忘れない 2
入院中に警察から事情を聞かれた時に、もっと東条直紀について聞いておけば良かったと悔やんでいる。その際、彼の名前を耳にしたのかさえ覚えていないのだ。
ネットで事故の記事を検索すると佳弥斗に関することが大部分を占めていて、碧衣のことも東条直紀のことも出てこない。ただ、東条直紀の妻である東条環の名前は、もう1人の犠牲者として記載されていた。
東条直紀について検索したが、あのイベントのチラシに紹介されている内容とほぼ同じで、「TO-J」の会社と商品の紹介がほとんどだった。
碧衣の焦りを感じ取ったようで、繊月の巫が珍しく声をかけてきた。
『アオイ。焦らなくても良いのですよ。トウジョウナオキがあのホテルに来ることは分かっているのですから、必ず会えます』
(そうですね)と返事する。考え事をする碧衣に気付いたら運転に集中している俊介に「何か心配事があるのだろうか」と気を使わせてしまうかも知れない。
碧衣は気持ちを切り替えて窓の外を見た。
2時間ほどかけて検査を受けたが、大した問題もなく診察はすんなり終わった。
その後、俊介が予約したイタリアンの店で、2人ともランチコースを注文する。日替わりの前菜プレートと選べるパスタ、レモンとハーブのシャーベットと紅茶で、食欲をそそられるカラフルさだ。俊介はズッキーニとオマールエビの冷製パスタを、碧衣はフルーツトマトと生ハムの冷製パスタを選んだ。
料理が運ばれてくる間に、診察は問題なかったことと、ギプスは予定通り来週外れることをメッセージアプリのグループトークで家族に知らせる。すると間を置かずに全員から「良かった」「安心した」とスタンプ付きで返ってきた。
パスタをクルクル巻きながら、俊介が「佳弥斗の…」と口にしたので碧衣はドキッとしてフルーツトマトを口に入れる寸前にフォークから皿に落としてしまった。
「佳弥斗の49日法要が済んでから、次の土曜日に笹倉と山根、津川とで佳弥斗の家にお参りに行こうか、って話してるんだけど碧衣ちゃんはどうする?一緒に行かないか?」
3人とも音楽大学で仲が良かったメンバーである。笹倉鈴子と山根玲は碧衣と同じピアノコースで卒業後、笹倉は中学の、そして山根は高校の音楽教師になっている。津川準二は佳弥斗、俊介と同じ作曲指揮コースで現在大学院生だ。卒業後も連絡を取り合い、碧衣の入院中に見舞いにも来てくれた。
碧衣がスケジュールを確認している間、俊介はパスタを口に運ぶ。
「次の土曜日って…27日ね。その日にはギプスも外れてるし、ちょっとは歩けるようになってるだろうから、私も一緒に行かせて」
もともと歩けるようになったら、出来るだけ早くお参りに行くつもりだったので迷うことなく即答する。ただ、1人で行くには佳弥斗の家は桁違いの豪邸なので、誰かと行けたらいいのになぁ、と思っていたのだ。
だからこうやって声をかけてもらって助かったと正直に打ち明ける。
「そうだよな。俺も小学生の頃から何度も行ってるけど未だに慣れないもん。佳弥斗がすぐに出てきてくれたらいいんだけど、そうじゃなかったらお手伝いさんが『坊ちゃんのお友達ですね』って来るだろう?おばさんが出てきたときは緊張マックスだよ」
碧衣は1度だけ家に上がったことがある。佳弥斗と母親とは一般的な「仲良し親子」からは程遠かったので、リビングに通された際は居心地が悪かった記憶しかない。
大学に入ってからのつきあいだった碧衣は、何度もリビングに顔を出す母親から、下心が無いか詮索されているようでキョロキョロ部屋の様子を伺うなど以ての外だった。それはまるで、ソファに置かれたマネキンに見えただろう。
「当日は山根が車でみんなを順番に拾ってくれるから、碧衣ちゃんは浜松町のマンションでいいかな?」
「うん。ギプスが外れて1週間くらいでマンションに戻るつもりだから、駐車場で待ってるわ」
「じゃあ、詳細はグループトークで」
ふたりともパスタをクルクルフォークに巻いている。
ここからは来週外れるギプスの話で盛り上がった。
「ねえ、ギプスを外したら左脚だけ凄く細くなってると思うんだけど…」
それを聞いて俊介がテーブルの下の彼女の脚を覗き見る。
「俺、子供の頃にスキーで腕を折ったことがあるんだ。確かにちょっと細くなったけど、それよりも強烈な記憶があって…ク、ク、ク……外した瞬間に…」
何を思い出しているのか、途中からおなかを抱えて笑い出した。
「えっ!何?なによ!」
俊介は手の平を顔の前でひらひらさせて、「食事中だから聞かないほうが良いよ」と忠告してくれたのに、どうしても知りたい碧衣が強引に「聞きたい」とせがんだ。
「垢がこびり付いて、真っ白になってるし、そりゃもう臭いし…」
「ええっ!ヤダぁ~」
ギプスの左脚を持ち上げて、白い垢がびっしり付いた状態を思い浮かべると苦虫を嚙み潰したような顔をして俊介を見た。
「だから聞かないほうが良いって言っただろ?」
ざまあみろ、の表情で返された。
「大丈夫だよ。看護師さんが濡れタオルで綺麗に拭いてくれるから」
「そう、安心したわ。・・・それと右の靴も忘れずに持ってくるように言われたの」
「忘れたら格好悪いから、前日にメールしてあげるよ」
俊介とのランチは楽しいひと時になった。
予定通りにギプスから解放されることを宣告されただけでなく、すぐにでも行きたいと思いつつそれが叶っていない佳弥斗のお参りの目途がついたことで、胸に詰まっていたしこりがスーッと流れたような気分だ。
俊介の白いワンボックスカーが碧衣のマンションの地下駐車場で停まる。駐車場からエレベーターホールには非常扉に鍵を翳して開錠すれば行ける。段差は無くスロープで行けるので松葉杖の碧衣には便利だ。
マンションは7階建てで碧衣の部屋は3階南西角部屋。
玄関を入ってすぐの部屋を衣装兼物置にしている。廊下を挟んでキッチンの向かいに洗面所、浴室、トイレという配置だ。廊下の先にドアがあって、メインルームは12畳の防音室である。楽譜棚と2人掛けの布張りソファとセミダブルベッド、そしてアップライトピアノがそれぞれゆったりと置かれている。
約1か月ぶりの我が城。いきなり事故に遭ったので、部屋はそのままの状態だった。今日までの間に母が片付けてくれたがあの日の面影は所々に残っている。
俊介がメールボックスに溜まった郵便物を回収して部屋に上がってくる間に、南のトリプルガラスのベランダ窓を開けて新鮮な空気と入れ換える。夏場のもやっとした空気が外に追い出されて9月の爽やかなものに換わるのが心地良い。
(センゲツの神子様、ここが私の「住まい」です。動き回れるようになったらここで生活するんですよ)
『ここでもピアノを聴かせてもらえるのですか?』
グランドピアノしか見たことが無い神子にアップライトのピアノの鍵盤蓋を開けて1音を聴かせた。
『ああ、ピアノの音ですね。楽しみです』




