神子が来たワケ 1
隣のテーブルでイベントの打ち合わせをしている会話が耳に入ってくる。
ジュエリーとブライダルコスチュームのショーだと言っている。碧衣の知っているモデルの名前も出てくるものだから気になって仕方がない。ファッションショーで使用する楽曲の順序や照明の色と当て方、スポットのタイミングなど最終確認をしているのが分かる。そのイベントにはマスコミも招待するらしい。
このホテルで開催するなら碧衣も見に行きたいと一瞬思ったが、ギプスはまだ外れていない。
肝心なことを聞き漏らさないように聞き耳を立てていると、開催は来月の21日からだというではないか。
ーギプス、きっと外れてる!
ぱあっと表情を明るくして、思わず会話をしている隣のテーブルを見てしまった。すると、そのうちの1人の男性と目が合ってしまった。
ーうわっ、凄いイケメン!・・・ワタシより10コくらい上?
そのイケメン男性の長袖のサマーニットの袖口から白い包帯がのぞいている。
ーこの人も怪我をしているんだわ。今日はとっても暑いのに長袖のニットなんて…。肘の辺りまで包帯を巻いているのかしら?きっと他の人に見られたくないのね。
などと思考を廻らせていると、先程からずっとその男性が碧衣の顔に吸い込まれるように見張っているのに気付く。
ーえっ?・・・何?・・・ちょっと、えっ?・・・ウソ、泣いる?
男性の左の眦からつつぅと一筋涙が零れているのである。
ほんの少しの間視線が絡み合っただけだったが、碧衣は見知らぬ男性が自分を見て泣くということに気持ち悪さを感じて、急いで手に持っているコーヒーカップを空にした。そして、テーブルの向かいでタブレットを操作している旭陽に「お兄ちゃん、もう帰ろう」と声をかけた。
焦る碧衣とは対照的に呑気な旭陽が「そうだな。碧衣は久しぶりの外出だから、あまり疲れないほうがいいな」と言ってコーヒーを飲み干し、タブレットを終了する。
そのタブレットを空席のラウンジチェアに置いた鞄に急ぐ素振りもなく入れている間に、碧衣は兄を急かす目的で松葉杖を手にして立ち上がろうとした。そして、隣の男性に背を向けようとした際、運悪く松葉杖の先をラウンジチェアの脚に引っ掛けて、身体のバランスをくずしてしまった。
旭陽が「碧衣!」と言って向かいから手を伸ばしたが、それより先に彼女を支えたのは隣の男性だった。
咄嗟に花柄のオフショルダーワンピースから出ている細い腕を掴んだために転ばずにすんだ。
その刹那、碧衣とその男性ー直紀ーの頭の中で、ガラスコップを弾くクリスタルサウンドのような声が同時に響いたのである。
『えっ?繊月の覡か?』
『繊月の巫様?』
碧衣は直紀に腕を掴まれたまま目を見開いて彼の顔を見、直紀も彼女を凝視したまま固まってしまった。
『どうして覡が下界にいるのですか?」
繊月の巫の悲鳴に近い高音が碧衣と直紀の髄脳を劈く。
『繊月の巫様、一緒に天界に帰りましょう』
切実な声が響いた後、直紀は掴んでいた碧衣の腕を解放し、打ち合わせをしていた相手に「失礼する」と告げて、荒々しく自分のバッグを引っ手繰るように掴んでロビーラウンジから消えた。
テーブルに残された2人の男性は呆気にとられて目をパチクリさせている。
『覡までこちらに降りてきているとは……』
力なく独り言ちる繊月の巫に、(大丈夫ですか?別の声が聞こえましたが、あの声も神子様のものですか?何が起こったのですか?)と問いかけるが、返事はない。
『何ということか…何と…』
その呟きは絶望に満ち、巫が深い苦しみの中に落とされたことを碧衣にも伝えた。
ー何かとんでもないことが起こったんだ。
松葉杖をしっかり突いて大勢を整えると、旭陽が「大丈夫?」と心配してくれたので、男が走って行ったほうを見ながら「うん」と頷く。
さきほどの男性と繊月の巫には何らかの関係があるのだろうと推察した碧衣は、彼の手掛かりを得ておくべきだと即座に判断した。
「すみません。さきほどの男の方はイベント関係の方ですか?」
隣で一緒に打ち合わせをしていた2人に「隣で興味深いお話が聞こえてきたもので…」と、尤もらしい理由を言ってイベントのチラシを1枚貰うことに成功した。
ERABLE HOTEL のネームプレートを胸に着けた男性から「松葉杖でご不便かも知れませんが、是非おいでください」と丁寧な言葉も添えてもらった。
「ありがとうございます」
「さきほどの彼は、来月このホテルで開催するショーのジュエリーデザイナーなんですよ。私はブライダルコスチューム担当で…」
もう1人の男性が話し続けるが、碧衣はチラシを見て「手掛かりゲット!」と心の中で叫び、最後まで話を聞くふりをしていた。
* * *
一方、直紀は吐き気をもよおして、1番近くのレストルームに駆け込んでいた。
洗面台の縁に手をついて自分の顔を正面、右、左と角度を変えて映し、異常がないか確認する。
「俺、大丈夫…だよな?」と鏡に映る青白い顔の自分に問う。
『お願いです。さっきの女に触れてください。巫様を見失ってしまいます。巫様と話をしなければいけないのです。・・・天界に…天界に連れて帰らねば!』
「わあぁ!」
再び自分以外の声が頭の中に聞こえきたので、両手でこめかみを押さえた。
ーもしかしてこれって解離性…何とかっていう症状か?
頭の中で響く声を意図的に無視して自身の現状を理解しなければ、と焦る。
『お願いです』、『聞こえてますよね』と途切れることなく何度も頭の中で繰り返される別の誰かの声を、(聞こえないぞ、聞こえないぞ)と唱える。
そうしながらもスマホを操作して「解離性」と打ち込むと、1番上に「解離性同一性障害」と言う文字が表示され、その説明も書かれていた。
ー俺の中に別の人格がいて、その人格に身体を乗っ取られる……………そのうち、乗っ取られるのか?
何やら自分がとんでもない状態に陥っているのは間違いないようで、とにかく家に無事に辿り着かねば、と思った。
『聞いてください』と訴えてくる「別人格」に「だまれ!家に着くまで、俺が良いと言うまで、俺に話しかけたり身体を乗っ取ったりするなよ!」と鏡の自分に命令する。
『わかりました』
声の主は今から戻って追いかけても、もうあの女性はいないだろうと諦めて直紀に従う。
吐き気も治まり、青白かった顔にも血の気が戻ってきたので、顔を洗ってからレストルームを出て、ロビーラウンジを見渡すと先程の女性の姿はもうなかった。
頭の中で「別人格」の落胆した溜め息が伝わる。
ホテルの車寄せで丁度客を降ろしたタクシーに乗り込んで、真っ直ぐマンションに戻る。
タクシーの中でも自分の変化について考えた。
あれだけの大事故に遭って環を失ったのだから、現実逃避するために「別人格」が生まれても不思議ではないのかも知れない。そうすると、さきほど聞こえたのは2人。
ーそうか、最低2人は生まれたんだな。
直紀が辿り着いた答えはこれだった。




