。
「じゃあ、俺も入ってくるから、冷蔵庫から好きな物を飲んで」
手首の数珠ブレスレットをキャビネットに置いて直紀は、身体を温め、そして頭を冷やしに浴室に消えた。
碧衣はガラスキャビネットに置かれた環の遺影と数珠ブレスレットを前に、「環さん…」と好きになってしまった男性の妻の名を口にした。
(センゲツの神子様。神子様たちの祈り方を教えてください。少しでも天界に私の祈りが届くように神子様たちと同じように祈りたいんです)
『わかりました。・・・左手の甲に右手を当て行い胸に置きます。そして両膝を地に突けて俯きます。これが最も格の高い祈り方で、ワタシたちはこの姿勢で天界へ降りる神子を送ります』
碧衣は教えてもらったとおりに、膝を突いて環に祈った。
ー環さん。私は東条さんに憧れ以上の感情を抱いています。ひと言で言うなら「恋」だと思います。どうか好きでいることを許してください。
これは懺悔であり、言い訳であり、許しを求めるものであった。
ガチャリと音がして、入浴を終えた直紀がリビングに戻ってきた。繊月の覡は、ガラスキャビネットに向かって祈る彼女の姿が神子の最上級の姿勢であるのを見て、彼女が何を祈ったかを推し測った。
「環を参ってくれていたんだね。ありがとう」
「同じ事故で被害に遭った者として、ちゃんと挨拶をしなければいけないと思っていました。1度は天界までご一緒した仲ですし…」
「そうだな。神子たちの都合で環や橘佳弥斗君とは運命が分かれたけど、俺は君と出会って、故人を同じ立場で慰め合えるから神子たちに文句を言うつもりはないんだ。全てを受け容れてる」
ー全てを…そう、この先の運命も含めて。
風呂上がり、一緒に炭酸水を飲みながら次はどこに出掛けようか、と相談する。2人でパソコンのモニターを眺めながら近場のデートスポットを探した。
そして、直紀がタイから帰国した次の日曜日に葛西臨海水族園に行くことで落ち着いたのだった。
碧衣は遠足や友人たちと何度か遊びに訪れたのだが、彼は10年以上言ってないと漏らし、久し振りにクロマグロの大水槽を見たいし、繊月の番にも見せたいと言ったのが決め手となったのである。
碧衣は直紀と一緒に出掛けられるのなら、正直、何処でも良いのだ。ただしそれは口にはしない。
一方の直紀も全く同じことを思っていたが、やはり口に出すことはなかった。
その夜、碧衣は先日と同じ客間でぐっすりと眠ることができた。
彼女にも彼にも理性を保つためのストッパー的役割を担う神子が心に宿っているため、相手のベッドに忍び込むなどという不埒な振る舞いは決してしない。それでも、直紀は廊下の向こうに想いを寄せる女性がいるのだと思うと、なかなか睡魔が訪れてくれなかった。
30歳を疾うに越えているにも拘わらず、10歳も年下のピアニストの寝姿を想像するなど、恥ずかしすぎて「高校生か」と言って掛け布団を頭まで被ったのだった。
翌朝も前回と同じくトーストを碧衣が、コーヒーを直紀が用意して朝食を済ませて一緒に彼の家を出た。
こうして「健全なお泊まりデート」は終了したのだった。
* * *
3月に入ってすぐ、俊介からスマホにメッセージが届いた。
”明日、いよいよ渡米する。頑張って来るよ。碧衣ちゃんも元気でね。”
俊介とはプロポーズを断った日以来、1度も連絡を取っていなかった。
傷つけた側が相手の傷口に塩を塗るようで、何をどう言えば良いのか思い付かなかったのだ。どんな言葉をかけても結局、碧衣の自己保身のためのパフォーマンスになってしまう。
それでも俊介との縁が切れてしまうことは辛いと思っていたのだ。だから、彼のほうからメッセージをもらって返信する機会を得たことが素直に有り難かった。
”身体に気をつけて頑張ってね。応援してます。行ってらっしゃい。”
折角のチャンスなのに、味も素っ気もない返信しか送る言葉が見つからなかったが、細い糸1本分の絆は残せたようで今は満足だ。
これでいつかまた笑って話せる日がくるかも…と淡い期待を持ち始めた、その刹那、俊介からの新たなメッセージが表示された。
”今、話せる?”




