碧衣のキモチ 5
* * *
直紀はロビーラウンジで知った女性が弾くピアノの生演奏に耳を傾けながらブラックコーヒーを飲んでいる。
ー今夜はボサノヴァか…いいなぁ…。
目を瞑って、ほろ苦いコーヒーを味わい「車でなければワインかウイスキーで楽しめたのに…」と残念がっている。
碧衣のマンションは先日教えてもらったので直接向かっても問題なかったのだが、「聴きに行く」と話の流れとはいえ口走った小さな約束も破りたくなかったのだ。そして実際に碧衣の演奏を聴いてみると、「やっぱり来て正解だった」と自賛した。
さすが高級ホテルのロビーラウンジ。紳士淑女が静かに大人の時間を過ごしている。
最上階のバーラウンジにも行ったことがあるが、あそこは大人の社交場としてドレスコードが決められている。それに比べて自由に寛ぐことができるのがロビーラウンジで、カジュアルな服装の客が多い。
それでもナイトラウンジの雰囲気にそぐわない客は見当たらないのが、高級ホテルたる所以である。
『アオイどのですね』
直紀のゆったりした時間を邪魔しないよう囁く。
(ああ。祈りの前に心が落ち着くし澄んでくる。至福のひとときだな)
ラストの曲が終わると、ラベンダー色のシルクサテン地のドレスで立ち上がり、スカートの裾がふわりと広がるように半回転して一礼する。
そして顔を上げて拍手を送ってくれる客席を微笑みながら見渡すと、直紀と視線が合った。その瞬間、目を大きく見開く。雅孝のアトリエに行ったとき、次の繊月の日にピアノを聴きに行くと言ってくれたことを碧衣は覚えていたが、本当に来てくれたのだ、と心が躍ったことを表情に出さないよう、直ぐにピアニストの顔に戻る。
舞台から一直線に直紀の元に近づいて、「来てくれたんですね。ありがとうございます」と顔を綻ばせた。
「約束したからね。素敵な時間を過ごせたから来て良かったよ」
「今夜は特別な日ですから、私自身も気持ちを整えるためにゆったりとした曲を選んだんです」
「特別な日」とは、もちろん繊月の日のことである。直紀や繊月の巫だけでなく、覡にも聴いてもらえてよかったと思う。
「車で来たんだ。今から出られるんだろう?一緒に行こう」
「はい。急いで着替えてきますから、もう暫くここで待っていてください」
直紀の返事を聞く前に、くるっと反転してこの場を離れた。ミモレ丈のドレスをひらひらさせながら更衣室に急く。
前回の繊月の日、そして雅孝のアトリエに行った日、少しずつ直紀との距離が縮まっているのを実感している。それでも今宵彼を見つけた時、胸がキュンと締め付けられるような想いがしたのは…「違う、そうじゃない」と自戒するよう呟く。
そんな碧衣の気持ちの変化を1番近くにいる巫は温かく見守っているのだった。
* * *
碧衣の部屋はきちんと整理されていて清潔感が漂っている。
「お腹空いてませんか?お祈りの前にちょっと摘まもうと思って、サンドイッチを作っておいたんですけど、良かったら一緒にいかがですか?」
冷蔵庫から少し大きめの丸皿に盛られたサンドイッチを取り出して、直紀に差し出す。女性ひとりが「ちょっと摘まむ」ために作った量でないことは明らかである。
さほどお腹は空いていないが、ここは有り難く一緒に1つか2つ摘まむのが礼儀だと判断して「いただくよ」と言う。それが嬉しかったようで彼女の顔がぱあっと明るくなった。
「紅茶淹れますね。狭いですが寛いでくださいね」
碧衣がキッチンで沸かした湯を茶葉の入ったティーポットに注いで、ティーコジーを被せる。家を出る前に用意してあったのだろう。トレーにカップと取り皿とケーキトングと並べて、砂時計も乗せられてあるのが見えた。
ー女性らしい持て成しだな。
慣れた手つきでセッティングするのは、多分小さいときからやって来たからだろう。
そういえば、この部屋も直紀が来るからと言って特別に掃除したようには見えない。常日頃からこの状態なのだろう、そう思いながら部屋をぐるっと見渡す。
結婚前の環の部屋に入って以来、独身女性の家に上がったのは初めてだ。
アップライトピアノの上にシルバーの写真立てがある。
「それ、事故で亡くなった橘佳弥斗さんと撮ったものです」
写真立てを手にして微動だにしない直紀に声をかけたが、彼が目を奪われているのは「にこやかに笑って写真に収まる若い男女」ではなく、その前に置かれたタクトケースであった。
写真立てを元の位置に戻してから、緊張する手でケースを持つ。そっと開けるとコルクの持ち手がついた白いタクトが横たわっていた。
それを目にした途端、喉の奥が詰まって、胸が苦しくなり、左眼がかつてない程熱くなった。そして堪えきれずに瞼を固く閉じた。
視界からタクトが消えると…治まった。
事故の後、視力低下と共に何度か左眼に違和感があり、脳にダメージを負ったのではないかと疑って精密検査を複数回受けたが、結局脳どころか視神経にも眼球にも異常は認められないと判定されたのだった。
ーじゃあ、勝手に涙が流れたり、眼が熱くなったり、視力が落ちたのは何故なんだ。
『ワタシがナオキどのの中にいるからでしょうか』
もちろんその可能性は1番に考えた。何にせ事故で1度死んで、その後生き返り、神子が身体に居着いてからこの症状が起こったのは間違いないのだから。
閉じた瞼をゆっくり開けると、さきほどの症状が再現することはなかった。
(本当にこの症状は何が原因なんだろう)
ふたりで紅茶を飲みながらサンドイッチをお腹に入れて夜食を終える。直紀は2つほど腹に入れれば碧衣も満足するだろうと思って口に運んだのだが、気が付けば5つか6つは腹に収めていたのだった。
軽食の後、祈りの準備を始めた。
決してその方向には存在しない天界をほんの少しでも、せめて気分だけでも感じられるように、とベランダ側のカーテンを開けるが、あいにく細い月は曇った空にその姿を現していなかった。それでもカーテンを全開のままにして、ルール通りピンクのシュシュで互いの左手を固定してからリモコンで部屋の灯りを消した。
『今宵も光霊の安寧を共に祈りましょう』
繊月の巫の美しく響く声で儀式が始まる。
前回と同様にノンアルコールのシードルをテーブルに置いて碧衣は佳弥斗の、そして直紀は環の魂が幸せな次の人生を歩むよう祈った。
碧衣が全身を流れる繊月の番の祈りのハーモニーに集中しているうちに、うつらうつらし始め、やがて頭がガクッと前に傾いてしまった。それと同時に繊月の巫が本日の祈りを終了したのだった。予定時間より随分早く終わったのでは?と直紀が訝う。
『アオイを起こさないで。暫くこのまま話をしましょう』
碧衣が眠り視界が遮られているため、繊月の巫には直紀の動きが分からない。
『ナオキどの。左の眼に不調を抱えていませんか?』
碧衣が眠っている間に、彼女には聞かせたくない話を伝えなければいけない。そのため、辛うじて聞こえる程度の小さな声で、その上少し早口で話し始めた。
『アオイには聞いて欲しくない話ですから、急ぎ足で話をします。ワタシが話し終わっても、まだアオイが眠っていたら知りたいことを聞いてください』
(わかりました)
ズバリ左眼の違和感を突いてきたので、直紀は囁き程度の繊月の巫の声に全神経を集中させる。




