直紀 事故前 2
6時15分になったところで流石に待ちきれず、環のスマホを鳴らしてみた。
「はい、環です。・・・直紀さん、もうお帰りになりますか?」
数コールで電話に出て、普段と変わりない明るい声が耳に届くが、彼女が発した言葉に違和感を覚える。
「えっ・・・・・・今、どこ?」
ひとまず彼女の安全を認知し安堵はしたが、その声に焦りも戸惑いも直紀に伝わってこないことに奇妙な胸騒ぎが半端ない。
「家にいますよ」
刹那、環が大きく息をのむのが聞こえた。
「ごめんなさい!直ぐ、直ぐに支度してホテルに向かいます!ごめんなさい!」
「どうしよう、どうしよう」と泣きそうな声で右往左往している様子が通話を切ることすら忘れているスマホから聞こえてくる。
ー忘れていたのか?
環が無事だったんだと了解した時点で怒りも苛立ちもない。
ただ、あれ程楽しみにしていたイベントを忘れることなんてあるだろうか?と訝しむ。それでもパニック状態で準備してるだろうから、彼女が到着してから事情を聞くことにしよう、と心を落ち着かせた。
それから1時間ほどして息を切らしながら、この日のために買ったライムイエローのフレアワンピース姿の環が現れた。髪はひとつに纏めてアップにしている。その髪を留めているのは、スワロフスキーのパウダーイエローのビジューが隙間なく並べられたヘアクリップである。
当然これも直紀のデザインだ。
右手を胸に当てて、乱れた呼吸を一刻も早く整えようとしている。
「本当にごめんなさい。どうしたんだろう。忘れていたなんて、自分でも信じられないし許せないわ。本当に、本当にごめんなさい」
謝罪の言葉を途切れることなく捲し立てられるのを聞いていると、だんだん気の毒になってきて、「何かあったのかと心配したけど、ちゃんと来れたんだから気にしなくていい」と慰めてしまうのだから仕方ないものである。
何日も前からこの日を楽しみに服を買いに行き、恐らく今夜のために特別な下着も買っただろう。その浮かれた様子を見てきただけに、「失念してました」という言い訳では直紀が納得できない理由があった。
オロオロして今にも泣き出しそうな顔で謝る環の左手薬指に結婚指輪がないのだ。かと言って、代わりに直紀がプレゼントした他の指輪が嵌められているのでもない。
今まで外したことがない結婚指輪を選りによって「今日」外しているなんて…喉元まで「指輪は?」と出そうになるが、結婚記念日という大事な日に言い争いたくなかった直紀は、ひとまず堪えた。
額から出た汗が頬を伝っている状態の環はテーブルのミネラルウォーターをひと口だけ飲んで、「食事の前に汗を拭いてきます」と言って席を立った。
直紀は引き攣った顔で「行っておいで」と頷く。
彼女がグラスに付けた口紅の跡を見ながら、指輪を外した事訳を思索するが、沈んでゆく気分を晴らす慰めは何も思い付かない。
どんな場面で指輪を外すだろう。百歩譲って、外さざるを得なかったとして、なぜすぐに嵌めないのだろう?その答えは自分には難しかった。
汗を拭いて化粧を直し、席に戻った環の左手薬指には見慣れた指輪が何事もなかったかのように嵌められている。
結局、4回目の結婚記念のイベント中、ディナーに遅れてきた本当の理由とー少なくとも直紀が納得できるー指輪を外した件は話題にならなかった。
ーそうだ。1番最初に彼女の異変に気付いたのはあの日だった。あの時点で自分が抱いた違和感をぶつけていたら、今のような状態になっていなかっただろうか?・・・・・・否、環の口から俺以外の男の存在を明かされることに耐えられるはずがないのだから、タラレバの話を考えても詮無いことだ。
あの日以来、環から愛を囁かれ、「抱いて欲しい」と肢体を絡めてくる夜が少しずつ減り、キングサイズのベッドで並んで寝ているにも拘らず、まるで直紀から手を伸ばされるのを拒むかのような壁を感じるようになってしまった。
直紀が求めれば恥ずかしそうに応じてくれるし、お互いが達して疲れ果てるまで激しく燃えるような行為がないわけではない。
ただ、その行為中、環は「直紀に」抱かれているのか?
ー環が愛しているのは既に別の誰かであって、俺ではないのかも知れない。時々見せる辛そうな表情は、「私の気持ちを察して」と俺に仄めかしているのか?だとしたら環は狡い。俺のほうから「別れよう」と言わせたいのだ。俺だって気付いてるんだぞ、と匂わせることはあっても絶対に環が望むようなことは言わない。物わかりのいい夫を演じてやるほど俺は優しくないんだ。
環の心が他人にあっても、たとえ「抱いて」と縋ってこなくなっても、環を易々とそいつに譲ってやるもんか……………。
鳩尾の辺りをぎゅうっと握り潰されるような痛みがする。
妻を絶対に繋ぎとめるんだ、とどれだけ強がっても最終的に直紀は彼女が幸せになる道を歩くことを許してしまうほどに妻を愛している。
そして彼女を手放した後、情けないくらいボロボロになって廃人同然になった自身を想像するのである。
ー惚れた男の末路だな。
はあっ、と短く息を吐いて気を取り直し、シートに座りなおしてエンジンを始動させた。
ホテルでの打ち合わせの後は、クラフトマンの安達雅孝のアトリエに依頼しているジュエリーを受け取りに行くことになっている。
今朝、直紀が家を出る前に環から、彼女が姉のように慕う雅孝の妻の友香里と息子の忍にゆっくり会いたいから先にアトリエに行って待っていると言われた。
クラフトマンとは直紀が描いたデザイン画を基にして加工を施し、ジュエリーを仕上げる職人である。直紀より2歳年上の雅孝はクラフトマンとしてその腕は一流で、毎度、直紀の期待以上に仕上げてくれるのだ。
環が「TO-J」に入る前から組んで仕事をしており、「俺たちは『ニコイチ』だな」とお互い言いあっている。
環が友香里を慕うように、直紀も雅孝を「雅さん」と呼んで兄のように慕って信頼している。雅孝は「直紀」「タマちゃん」と呼び、環から「猫じゃありません」と反論されていたが、いつの間にか直紀以外のスタッフも皆、「タマちゃん」と呼ぶようになり、結婚後もそのまま「タマちゃん」である。
そして環自身もそう呼ばれることに慣れると、メモのサインに「タマ」と残すようになった。
ホテルの駐車場から雅孝のアトリエまで20分程かかる。その間に「嫉妬深い夫」から「環の良き夫」の顔に切り替えるためにカーオーディオをオンにすると、環が置いている彼女のタブレットから曲が流れ始めた。
初っ端から環イチオシの Take Five だ。
初めて連れて行った銀座のワインバーで彼女はジャズに嵌った。彼女と付き合うまで車で音楽を聴く習慣がなかった直紀には、環が好きなジャズの名曲が流れる中でのドライブは心地良かった。
これから先もジャズを耳にすれば環を思い出すのだろうなぁ。




