碧衣 事故前 4
「きっと、御義母様だわ」と少々苦手そうに呟いて母が受話器を取った。
「ご無沙汰しています。・・・・・・はい。・・・・・・はぁ・・・・・・いつもありがとうございます。・・・・・・はい。・・・・・・伝えます。・・・では・・・・・・はい」
1分もかからず会話は終わり、切れた。母のその様子で父と碧衣には電話の内容が推察できた。
「母さんから?明日届くって?」
「ええ。今日ならみんなでいただけたのにね」
受話器を戻す。
父が佳弥斗たちに、母親から毎年誕生日頃に家族4人では到底食べきれないボリュームの仕出しが送られてくると話し、1拍置いて続けた。
「ウチは代々医者の家系で、一族は神奈川で総合病院を経営しているんだ。でも、医学の道を選ばなかった僕は如月家の人間として扱ってもらえなくてね。まあそれを承知で物書きの世界に進んだんだけど、作家としてちょっと名が売れるようになると、手の平を返すように自慢の親族に格上げさ。現金なもんだよね」
父は佳弥斗や俊介が自分と同じように家業に縛られている可能性も考慮して、慎重に言葉を選びながら話す。
その語り口は非常に穏やかで、表情も優しい。
「家業に協力的でない人間を身内と認めたくないのは考え方が古いのかも知れないけど、従業員の生活を守らなきゃいけないことも理解できるし、何より患者がいる限り、病院経営を安定させることは地域医療を守るために至極当然だよね。一族に言わせりゃ、病院にとって『物書き』なんてものは何の役にも立たないらしい。当時は嫌味を言われるならまだしも、空気みたいに無視されるのが精神的にキツかったな。でも、そもそも医者に向いてなかったんだから仕方ない」
デザートのフルーツポンチを食べながら碧衣が言葉を引き取って続ける。
「お父さんは、注射針を見ると真っ青になるくらい注射嫌いだし。健康診断で採血するときは前の日から『嫌だなぁ』って言うくらいよ」
「大の大人が恥ずかしいよなぁ」
肩身が狭そうに頭を掻く父。
「旭陽…碧衣の兄も絵本作家をやってるんだけど、病院から頼まれて月に1度、小児病棟で絵本の読み聞かせをしているんだから、『物書き』も全く役立たずというわけではないと思ってる」
そう言いながらサイドボードに置かれた写真立てを指さすと、そこには佳弥斗たちより少し年上に見える青年が10数名の子供たちを前に読み聞かせをしている姿が映っていた。
昼食後、翌日が父の誕生日だということで、如月家恒例の演奏会をするのはどうか、と碧衣が提案した。
「将来有望なピアニストと指揮者、それに作曲家が揃ってるんだから」
そう話している最中に、「ちょっと待ったぁ!」と演奏会に間に合うように帰ってきた旭陽がリビングに飛び込んできた。
185㎝、細マッチョと表現される体躯で、肩まで伸ばしたグレージュヘアを後ろに束ねている。
「お兄ちゃん、いつもギリギリだよね」
「今日こそ昼食会に間に合わそうと思って巻きで打ち合わせをしたんだけど、背景の色がどうしても気に入らなかったから長引いたんだ。その甲斐あって、次の絵本もいい感じに出来上がりそうだ。・・・あっ、昼は弁当出たから食べてきた」
息を整えると佳弥斗たちと挨拶を交わし、自分も演奏会に参加すべく、腰を下ろすことなく準備に取りかかった。
幸い、楽器は複数あるので急遽参加することが決まった俊介も旭陽のバイオリンを借りることになった。
選んだ楽器はそれぞれ、碧衣は当然ピアノ、旭陽はチェロ、俊介はバイオリン、母はフルートだ。
「家族の記念日には音楽会を開こう」
両親が結婚したときの夢を叶えるために、家族皆それぞれが何種類かの楽器を習得してきたのだ。
本来ならチェロは父の担当で、例年は父も参加するのだが、今日は「父へのプレゼント」ということで観客に徹してもらうこととなった。
曲目は、俊介も楽譜があれば弾けるという「G線上のアリア」と「主よ人の望みと喜びを」の2曲に決まった。
指揮はもちろん佳弥斗で、久し振りにバイオリンを弾くという俊介を中心に暫く練習と音合わせをして、いよいよ本番。
完全防音されたリビングで佳弥斗がタクト代わりに料理用の菜箸を振り上げて美しい音色が響き始めた。
現役音大生3名との共演で奏でられる名曲は父への最高の誕生日プレゼントとなった。
唯一の観客である父は、貴腐ワインを傾けながらソファに深く腰掛けて、この贅沢な演奏会に酔ったのだった。
音の余韻が消え、佳弥斗がタクト(仮)を下ろす。
「ありがとう!素晴らしいの一言に尽きるよ。録画しておいて大正解だった。これは永久保存版だな」
興奮気味に拍手しながら立ち上がる。
こうして演奏会は幕を下ろして、憧れの「桜小路恭介」と交流した佳弥斗と俊介が帰路に就いた。
この日がきっかけで、その翌年以降も父の誕生日前後に同じメンバーでバースデーコンサートが開催された。2回目以降は事前に曲目も打ち合わせして決め、きちんと各自練習するという本格的な演奏会になった。
碧衣たちが最終学年のバースデーコンサートも同じように賑やかな昼食会の後開演となったが、来年からは佳弥斗と俊介の進路によっては開催できるかどうかわからない、と寂しさも残ったものになったのだった。
演奏後、佳弥斗がぽつりと「こんな家庭に生まれたかったなぁ」と呟いた。
その言葉が父の耳にだけ届き、そのことが佳弥斗の苦悩を共有し癒すきっかけになったことを誰も知らなかった。
医師になることが当然と育てられながら作家になった泰道には、橘商事に入らず指揮者としての道を歩こうとする佳弥斗が、橘家でどれほど居心地が悪いか、手に取るように理解できる。
「音楽の都」オーストリアに留学を決めたのは教授からの勧めもあったが、日本を離れて「橘」からも距離を置いてみたいという願望も大きかったからだ。それは橘家の次男という重圧だけではない。実は、彼にはどうすることもできない事情がもうひとつあったのだ。
如月の家に佳弥斗が訪れる機会が増えたのは、泰道が彼に「心が疲れたときはいつでも来なさい」と言ったからではあったが、表向きは「桜小路恭介」の熱烈なファンであると公言していたため、碧衣と俊介は特別何とも思わなかった。
ただ碧衣は、佳弥斗が我が家に来ると彼を独り占めしているようで、ミーハーな女子たちに勝ったような気分を味わいながら、自然と彼に対する思いが友情から恋情に変わっていったのだった。
* * *
俊介がお膳立てしてくれた佳弥斗の渡欧前の食事会で、「碧衣ちゃん、佳弥斗に話があるんだろう?・・・・・・頑張れよ」と、今から碧衣が何を佳弥斗に言おうとしているのか、誰にでもわかるくらい露骨に言って、俊介は右手の拳を高々と上げてその場に2人を残して距離を取った。
ーちょっとぉ!心の準備をする時間はくれないの?
離れていく俊介の背中目がけて右手のハンドバッグを投げつけたい情動を抑えて、茹で蛸のようになった顔で睨む。
「碧衣ちゃん?」
背中側から佳弥斗の声。
「はあーい!」
どこから出たのか、何とも素っ頓狂な声で振り返る。




