別れと決意 5
* * *
『バレンタインデーというのは、女性が想いを寄せる男性にチョコレートを渡すというイベントの日でしたよね。なのに、ナオキどのは誰からも渡されませんでした』
(運転中に嫌なことを言うなあ。ちょっと性格悪くなったんじゃないか?)
ハンドルを握る直紀の左手首には、1週間前に完成した翡翠の数珠ブレスレットがある。
スイスから持ち帰ったラフダイヤモンドは環の遺骨から作られたもので、雅孝が美しく輝くように研磨してくれた。それを琅玕と呼ばれる上質な翡翠の玉に嵌め込んである。
もちろん直紀がデザインしたものだ。
(俺にはこれがあるから、別にチョコレートは要らないんだよ)
ーチョコレートか…。毎年、環手作りのガトーショコラを食べたなぁ。
1年前のバレンタインまで当たり前のように作ってくれた妻のガトーショコラが懐かしい。
シャンパンに合うようにビターチョコで作ってくれるのだが、直紀の口に入るのは初日のワンピースで、気が付けば環のお腹に収められていたのだ。
右手で数珠ブレスレットに触れて、「もう1回で良いから食べたいなぁ」とその味を思い出して呟いた。
マンションの駐車場に車を停めて、途中コンビニで買ったカツカレーとダイエットコークが入った袋を片手に、1番近くの通用口へ向かう。
すると扉横のコンクリートの段差に項垂れて蹲る女性が見えた。具合が悪いのだろうか?と近づくその足音に気付いたのか、女性が顔を上げた。
「如月…さん?」
「お帰りなさい。コンシェルジュさんが、まだ東条さんはお帰りになっていないと仰ったので、ここで待ってれば会えるかと思って…」
消え入りそうな小さな声で説明する。
明らかに泣き腫らした顔は疲れ切った表情をしているが、直紀に会えたことで安心したのか、一旦停まっていたであろう涙が再び堰を切ったように溢れてきた。驚いた直紀は彼女の前にしゃがみこんで、目の高さを同じにする。
「どうした?」
只事ではないのは一目瞭然である。
一瞬、環に起こった不幸な犯罪が脳裏を掠めて背筋が凍った。
もしそうであったら一刻も早く保護してあげなければいけない。できるだけ軟らかく労わるように声をかける。
碧衣に直接触れれば繊月の巫に事情を尋ねることも可能だが、もしかしたら彼女は知られたくないと思っているかも知れない。だとすればそれを尊重するべきだ。
直紀が目を細めて「大丈夫?」と囁いた。
碧衣は止まる気配のない涙を拭うこともせず、直紀に何かを訴えるように下唇を強く噛んでから、いきなり彼の首に腕を回して抱きつき、声を押し殺して泣き続けている。
そんな彼女の後頭部をゆっくり、ゆっくり撫でて、「ウチに来る?」と聞くと、こくんと頷いたのだった。
碧衣をリビングのソファに座らせてホットミルクを作ってやる。
どのくらいの時間、通用口前で座り込んでいたのだろう。身体が冷え切っているじゃないか。
マンションの表玄関からでも通用口からでも、エレベーターに乗るためにはコンシェルジュの前を通るので、どちらで待っていても会えるのだから、暖かいマンションロビーで待てばよかったのに、泣き腫らした顔を見られたくなかったのだろう。
直紀は彼女の衣服の乱れがないか、傷んだところがないかをさっと見て確認した。・・・見た目に異常は無い。
夕食用に買ったカツカレーをキッチンに置いて、自分にもホットミルクを注いだら碧衣の隣に腰を下ろした。
碧衣は冷えた身体をミルクで温めるように両手でマグカップを包むように持ってひと口啜る。
「美味しい」
マグカップの中身を見つめたままそう言うと、再び黙りこくってからもうひと口飲んだ。
そして隣で何も言わずに寄り添ってくれている男性の左手首に、以前見せてもらったデザイン画と同じ翡翠のブレスレットがあるのに気付いた。
「奥様、帰ってこられたんですね」
その声は力がなく疲れ切っている。
彼の元に環が戻ってきたことを見せつけられても心が痛まないし、妬くこともない。そもそも想いを残したまま死んでしまった人に勝てるとは思ってない。
彼が碧衣によく見えるように腕を上げて「うん、やっとね」と言う。
「良かったですね」
手首を囲むように10数個の翡翠玉があるが、その中で最も色が濃い玉にダイヤモンドが嵌っている。
ー綺麗なダイヤモンド。きっと環さんも心が綺麗なかただったんだろうなぁ。
数時間前に嘘を並べて親友を傷つけた自分が恥ずかしかった。
「何があったのか、どうしてここに来たのか、如月さんが話したければ聞くよ。もちろん、言いたくなければ無理に聞くつもりはないから安心して」
ホットミルクも飲み干して落ち着きを取り戻した様子を確認してから声をかけてみた。決して強制ではなく、彼女の気持ちに任せた。
いきなり直紀のマンションに来て泣いているのだ。碧衣はここに来たワケをちゃんと話して、会いたかったのだと伝えなければいけないと思った。
隣で心配そうに眉を顰めている直紀に顔を向けて伏し目がちに口を開く。
「ひと月前に、大学時代から仲良くしている男友達からプロポーズされたんです」
ーひと月前…もしかしたら高島田百貨店でエレベーターに乗り込むところを見たあの男か?
ずっと心に引っ掛かっていることだった。
あの時の男の正体が気になって仕方なかったが、おそらく間違いないだろう。
まずは学生時代の友人だと判明して納得する。それと同時に、プロポーズされたと聞いて、後頭部を鈍器で殴られたようなショックを受けたのだった。
「その返事は?」と思わず口を突いて出そうになるのを必死に抑え込んで、彼女が話を続けてくれるのを待った。
妙に心臓の音が煩い。
ー断ったと言ってくれ、頼む。
「私、今日ほど自分が嫌いになったことはないです。ずっと…ずっと支えてくれた人を傷つけてしまいました」
彼女が口にする一言一句と、今の彼女の状態を合わせて頭の中で丁寧に反芻し、「プロポーズを断ったに違いない」という結論に胸を撫で下ろした。
断った理由は一旦置いといて冷静になる。そして、「うん」と何かズレた相槌を打ったのだ。
碧衣は大学時代での佳弥斗と俊介との関係、事故で車から助け出されたこと、その後ずっと傍で支えてくれたこと、そしてひと月前に高島田百貨店でプロポーズされたことを順に話して聞かせた。
「思わせぶりな態度を取り続けて期待させてしまったんです。彼の気持ちを薄々知りながら都合よく彼を利用した…最低な人間ですよね」
自己嫌悪に陥っているように吐いて捨てる言い方をする。
暫く沈黙が続く。
碧衣はそれ以上言葉を続けることなく直紀の身体にもたれかかってきた。座っていることすらしんどいのだろう、と肩を貸す。
取り敢えず、不幸な犯罪に巻き込まれたのではなかったことに安堵したが、自分を頼って来てくれたのだから何か言葉をかけてやらなければいけない。とはいえ、何か言葉を…と考えても彼女がプロポーズを断ったことが嬉しくて、この状況にピッタリの言葉が浮かばないのだ。
(情けない。あの男と結婚しないからといって、自分にチャンスがあるとでも?)
そう考えると少し頭が冷えた。
そこで彼が少しでも慰めてやろうと隣を見ると、既に碧衣は静かにすうすうと寝息を立てていたのである。
ー泣き疲れたんだな。俺に話してちょっとは気持ちが楽になったんだろう。
直紀は彼女を起こさないように、ゆっくりと横抱きにして客間のベッドに運んだ。
随分長い間泣いたのか、涙が引いても目の腫れは残ったまま。額にかかった前髪をそっと掻き上げると傷痕が現れた。少し盛り上がっている。きっとあの事故で負ったものだろう、と推察した。
ー女の子にこの傷は辛いだろうな。




