別れと決意 3
(私が佳弥斗くんを忘れて、東条さんを慕うことは許されないことですか?)
『アオイがナオキを慕うことと、カヤトを忘れることは繋がっていませんよ。カヤトとの思い出は1つや2つではないですよね?それらを全部、記憶から消してしまうのですか?無かったことにできるのですか?』
佳弥斗との思い出。
一緒に大学祭の模擬店でかき氷を作った。
まだ5月だというのに汗だくになりながら歩き回った浅草神社の三社祭。
来日した海外の管弦楽団のコンサートには数えきれないくらい足を運んだ。
ドイツ・ベルリンからのコンサートは東京だけでなく、高松や大阪の部にも行った。
そして碧衣の部屋での夜通しの音楽談義。
卒業記念コンサートでは彼の指揮でピアノソナタを弾いた。
どれも佳弥斗と2人きりだったわけではないが、碧衣が見つめる視線の先には必ず彼がいた。
ー忘れられるわけがない。彼と過ごした4年間は私の宝物だ。
『カヤトへの想いとナオキへの想いは違うのですよ。一方を得るために他方を消し去る必要なんてどこにもありません』
巫が優しく語りかけてくれる声が心地良く、碧衣の気持ちを解してくれる。
アップライトピアノの上にある佳弥斗とのツーショット写真と遺品のタクトを見て、「忘れられるわけがないよ」とそれらに聞かせた。
(俊介くんとはこれからも友人でいられるでしょうか?)
彼からのプロポーズを断っても、友人でい続けたいとお願いするのは都合が良過ぎるのだが、彼とは一生親友でいたいのだ。
『シュンスケからの求婚を断ったら、難しいことかも知れませんね。断るなら、友情の絆が切れることも覚悟をして気持ちを伝えなければいけません。それはアオイにとっては辛いでしょう。それでも傷付くのがシュンスケだけではつり合いが取れません。・・・でもアオイ、異国の地へ行けばシュンスケにも新しい出会いがあるでしょうし、年月が経てば友人として再会し、そのときには笑って話せるようになっているかも知れません。・・・1か月という時間をシュンスケがくれたのですから、焦らずによく考えなさい』
繊月の巫の話は碧衣を十分穏やかにするものだった。
(やっぱりセンゲツの神子様がいてくれて良かったです)
この時の碧衣は直紀が近々ぶつかる運命の選択を知らない。
巫は碧衣が今抱えている悩みが些細なものだと思う程、苦しい未来が待っていることを考えると、自分にも言葉をかけてくれる存在がいて欲しいと思ったのだった。
* * *
5回目の繊月の祈りも南急ホテルで行い、今回は宿泊しない旨を事前に伝えた。そうすることで「朝食を一緒に」と碧衣に気を使わせずに済むからだ。
「早朝の便で環を迎えにスイスに行ってくる」
環の遺骨を秋元夫妻に託して4か月。ついにメモリアルダイヤモンドとなった妻を帰国させるために渡欧するのだ。
「帰国したら、環さんにご挨拶させてくださいね。お気をつけて行ってください」
祈りの儀式を終えると直紀は、そのまま宿泊する碧衣と別れて自宅に戻った。
リビングに置かれたにこやかに笑う妻の遺影に「もうすぐ会いに行くから」と声をかける。
彼女を傷つけたまま死なせてしまった負い目から目を逸らさずに、これからは傍に置くと決めている。
そこには彼女の魂は残っていないのだから、直紀の自己満足にすぎないのだろうが、そうせずにはいられない。自分は環の変化に気付いていながらも、妻から不貞を打ち明けられ、別れて欲しいと懇願されるのだろう、というありもしない罪深い妄想に怯えて、彼女に弁解のチャンスすら与えなかった薄情な男なのだ。
「ごめんな」
ブライダルフェア開催期間中ということもあって、スイス滞在は1泊だけで、「とんぼ返り」の旅となった。
フェアが終わってから環を抱いて、のんびりスイス観光しても良かったのだが、1日でも早く彼女を自宅に帰してやりたかったためにこのような強行軍を選んだのだ。
環のダイヤモンドは真っ黒な革のケースに入れられていた。
蓋を開けると研磨前のラフダイヤモンド(原石)が鈍く光る。原石のままではあるが十分美しい。少し黄みを帯びている。
ケースから環を取り出して真綿で包み、ロングチェーンの先に付いているチタン製ピルケースに入れ直すと、首からぶら下げて帰国の途に就いた。
服の上からピルケースに手を当てると素肌に環を感じて心が温かくなったのだった。
そして4か月ぶりに帰宅した妻をピルケースから解放して、遺影の前に置かれた彼女の結婚指輪と並べてリングクッションに戻した。
「おかえり、環。今夜も東京タワーが綺麗に見えるだろう?」
彼女が大好きだったタワーも「おかえり」と言ってくれているようだ。
ほんのひと晩限りの我が家ではあるが、そこに環のラフダイヤモンドが鈍く輝いているだけで落ち着く。それに、明日から再び家を出ると言っても、行き先は雅孝のアトリエなので何の不安もない。
このダイヤモンドを磨いて嵌め込む翡翠は、雅孝が既に加工してくれていて、環の到着を待つのみとなっている。
一般的に原石の宝石を加工する際は、カットしてから研磨するのだが、環のラフダイヤモンドはほとんどカットの作業をせず、美しく輝くようにだけ重点を置いて研磨することになっている。ジュエリーアクセサリーとしてのブレスレットではないので、雅孝もできるだけ手は加えないほうが良い、と言っていた。
完成まで約1週間。
「また迎えに来るから」と環に告げて、1度胸に抱きしめてから雅孝に手渡した。
「タマちゃん、お帰り。・・・最高に美人さんにしてあげるからね」
* * *
2月14日。
街はバレンタインのハート模様のポップで溢れている。
俊介が予約した帝都ホテルのロビーのソファに腰掛けて、膝に置いた手を握り締めている。
待ち合わせの時刻より30分も早く来たのは、心を落ち着かせるのにそれくらいの時間が必要だったから。どう返事するか、碧衣はこの1か月真剣に、そしてじっくりと考えて結論を出した。
俊介を傷つける代わりに友情を失っても、自分に嘘はつけない。これが全てだった。
払える代償は何でも差し出す覚悟もできている。
ー私は狡い人間だ。ごめんね、佳弥斗くん。
俊介が現れたのも待ち合わせの時刻より15分も早かった。
「碧衣ちゃんのほうが早かったか…」
今日の碧衣は上品なベージュのリブニットに花柄の濃紺オーガンジースカートをチョイスした。その上にファーの襟が付いたハーフ丈の白のカシミヤコートを前ボタンを留めずに羽織り、オフホワイトのショートブーツを履いた。
そんな碧衣と、ダークグレーの3つ揃えスーツ姿の俊介は誰から見てもお似合いのカップルだった。
「ゆっくり食事をするために、上の部屋を取ったんだ」
彼の手にはカードキーが握られている。
「うん」
彼の後ろを1歩下がって歩き、エレベーターに乗り込む。
19階以上にはカードキーを翳してから希望階のボタンを押すようになっていて、俊介は21階を押した。
到着して扉が開くと、少し毛足の長い絨毯が敷かれた廊下と部屋数の少なさから、このフロアが明らかに特別な階なのだと分かった。
「部屋を取っている」という俊介の言葉の意味が分からないほど碧衣は幼くない。
彼はプロポーズの返事を聞かされるまでのひと月を、どんな思いで過ごしたのだろう。碧衣から聞かされるYesかNoを想定しながら、普段より長く感じるひと月だったに違いない、と彼の背中を眺めながら思った。




