忘れない 8
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碧衣は ERABLE HOTEL で開催されるブライダルフェア終了後に、東条直紀に会うことを繊月の巫に提案し、巫も「そうですね」と了承した。
インターネットで「オサム サダ & TO-J ブライダルフェア」を検索してみると、かなり大々的なショーであることが推察できる。父のサイン会とは規模が違う。
東条直紀もそんなイベントで走り回っているだろうが、碧衣自身も近々ギプス生活から解放され、歩行のリハビリを受けた後は浜松町のマンションに戻ることになっているため忙しい。自分と東条直紀の予定の詰まり具合をざっと並べてもフェア終了までは、会って話をするのは難しいと思ったのだ。
正直、フェア終了後も撤収、片付け、挨拶などがあるだろうから短時間でも会えるかどうかわからない。父のサイン会でも撤収はともかく、挨拶周りだけでもそれなりに時間を取られるのだ。
それでも顔を合わせて、連絡先の交換だけでもしたい。その可能性が少しでもあるなら、とこのタイミングを狙うことに決めたのだった。
(ちょっと早く着き過ぎましたね)
碧衣は仕事で弾いているグランドピアノが鎮座するロビーラウンジで東条直紀が通るのを待っていた。
今日のために碧衣は、白地にパープルのストライプ柄の開襟ブラウスと紺のタイトスカートを選んだ。緩くパーマをかけたような肩までの癖毛は後ろで纏めて金のバレッタで留めた。ひと周り程年上の男性に会うのに、子ども扱いされないよう「大人の女性」らしさを演出するのが目的である。
それが成功しているか、は不明であるが。
東条直紀がいつ現れても会えるように、と早めに来たのだがあまりにも早過ぎたようである。ラウンジのコーヒーサービスにはあと少し待たなければいけなかった。仕方なく自動販売機でミルクたっぷりのカフェオレを買って、ちびちび飲みながらホテルを出入りする人の中に目的の人物がいないか視線を左右に流す。さながら出来の悪い探偵のようだ。
そこに偶々、いつも世話になっている副支配人が通りかかる。こんな朝早くから誰かを探しているピアニストの挙動を見て近づいて来た。
「おはようございます。如月さん、どなたかお探しですか?」
副支配人がすぐ傍に来ていることにも気付かないほどキョロキョロし、東条直紀探しに集中していたことが恥ずかしくて、思わず「ほぇ?」っと妙な声を上げてしまった。
「おはようございます。・・・昨日まで開催していたブライダルフェアのジュエリーデザイナーさんにお会いしたくて」
誤魔化さず正直に答える。こんなに朝早くから男性に会いたがるのは不自然に思われるかも知れないが、そこは知った仲である。
「ああ、フェアの関係者でしたらもうすぐ来られると思いますよ。・・・撤収作業をされるでしょうから、裏の従業員用出入り口を利用されると思います。こちらで待たれても会えないんじゃないでしょうか。3階ピーコックホール前のソファでお待ちになれば確実に会えると思いますよ」
「ありがとうございます」
軽く頭を下げて、早歩きでエレベーターに向かった。
確実に会える…そう思うと緊張でドキドキが激しくなってくる。
エレベーター内の鏡で髪形が乱れていないか、短い時間で整えた。
エレベーターを降りて呼吸と胸の鼓動を落ち着かせるために、ゆっくり歩いてピーコックホール前に置かれたフカフカのソファに腰を下ろした。
腕時計は6時10分。
(センゲツの神子様。私、上手く話せるでしょうか)
『大丈夫ですよ。分かっていると思いますが、ワタシと覡が会話するためには、アオイとトウジョウ ナオキが触れていなければいけません。嫌ではないですか?』
今まで異性に触れたり触れられたりがなかったわけではない。だが、涙を流しながら凝視された記憶があまりにも強烈だったために、恐怖心と気味悪さがあるのだ。
繊月の巫から「触れることが必要だが、大丈夫か」と何度も確認されたのは、そんな碧衣の気持ちを知ってのことだ。
触れなきゃいけないなら、我慢するしかないじゃないですか…としか言えない。
目当ての人物を待つ間、ぶらぶら揺らしている足を眺める。もうギプスはない。予定通り2週間前に外してもらった。
以前、俊介から「ギプスを外すときの垢と臭い」について忠告されたとおり、垢まみれではあったが幸い臭いは覚悟していた程酷くはなかった。ただ、すっかり筋肉が落ちてやや細くなった左脚には暫く全体重をかけないように言われ、バランスを保つために重心を反対側にかけたために右の股関節を少し痛めてしまった。
脇を支える松葉杖から、ロフストランドクラッチという腕を固定するカフのある片手用の杖に代わり、それで歩行練習をしたが、これはこれで手首に負担がかかって辛い思いをした。
そして漸く杖なしで歩いても良いと許可をもらって今に至る。走ったり、飛び跳ねたりするのはまだまだ先らしい。
身の回りのことを自分ひとりで熟せるまでに回復したことで、浜松町のマンションに戻ったのが5日前。実家で1日数時間ピアノの音を響かせて、父と兄の仕事に多少なりとも支障をきたす肩身の狭さを感じなくてよくなった。2人とも「気にするな」とは言ってくれるが、どちらも締め切りのある仕事をしているのだ。
実家暮らしは大好きな家族に囲まれて「痒いところに手が届く」という何物にも代えがたい便利さはあるが、マンションでの「ピアノ弾きたい放題」というのは、それをちょっとだけ上回るものだった。・・・など、他人にはもっともらしい理由を言うが、実際そんな大袈裟な話ではなく、電車に乗れば1時間後には実家のリビングにいるような距離である。
ギプスのない左足を眺めながらそんなことを巡らせていると、徐々にピーコックホールへの人通りが増えてきた。
碧衣は写真で焼き付けた「東条直紀」を見逃さないようにひとりひとりチェックする。
ここでも出来の悪い探偵のようだ。
「あっ」
奥のエスカレーターからその彼が上がって来るのが見えた。向こうも直ぐに碧衣を認めたようで、少し驚いた表情をしてから視線を逸らさず一直線に大股で、しかも速足で近づいて来る。
グレーのボタンダウンシャツに濃紺のデニムというシンプルな身なりが筋肉質の体躯を強調している。
碧衣はソファから立ち上がって、タイトスカートをポンポンと整え、その距離が5m程になったところで一礼した。
引き攣る顔ではあるが、少しでも印象良く見せるために上品な笑顔を添えて。




