別れと決意 4
「返事は食事の後に聞かせて欲しい」と言う俊介に従った。
インルームディナースタイルの食事で、スタッフが料理をテーブルに並べてくれる。乾杯用にソムリエがシャンパンの説明をしてから、フルートグラスに注ぎ、ハーフサイズのワインの残りをワインクーラーに差して部屋を出ると、2人きりの空間になった。
「じゃあ乾杯しようか。誕生日とクリスマス、ドタキャンしてしまって申し訳なかったけど、今日、こうして会ってくれてありがとう」
「それ、高島田百貨店の日本料理店でも聞いたよ」
余程彼女に悪いと思っているのだろう。
「ま、そういうこと」と照れ笑いしながら俊介がグラスを目の高さまで上げたので、碧衣の同じようにしてシャンパンの泡の向こうに彼を見ながら「乾杯」と言った。
テーブルにはアミューズブーシェのシュー皮に包まれたサーモンやイクラのテリーヌ、オマール海老のサラダ、鱗付き金目鯛のナージュ仕立て、牛フィレ肉とフォアグラのロッシーニがそれぞれ金で縁取られた真っ白な皿に盛られている。
そしてパティシエのセレクトデセールは飴細工で仕上げられたプディング。
コーヒーもポットに入れて置かれ、テーブルいっぱい並べられた料理は、まるで見本市のように華やかだ。
そしてそれらは美しいだけでなく、どれも文句なしに美味しい。
碧衣は俊介からアメリカ出張の話を聞きながら、次々に平らげていく。
テーブルに順々に並べられたときは、「こんなにたくさん食べきれないわ」と言っていたのだが、手を止めることなく間食してしまった。
この後、目の前の彼に非情な返事をするというのに、どの料理も美味しく食べられる図太さが情けない。
普通なら「喉を通らない」という表現がぴったりな場面のハズ。
食事が終わったことをフロントに伝えるとすぐに、テーブルを片付けにスタッフがやって来た。彼らの仕事が終わるまでの間、碧衣は大きなガラス窓から夜景を眺めている。
ホテルマンがすべての食器をワゴンに乗せてしまって部屋のドアを閉めたら、いよいよ俊介にプロポーズの返事をしなければいけない。
緊張で胃の辺りがキリキリと痛み出す。
そして「失礼しました」と言ってドアが閉まる音を背後に聞いて、訪れた静寂の中に自分の鼓動が響く気がしたのだった。
碧衣がガラス越しに見ている夜景に、近づいて来る俊介の姿が映り込んでくる。
「返事、聞かせてもらってもいい?」
碧衣の両肩にそっと手を乗せて耳元で囁く。彼の息は微かに熱を帯びて、彼女の耳朶を擽る。
ガラス窓に映る俊介の目を見て「うん」と頷くと、意を決して振り返る。そしてついに向かい合う格好になった。
胸いっぱい大きく息を吸ってから一旦息を止め、時間をかけてゆっくり吐く。
それは決して時間稼ぎではない。
「プロポーズしてくれてありがとう。・・・事故のとき、危険を顧みず、車から引き摺り出して助けてくれてありがとう。・・・悲しいとき、いつも寄り添ってくれてありがとう。・・・俊介くんのこと、好きだけど、ホントに大好きだけど、結婚できません。ごめんなさい」
深々と頭を下げて親友からのプロポーズを断った。
ー伝えた。ちゃんと言えた。
最後まで声を震わすことなく、彼の目を正面に見据えて言えた。
彼は黙っている。
プロポーズを受け入れてもらえると期待していただろうか。
それともこの状況を予想していただろうか。
碧衣はこの沈黙の時間に耐えきれず、もう一度「ごめんなさい」と頭を下げたまま繰り返した。
「うん」
彼が零したそのひと言が暗くて重い。
「断る理由を聞かせてもらう資格はあるよね」
その声はいつも通り優しい彼のものだった。
当然聞かれるだろうと、碧衣は準備していた台詞を本心のように口から出していく。
「佳弥斗くんのことをまだ忘れられないの。・・・このひと月よく考えたんだけど、俊介くんとはずっと親友としてつき合ってきたから、どうしても結婚相手としてみることが出来なくて。多分この先もそれは変わらないと思う」
用意してきたとはいえ、よくつらつらと嘘を並べられるものだ、と自分でも呆れるのを通り越して悲しくなってくる。
ーそんなに良い子ちゃんぶりたい?
ーそんなに悪者になりたくない?
ー亡くなった人を利用して平気?
ー自分さえ守れたらいいの?
ー卑怯者!
心の声が責める。この声は繊月の巫のものではなく、碧衣自身のものだ。
そんな彼女の「ウソ」を聞かされた俊介は「そうだよな」と自嘲気味に笑った。
「ごめんね、碧衣ちゃん。佳弥斗がいなくなったから、チャンスだと思ってプロポーズしたわけじゃないんだ。本当に結婚したいと思った。それだけは信じて」
ーああ、苦しい。嘘をついているのは私なのに、俊介くんに謝らせてる。俊介くんは何ひとつ悪くないのに。
碧衣は自分が罰を受けるべきなのだと思って、2度と彼の前に立てなくなるのを覚悟で言う。
「もっと早く断っても良かったのに、期待させるようにひと月まるまる待たせてしまった。そのお詫びと、今までのお礼を兼ねて、ここで抱いてくれていいよ。私の『初めて』をあげる。ちょうどベッドもあるし」
ーああ、最低だ。最低だ。・・・でも、これで私のこと嫌いになれるでしょ?
最低な言葉を吐いた碧衣を憐れむように見下ろす。
「ほんとにごめん。嫌なことを言わせてしまった。俺の所為だよね。碧衣ちゃんはそんなことを本心で言うキャラじゃないこと、俺が1番知ってる。・・・ここで抱いたら俺、一生自分を許せないだろうし、絶対後悔するの分かってるんだ。・・・だから、このまま最高の笑顔で振って」
碧衣は涙で化粧がドロドロになった無様な顔を彼に晒しているだろうと思った。
「どうしてこんなに酷いことを言ってるのに優しくできるの?・・・私、笑えないし、そんな資格ないよ。いつも助けてもらって…支えてもらってたのに。俊介くんの優しさに付け込んで利用してきたんだよ?」
全身を震わせてむせび泣く。両方の手の甲で、ドロドロに溶けた化粧が混ざった涙を拭うが、次から次へと溢れて止まらない。
子どもがヒックヒックと肩を上下させて泣いているのと同じ。
「利用されたなんて思ってないよ。頼って欲しいと言ったのは俺のほうだろ?好きな子に頼られて嬉しかったよ。・・・さあ、これで最後にしたくないから笑って!」
碧衣だって俊介のことは大好きだ。ただ、それは愛ではない。
せめてと彼の要望通り、涙でグチャグチャな顔で笑おうと頑張る。にいっと白い歯を見せて無理やり笑顔を作って見せた。
そんな碧衣に目を細めてその頭を撫でた。
「じゃあ、俺が先に部屋を出るから。落ち着いたら帰って。・・・次に会うときは今まで通り親友として」
そう告げて泣き止まない彼女の脇を通って部屋を出た。
締まるドアの音があまりにも悲しく響いた。
碧衣は振り返って彼を見送ることもできず、ただガラス窓の向こうに広がる暗闇と煌々と輝く街の灯りを焦点の合わない目で見ていた。
「私、酷いことしてますよね。俊介くんを傷つけたばかりだというのに、無性に今、東条さんの顔が見たいんです。会いたくて、会いたくて苦しいんです」
鼻を啜りながら繊月の巫に明かす。
『アオイ。シュンスケとの別れはあれで良かったのですよ。全ての嘘が悪いわけではないのです。アオイはシュンスケを傷つけたと言いますが、最も小さな傷口で済んだと、ワタシは思います。アオイは自分を責め過ぎです。ナオキに会いたいのなら、会いに行って良いのです。・・・ほら、顔を上げて』




