思い出作り 1
ーえっと…ここは…。
凹凸のある淡いレモンイエローの壁紙とアンティークのライティングビューロー、そして自身が目覚めたベッドというシンプルな部屋。隙間から光が洩れる遮光カーテンの丈から判断すると、その向こうはバルコニーだろうか。
ーああ、そっか。昨夜俊介くんのプロポーズを断った後、東条さんに会いたくてマンションまで来てしまったんだった。それから…。
タクシーに乗って無我夢中で辿り着いたものの、彼は不在で仕方なく駐車場で待ったのだった。
さらに記憶を辿ると、彼が家に連れてきてくれて、泣きじゃくっている碧衣を慰めるように彼が淹れてくれたホットミルクをソファで一緒に並んで飲んだ。
それから少し落ちつたところで、プロポーズを断ったことを話した。その相手が大学時代からの親友で、事故に遭った時も一緒にいたことも話した。
そこまでは辛うじて覚えている。
ところがその後は、辿れる記憶が全くない。恐らくその時点で眠ってしまったのだろう。
慌てて自分の身なりを確かめると、服装は昨日と同じリブニットとスカートを身に着けている。
俊介に「抱いてくれて良い」と迫ったように、無意識のうちに直紀に同じことを口走ってないか心配になったが、どうやらそこまで我を忘れていなかったようで胸を撫で下ろしたのだった。
ー話してる途中で寝てしまって、東条さんがベッドまで運んでくれたんだ。
(そうですよね)
自分が寝てしまったとしても、自分が知らない記憶をしっかり記録してくれる神子がいるのは助かった。
『はい。アオイが泣き疲れて眠ると、ナオキがここまで抱っこして運んでくれました』
はあーっと情けない溜め息を吐き、ライティングビューローに置かれた自分の腕時計で現在の時刻が7時だと知る。
そしてビューローと揃いの椅子には碧衣のバッグ、その背もたれにコートを掛けてくれてある。
バッグの中から化粧ポーチを取り出すが、まさか泊まることになるとは思わなかったので、メイク道具が揃わずフルメイクは出来ない。
今更ながら、俊介とあのままホテルで一夜を過ごしたとしても、フルメイクが出来なかったのだ。ただ、目が腫れる程泣かなければ何とか修復できただろう。俊介が部屋を出た後に見た自分の顔は酷いものだった。
そして、ここに来て直紀の前でも散々泣いたのだ。きっとホラーな顔になっていることは容易に想像できる。
直紀が起きる前に何とか恥ずかしくない程度の顔にしたい。
化粧ポーチを胸に抱えて静かに部屋を出ると、見知ったリビングのドアが見えた。
ドアに嵌められたスリットガラスから室内を覗くと碧衣の願いも空しく、昨日寝落ちしたソファでタブレット端末を操作している直紀の姿が見えた。
「おはようございます」
そうっとドアを開けて、小さな化粧ポーチで見苦しいであろう顔の目から下半分を隠しながら挨拶をすると、「眠れた?」と彼女の様子を探るように見てきた。
「昨夜は勝手に会いに来て、泣くだけ泣いて、その上寝落ちして、挙句の果てにベッドまで運ばせてしまうという何重にも迷惑をかけてしまい、大変申し訳ありませんでした」
ひと息に捲し立てて深々と頭を下げる。
「今日が日曜日で良かった。夕べはとても疲れたみたいだから、目が覚めるまで寝かせてあげようと思ってたんだ。・・・それから、ここに泊まったことも気にしなくていいよ。俺にとっても都合が良かったし…」
最後の1文の意味が分からない。
「東条さんにとっても都合が良かった…って?」
「あ、そこの右側の扉が洗面所で、その奥が浴室だからシャワーを浴びてきたら?」
碧衣の疑問には答える気はないらしい。深く追及することをあっさり諦めて、今は酷い顔を何とか整えることを優先させた。
「それでは洗面所をお借りします」
逃げるように洗面所に駆け込み、壁一面の大きな鏡に映ったほぼスッピンの顔を見て「やっぱり酷い…」と嘆いた。
直樹より実年齢で10歳以上年下なのに、化粧が落ちるとそれより更に若く…幼く見えた。
「はぁ…」
全身から力が抜けてガクッと項垂れる。
『アオイ。そんなに落ち込まなくても十分可愛いですよ』
こんなことで神子に気を使わせるとは何とも情けない。
「お気遣い恐縮です」
いつまでも洗面所に籠るわけにもいかないので、持っているメイク道具で最低限、妥協できる顔に仕上げてそこから出た。
リビングに行くと、直紀がキッチンでコーヒーを淹れる準備をしていた。
「洗面所、お借りしました。それから、洗面カウンターに用意していただいてたフェイスタオルもお借りしたので、洗濯してお返ししますね」
目が覚めた碧衣が使いやすいように、予め直紀がフェイスタオルを用意して「これを使ってください」とメモを乗せておいたのだ。
「いいよ。洗面所奥の脱衣室に洗濯機があるから放り込んでおいてよ」
「いえ、洗ってからお返しします。・・・ご迷惑かけ過ぎてますから、これくらいしないと情けなくて次から会いにくくなります」
それだけ言い残して、化粧ポーチとフェイスタオルを客間に置きに行った。
昨夜いきなり直紀を訪ねたが、もしかしたら彼には今日、何か予定があったかも知れない。
朝食を食べたらできるだけ早く帰ろうと、バッグに化粧ポーチとフェイスタオルを詰めて、ベッドメイクを済ませてからリビングに戻った。
「何かお手伝いさせてください」
「じゃあ、食パンをトースターに入れてくれるかな」
言われたとおりポップアップトースターに食パンを2枚入れてレバーを下げる。
「いつも朝食はパンですか?」
「環がいた頃はたまにパンも焼いたんだけど、1人になってからはコーヒーだけかな。今朝は如月さんがいるから久し振りにパンが食べたくなって、君が寝ている間にコンビニで買ってきたんだ」
ー私、寝過ぎたんだわ。
「すみません」
コーヒーとトースターができるまでの時間で昨夜の突然の訪問を謝罪する。
今のところ迷惑かけっぱなしである。呆れられたに違いない…と落ち込む。
「あの…夕べはいきなり訪ねて申し訳ありませんでした」
こういった場合、流れとしては「気にしないで」と言ってもらえるのが普通だろうと思っていたのに、返ってきたのは「ほんとに。連絡して欲しかった」という言葉だった。
やはり迷惑だったのだ。
月に1度手を繋いで祈るうちに親近感が湧き、頼っても良いの関係になったのだと思い込んでしまっていた。いくら会いたかったから…といっても甘えてはいけなかったのだ、と心が痛んだ。
「すみませんでした。ご迷惑でしたよね」
俯いたまま直紀の顔を見ることができない。
「もし仕事で帰れなかったり、帰りがもっと遅くなっていたらどうするつもりだったんだい?君が泣きながら凍えてたんじゃないかと思うと堪らないよ。・・・でも、俺を頼ってここまで来てくれて嬉しかった」
てっきり距離を置かれるような言葉を投げられると思っていたのに、温かい言葉が続いたことに驚いて顔を上げると、彼の優しい視線と碧衣の戸惑う視線が絡まって時間の流れがゆっくりになった。
パクパクと水面で魚が空気を求めるように困惑しながら顔が熱くなる。
漸く「わたし…」と声に出したそのタイミングでトースターがチン!と鳴ってこんがり焼けた2枚のパンが飛び上がった。
あと少しでロマンチックなムードになりそうな空気を「はい、そこまで」と言われたようで、それが可笑しくて2人同時に顔を見合わせたまま吹き出したのだった。




