繋ぐ手 5
夜のロビーラウンジは、ソフトドリンクやコーヒー、ビールやウイスキーなどのアルコールを各自飲みながらのんびり寛ぐ客で席が埋まっている。
そんな客たちの時間を邪魔しないよう碧衣は、映画音楽をゆったりとジャズ風にアレンジして弾き流していく。復帰初日は得意な、そして好きなレパートリーにした。
ーああ、気持ち良い。
久々の演奏に身体の芯が熱を帯びる。
鍵盤の上を踊る指に酔い痴れて「事故で指が傷付かなくて良かった」とつくづく思った。またこの場所に戻って来られたことが嬉しい。
曲間を開けずに次々と弾いていく。碧衣にとって自由に選曲して弾く2時間はあっという間だった。
本日最後の曲は、映画「カサブランカ」より「時の過ぎゆくままに」にした。
演奏が終わってラウンジの客に向かって一礼すると拍手が送られ、その間を真っ赤な薔薇の花束を抱えたスーツ姿の俊介が、満面の笑みを浮かべて進み出てきた。
「復帰おめでとう」
嬉しすぎて思わず1段高い舞台から俊介を抱きしめた。
「ありがとう」
頬をほんのり赤く染めた俊介が、「本当に良かった」と瞳を潤ませて優しく微笑む。
彼は大学卒業後、ゲーム会社に就職してゲーム音楽の作曲に携わっている。
今関わっているのは、日本各地を旅しながら美女と恋に落ちるという、何とも多くの男性が憧れるシチュエーションのロールプレイングゲームらしい。発売したらプレイするから、と約束している。
ゲーム会社で社員は若者が多いので、俊介もいつもカジュアルな服装なのだが、今夜はビシッとブラックスーツで来てくれた。その装いの彼はとても新鮮で、光量を落としたラウンジのシャンデリアの下ではとても大人っぽく、そしていつにも増して色っぽく見えた。
「浜松町まで一緒に帰ろう」
「うん。着替えてくるから、ここで待ってて」
碧衣は薔薇の花束を両手で愛しそうに抱きしめて、くるっと身を翻して更衣室に急いだ。
着替えてから、ロッカーの前に並べてある長椅子に置いた花束の隣に腰を下ろす。
俊介の自分に対する気持ちが友情以上のものであることは薄々気付いている。それは多分、佳弥斗に告白する前からだろう。佳弥斗がいなくなったからと言って、俊介が露骨に距離を縮めてくることはないが、これからの数か月、数年で彼の気持ちが変わらずに、愛を囁かれたとしたら自分はどう答えるだろう…と何度も考えた。
俊介に対して、今は全く恋愛の感情はないと断言できる。だから思わせぶりな態度を取らないように心掛けてきたつもりだ。この先も「親友」であり続けられるよう、俊介には自分に向けられる以上に好きな女性が現れるよう願っている自分を卑怯だと思う。
今夜の花束に真っ赤な薔薇を選んだ彼の気持ちを重いなぁ、と感じつつ、何かあればいつでも駆け付けてくれる優しさを都合良く利用しているのだ。
それを後ろめたく思うと同時に、申し訳ないという思いも混在しているのは確かである。
ただ、俊介から何も言ってこないかぎり、自分から「私のこと好きでしょ」なんて聞けるわけがない。
そもそも彼は告白するつもりがないのかも知れないし、このまま友人でいることを選んでいるのかも知れないのだ。
「どっちにしても、私って狡いよなぁ」
隣に置かれた綺麗な花束を触りながら呟いた。
碧衣のマンションまで送ると言い張った俊介を山手線から降ろさずに別れた。聞けば明日は早朝のフライトでアメリカに飛ぶというではないか。
「タイトなスケジュールなのに、わざわざ来てくれてありがとう。凄く嬉しかった。でも、ここから家まで1時間近くかかるんだから、このまま帰って早く休んでちょうだい。今晩だって、仕事終わりに駆け付けてくれたんでしょ?無理はしないで」
大学時代から碧衣の心配性は変わらない。誰に対しても無茶なお願いはしないし、いつでも「無理しないで」が口癖なのだ。
強引に電車に彼を残して降り、自分はドアが閉まってホームから見えなくなるまで見送った。
* * *
直紀がインドの宝石オーナーとウェブで取り引きをしながら、ちらりと壁の時計を見ると19時を少し過ぎている。価格交渉も終わったし、もう回線を切っても問題ないのだが、宝石オーナーが別のガーネットを直紀に買わそうとしてなかなか終われない。
その後5分近く、「買わない。今回、それは必要ない」と繰り返し言い続けて、漸く諦めさせることに成功した。はっきり言わなければ、少しでも隙を見せると「絶対に」買わされてしまう相手なのだ。
ふうぅっと息を吐いて、南急ホテルに向かう支度にとりかかる。
今夜、直紀がホテルで1泊する必要はない。若い碧衣だけ1泊させれば良かったのだが、女性が泊まる部屋に入るということに抵抗があり、初回ぐらいはこちらの態度(神子の祈りに託けて近づこうなどという下心はない)をはっきり示しておこう、と紳士ぶったのだ。
ー泊まるか、それとも帰るかはそのとき決めれば良いか…。
そう考えて2部屋取った。
せっかく部屋を取ったのだから、泊まらなくてもシャワーくらい浴びて帰ろうか…と考えて着替えも詰める。
それと祈りの最中はお喋りも憚れるので、彼女にも勧められるよう、アルコール度数の低い岩手県産りんご100%のシードルというスパークリングワインも1本、荷物に追加。グラスはホテルで借りよう。
直紀が南急ホテルに着いたのは20時半だった。
碧衣に自分が待つルームナンバーをメールして、彼女が到着するまでの間、タブレットで「三つ編みの仕方とリボンの輪が4つになるダブルリボン結びのやり方」の動画を繊月の覡のために開く。
巫たちは腰までの髪をひとつに束ねて根元をリボンで結ぶ、というシンプルなスタイルらしい。「あの美しくて長い髪を綺麗に櫛でといて編めば華やかになるだろう」と言って、覡は食い入るように動画を見る。三つ編みの仕方をマスターすれば、いろいろアレンジして個性が出せることも画面の美しい女性が熱く語っていた。
『なるほど…』
完璧に覚えて天界に帰らないと、「あれ?どうだったかな?」と思っても2度と確かめることができないので、覡は真剣に「学習」している。ずば抜けて良い記憶力で脳裏に焼き付けていく。自分の指も使って手順を丁寧に。
そうしていると、コンコンとノック音が聞こえた。
タブレットの画面を「ここまでだ」とクローズして、碧衣を招き入れる。
「こんばんわ。お待たせしてすみません。それから、部屋の予約、ありがとうございました」
碧衣は白のクロップドシャツに濃いグレーのワイドパンツ、10月らしくヘリンボーン模様のロングジレ姿で黒のローヒールを履いて、今夜も大人の落ち着いた雰囲気で現れた。どうも、子ども扱いされているような気がするので気合いを入れたのだが、直紀に伝わっているのかどうか。
一方の直紀はオリーブ色のシャツにジーンズとスエードのキャンバスシューズで、ベッドには黒のコットンジャケットが無造作に置かれている。
直紀は碧衣を目の前にして緊張し「お仕事、お疲れ様」と、これが第一声か?と突っ込みを入れたくなるような声をかけてしまったことに驚いた。
「東条さんもお疲れ様でした。・・・えっと」
碧衣が部屋を見渡して何か言いたそうな素振りを見せる。直紀は、碧衣がさっさと祈りを始めたがっているのかと思って、椅子をベッドサイドに移動させ、手際よく祈りの準備を始めた。
「祈りの間飲み物があれば、と思ってスパークリングワインを持って来たんだけど…君は飲む?」
デスクにシャンパングラスが2客既に用意されていた。
「すみません。東条さんはすぐにお祈りを始めたいですよね」
碧衣は何やら申し訳なさそうな口調で、トートバッグの持ち手を握りしめている。
次回、「祈りの儀式」です。




