募る想い 3
結局その朝碧衣は朝食を取らず、直紀が既に精算を済ませたホテルを出た。
家に帰って、夕べ食べきれなかったバームクーヘンをバッグから取り出す。きれいに半円形で残っている。まだかなり量があるのだが、朝食として全部お腹に収めてやるんだと勝手に意固地になり、合わないと思いながらも濃い緑茶と共に口に運んだ。
「えっ、美味しい。極甘バームクーヘンと緑茶って合うんだ…」
「合うはずがない」と決めつけていたものが調和したことで、ひとり虫の居所が悪かった碧衣は少し気が晴れたのだった。バームクーヘンと緑茶が合うのは納得できるが、コーティングのチョコレートが緑茶と合うとは…。(これも素晴らしいマリアージュね)と頷きながら味わう。
ー東条さんのことで悩んでも仕方ないわ。だって彼が私のことを好きになるわけがないもの。あの人から見たら「お嬢ちゃん」程度の年齢なんだから。
手を繋ぐことで物理的に距離が縮まり、スマートな仕草で1歩前を歩いてくれる。うっとりするような夜景をバックにパールのペンダントを贈られて勘違いしただけなのだ…と自己分析する。
そして、これは恋ではなく憧れなんだ、と気持ちを上書きする。
極甘のバームクーヘンがあまり甘く感じないのも、緑茶が苦過ぎるからだ。
「もう食べられない」と限界を悟ったと同時に間食したのだった。
* * *
直紀は夕べホテルには泊まらず2部屋分の精算をしてマンションに戻っていた。
碧衣から離れたかったわけではない。単に仕事が立て込んでいるからだ。現在開催しているクリスマスジュエリーのイベントが終わっても、年が明けるとブライダルジュエリーのイベントが待っている。
最近はパヴェリングといって、メレーダイヤモンドを石畳のように敷き詰めたデザインリングが人気で、従来の立て爪ダイヤリングに加えてイベントで陳列することになっている。そのためにデザイン画を多数描かなければいけない。
自分が描くデザイン画だけでなく、嘱託デザイナーが描いた画像のチェックもあるのだ。「TO-J」の作品として発表するのだから、直紀の最終チェックは欠かせない。
その仕事がまだ残っている。
自分がスケジュールを守らなければ雅孝や秋元夫妻、他のクラフトマンたちに皺寄せが及ぶ。
散らかったテーブルを見て髪をぐしゃぐしゃに掻き混ぜた。
「ああ。お前にも手伝ってもらいたいくらいだよ」
『お役に立てず申し訳ないです』
今回は碧衣とホテルで朝食を食べることを、実は楽しみにしていたのだ。それなのにまた彼女ひとりで黙々と食べさせることになって、可哀想なことをしてしまったと思っていたのだが、まさかその朝食すら食べることなくホテルを出たとは知る由もなく。
* * *
忍の誕生日会の5日前に直紀からメッセージが届いた。
”10時にマンション駐車場まで迎えに行くから”
ちょっとした挨拶の後に続く本文はこの1行。全文のほうが長いじゃん、と呟いて直紀らしさにクスッと笑った。
落ち込んだ繊月の祈りの日から10日近く経つとさすがに立ち直って「Que Sera, sera」ーどうにかなるさーと前を向けるのは若いから。出てない結果のために涙を流すのは自分らしくない、と鼓吹した。
”お迎えに来ていただけるとのこと、ありがとうございます。用意して駐車場でお待ちしています”
碧衣はできるだけシンプルな返信にした。
何度も彼とメッセージの交換をしているうちに、ダラダラ書かないのが「大人の流儀」で「スマート」なのだと、彼女なりに学習したつもりなのだ。今回は「迎えに行く」というメッセージに対する返答なのだから「待っている」さえ伝われば良いのだと判断した。
繊月の祈りのホテル代の礼などは、近々会うのだからその際に直接言えば良い。
ーうん。なかなか「大人の女性」の対応よね。私だってやればできるんだから。
完全な自己満足である。
まさか返信を受け取った直紀がこの素気ない文面を見て「あれ?どうしたんだろう。いつもならもっといろいろ書いてあるのに…」と首を傾げているとは露知らず。
翌日、碧衣は誕生日会に持って行く手土産を買いに新宿に出かけた。
12月に入ると街はすっかりクリスマス一色である。ショーウインドウの向こうには大きなツリーを飾る店が並び、夜になるとイルミネーションが輝いて一気にファンタジックな街に変身するのだ。
毎年その中を友人たちと歩くのが楽しみだった。それを思い出しながら散策する。メリークリスマスと書かれたステッカーが貼られた店頭にはリースやオーナメントも多く売られていて、カップルや親子連れがカゴにどんどん入れている。
如月家でも碧衣が中学卒業の年までは、自分の背丈より高いクリスマスツリーを組み立ててリビングでその存在感をアピールしていた。それには大量のオーナメントとLED電球を付けて、クリスマス当日はリビングの電気を消してファミリーコンサートを開いたものだった。
ところが碧衣が高校生になった年、美術大学2年生になった兄が創作のため1人暮らしを始めたのだ。
今までは屋根裏からツリーを下ろすのは父と兄の2人で協力してやっていたのだが、この年は父が1人で下ろさなければならなくなった。背丈ほどのツリーは4分割されているとはいえ、そこそこの重さがある。最初に1番重い台座のパーツを下ろそうとしたとき、まさにその瞬間、ぎっくり腰になってしまったのだ。
屋根裏で動けなくなった父を救急隊が苦労して運び出し、サイレンを鳴らしながら病院に連れて行ってもらった。知らせを聞いてすぐに兄が帰ってきたのだが、すでにクリスマスツリーどころではなく、仕事が遅れるという連絡を編集者にしたりで大騒ぎになったのだった。
その年は結局ピアノの上に小さなツリーを飾るだけになってしまった。
それ以降、今年もあの大きなツリーは屋根裏で眠っているのである。
百貨店の入り口正面に、見上げる程大きなクリスマスツリーとその足元にトナカイやサンタクロースの人形が電飾で彩られている。
トナカイが引く大きなソリには、この百貨店に出店しているブランド名が印刷された包装紙にラッピングされた小さなプレゼントが山のように積まれ、そのソリの向こうになぜかペンギンやウサギが並んでいる。
大学生くらいの女性2人がそのツリーに近づいて、ポシェットから小さな男の子のぬいぐるみーちびぬいと呼ばれているーを取り出し、サンタクロースの前にちょこんと置いて、いろいろな角度で写真を撮っている。きっとSNSにアップするのだろう。暫く見ていると、もう1人の女性はアクリルスタンドを同じように置いて撮影し始めた。
どちらも碧衣が知っているゲームのキャラクターである。碧衣はしたことがないのだが、大学時代からの友人である津川と俊介がそのゲームにのめり込んでいたので、耳にタコができるくらい聞かされたのだ。そのためゲームのタイトルと主要キャラクターだけは記憶に残っていた。
ー今はああやって写真を撮るのが流行ってるのね。私も尊敬するモーツアルト先生のアクリルスタンドがあれば、同じことをするだろうなぁ。音楽雑誌の付録にしてくれないかしら。
自分が偉大な音楽家のアクリルスタンドで写真を撮影している様子を頭に浮かべると、自然と口元が緩むのだった。




