忘れない 3
この部屋にはまだ2週間戻れないので、その間実家暮らしに必要な物を集めよう。楽譜数冊と事故前に読んでいた歴史小説、外出用の洋服とアクセサリー。それらをベッドの上に置いて、自身も端に腰を下ろした。
丁度そのとき、渡してあった合鍵で俊介が入ってくる。
「この前、おばさんが回収したって言ってたのに、また結構溜ってたよ」
俊介からその束を受け取った碧衣はチラシ類と郵便物に分けていく。
「ついでに下のコンビニで炭酸水を買ってきたから…飲むだろ?」
マンションの隣にコンビニエンスストアがあるのもこのマンションの魅力の1つである。俊介はキッチンからグラスを2個持って来て注いでくれた。
ー本当に、何から何まで気配りができる人よね。完璧すぎて私のいい加減さが際立つじゃない…。
そう感心しながら「ありがとう」とグラスを受け取る。レモン風味の炭酸水が、まだ残暑の続く9月初旬の身体を潤してくれた。
ベランダからの微風で僅かに揺れるレースのカーテンを眺める碧衣の横顔を俊介が優しい瞳で見つめていた。
「碧衣ちゃんが元気になってくれて良かった」
ポツリと呟いた言葉にはまだ苦痛が感じられる。
碧衣とは比較にならない程つき合いの長い佳弥斗がいない世界の空虚感は、碧衣には計り知れない。共に白髪になるまで親友でいるんだろう、と互いに疑わなかったに違いない。こんなに早く、突然に別れがくるとは筆舌に尽くし難い寂しさだろう。
「この部屋にも来て楽典について意見交換したよね。私は俊介くんと佳弥斗くんが、オーケストラの楽曲に合わせてタクトを振ってるのを見るのが楽しみだった」
アルコールの入ってないジュースを飲み、音楽に酔いながらタクトを振る2人の若者。
解釈の違うところで意見をぶつけ合い、熱く語り合った学生時代。
卒業後も集まって繰り返された、気の合う仲間と過ごした日々。
ついひと月前まで当たり前だった光景が2度と見られない。そしてその光景を「思い出」として懐かしんでいる自分がとても薄情な人間のように感じて、チクッと心が痛んだ。
そんな感傷にふける碧衣の頭をポンポンと優しく叩いて、俊介がベッドに並べられた荷物を纏め始める。
「さあ。空気の入れ換えも終わったし、そろそろ送るよ、荷物はこれで全部?」
「うん。あとは靴を2足持っていくだけ」
家に帰ると母が既に帰宅していた。
荷物を玄関まで運んでくれた俊介に、「今日は付き添ってくれてありがとう」と礼を言うと、パタパタとスリッパの音を立てながら母が「これ、俊介くんのお母さんの好物でしょ。うちも今晩食卓にあげるから」と、デパ地下で購入した「ローストビーフと舞茸のサラダ」を手渡した。
「じゃあ近いうちに連絡するから」と言って帰って行った。
碧衣はマンションから持ち帰った物を片付けてから郵便物に目を通し、重要なものがないか確認する。
有り得ないとわかりつつ、「東条直紀から連絡があったりして…」と少なからず期待したりもした。もちろんそんなことはなかったのだが。
『アオイ。ひとつだけアオイに頼みがあるのです』
唐突に繊月の巫が話しかけてきた。
(はい、何でしょうか)
『明日は繊月の日なのです。天界では1日中、門の所で祈りを捧げるのですが、下界でそれは無理だと分かっています。たとえ少しの間でも構いませんから、静かに祈らせてもらえないでしょうか』
消滅覚悟で下界に降りても、やはり神子である。浄化する門の側にいなくても、天界へ昇る光霊のために祈りたいと願う。
そのために大御神からいただいた命なのだから、下界にいようとも消滅するその瞬間まで、役目を果たす所存である。
きっと先代の繊月の覡も寿命が尽きるまで繊月の日には祈っただろう。
(わかりました。明日も皆出掛けるので3時間程ピアノを弾きますが、センゲツの神子様のお祈りの邪魔にならないよう、静かな曲を選びますね)
『ああ、アオイの美しいピアノの音色に合わせて祈れるとは素晴らしい』
翌日の繊月の日、巫は碧衣の中で跪いて左手の甲に右手を当てがい、それを胸元に置いて祈った。それは天界で寿命が近づき別れを告げて下界へ降りた神子に、他の神子たちが送る惜別の祈りである。下界から天界へ昇る光霊のために最上級の祈りを捧げ、光霊が次の人生で幸せになりますようにと願いを込めた。
碧衣は繊月の巫の祈る言葉はわからないが、その美しく響く声に合うようにショパンの「夜想曲」をゆっくりと静かに弾いた。全21曲を終えると、ラストにリストの「愛の夢 第3番」を選んだ。
その曲が合図のように繊月の巫の祈りも終わった。
『ありがとう、アオイ。心穏やかに祈ることができました』
ピアノを弾く碧衣も巫と共に佳弥斗の魂を悼んだのだった。
* * *
9月21日から3日間、 ERABLE HOTEL で開催される『オサム サダ & TO-J ブライダルフェア』に向けて忙しい毎日を過ごしている直紀は、なかなか「繊月の巫探し」ができず、繊月の覡に申し訳なく思っていた。
そんな直紀に覡は『ナオキどの、今は仕事に集中してくれて良いのです』と何度も理解を示してくれる。
天界のこと、神子のこと、光霊のこと、お伽話のような話を信用してもらえただけでも覡の焦りを随分軽減している。そして何より、繊月の巫がすぐ近くにいることが判明しているのだ。覡がすることは、巫をどのように説得するか、そして自分には荷が重すぎるので恐らく巫に丸投げすることになるのだろうが、どちらの魂を使って天界に帰るのか、の2点である。
ホテルで会ったあの女性とどうやって会うかは直紀に任せることにした。
直紀が扱っている宝石類の美しさは月夜に散りばめられた星々の煌めきに似ていて全く見飽きない。どんなに忙しくしていても、覡が『それは何という宝石ですか』と尋ねると、(ダイヤモンドだ)とか(エメラルドだ)とか面倒がらずに教えてくれる。
直紀が繊月の覡を認識した当日は声に出して会話をしていたが、すぐに心の中で会話することに慣れた。心の中を覗かれるのには抵抗があるものの、時と場所を選ばずに話せるのは便利だと思ったのだ。
病院で意識が戻り、自宅マンションに帰ってきた頃までは妻を亡くしたことで酷く気落ちし、心が荒んで、繊月の覡が声をかけても事情を伝えることができる状態ではなかった。
あの頃にもし直紀が生きることを捨ててしまっていたら、魂は再び天界に昇り、繊月の覡はその場で消滅していたのだ。だから彼が立ち直って前に進めるよう、直紀の中でひたすら祈り続けた。
そして漸く…というときに、ホテルで繊月の巫にいきなり会ったものだから、あのようなドタバタになってしまい、直紀を混乱させてしまったのだった。




