天界 5
天界はとにかく広い。
ここの神子たちが仕える大御神の他にも「神」と呼ばれる存在がいて、また違う空間が存在すると代々の神子から言い伝えられているが、それがどこにあるのか、そもそもここと繋がっているのかも分からないし、確かめる術もないと知っているので真偽のほどは分からないのである。
そんなファンタジーのような別世界でなくとも、神子たちが「知っているのに行くことができない場所」がこの天界には存在する。
それは、トンネルの出口だ。
門の入り口は知っているが、長い長いトンネルの出口がどうなっているのかは知らない。
光霊が浄化されるために門を潜って長いトンネルに入るのだから、必ず出口があるはずである。そして、恐らく出口にも神子たちがいて、浄化され「無」になった光霊を再び下界へ送る役目を担っているだろう。
たとえ出口側にいるとしても、そちらの神子と会うことは叶わない。
最後に煉獄の池の扉の前に若い神子を連れて行った。
その扉は神子10体分以上の高さと幅があり、鈍色の土戸で、どうやって開閉するのか想像すら出来ないほど重厚で威圧的である。扉の表面には何か文様のようなものが描かれていたようだが、凹凸が崩れている箇所があって何が描かれていたのか判別できない。
最後に開いたのはいつだろう。
この扉の遥か奥に煉獄の池があり、下界で大罪を犯した者が墨色の光霊となって天界に昇ってきたら、門の広場に行くことなく直接ここに放り込まれる。その墨色の光霊が浄化されるのは神子が何代も入れ替わるほど遠い未来なのだ。
光霊になってまで、業火に曝される苦しみは筆舌に尽くし難いものである。下界では肉体で罰を受け、天界では魂で罰を受ける。
全ての贖罪が終わったとき、墨色の光霊は瑠璃色になり、漸く門に入る列に並ぶことが許されるのである。
眼前の扉の向こうはそういう空間。
神子たちが決して立ち入ることがない所。
重厚な扉のこちら側にいても、重苦しい邪悪なオーラが洩れてくるのを感じて気分が悪くなる。嫌悪感を抱くような表情の繊月の巫が「もう行きましょう」と若い覡を従えて踵を返した。
この場に長居は無用とばかりに。
門の広場に戻り、上弦の月の覡の傍に繊月の覡を立たせ、「今日は覡の祈りをしっかり覚えてくださいね」と言い渡して自分は向こうの巫側へ移動した。
その後暫くは番で行動したり、当番の日は門の両側で祈りを捧げて光霊を導き、何事もなく平穏な時間が流れた。
そして神子たちも下界へ降りた先代の覡のことは話さなくなっていた。全てが以前と同じ風景のように見えるが、新しい繊月の番が白い蝋燭前にいることは1度もなかった。
新しい繊月の覡と番になって6度目の当番の日。
祈りを捧げる繊月の巫が足袋1足分ほど、1歩前に出たのを向かいで祈っていた繊月の覡は見逃さなかった。そのときはほんの1歩、光霊に向かって踏み出したのだが、直ぐに出した足を元の位置に戻した。
いつもは微動だにせず、ひたすら祈りを捧げているので覡の目には違和感がアリアリだった。もしかすると朔様が言っていたことはこれかも知れない、と直感した。
その日が終わるまで光霊に祈りながら巫から目が離せず、三日月の番と交代して漸くホッと胸を撫で下ろすことが出来たのだった。
その日の当番を終えると繊月の覡は他の神子たちに気付かれないように朔様の間へ急ぐ。「失礼します」と声をかけながら朔様の許可を得る前に薄紅のカーテンを抜けて、静かに祈りを捧げている朔様の前に進み出て跪いた。
朔様は天界にいる全ての光霊に「次の人生が幸せであるように」と祈り続けている。それも大切な役目の1つなのだ。
朔様の間に入るときは必ずカーテンの外側から声をかけて、朔様の許しを得てから入るのだが、このとき繊月の覡は押っ取り刀で駆け付けたため、無礼を承知で部屋に飛び込んだ。その尋常でない様子に祈りを中断して膝をつく覡を見た。
「繊月の巫に何かあったのですね」
「朔様・・・繊月の巫は下界へ降りるつもりかと思われます」
迷わずそう言って、この日見た繊月の巫の小さな異変を伝えた。
「よく気付いてくれました。・・・そうですか。やはり自分を責め続けているのですね。下界へ降りると意志を固めているのなら、どのように説得しても諦めさせることは無理でしょう。この短い間に2度も大切な神子を失うというのは悲しいですね。今回はそれが分かっているのに、下界へ行かせてしまうのですから……」
繊月の覡は先代の覡が下界へ降りるまでの経緯を全て朔様から聞かせれており、その上で繊月の巫を気にかけるよう申し付けられているのである。
覡は1歩朔様ににじり寄り、両手を床について自分の決意を伝えるために厳しい表情で訴えた。
「繊月の巫はワタシにとって、番の片割れであると同時に母のような存在です。その方が先代を追えず苦しんでいるように、ワタシも大切な巫を失えば同じように苦しみます。巫の『先代が下界に降りたのは自分の所為だから自分も消えたい』と考えるのは、正直ワタシには理解し難いのですが、繊月の巫が先代を想っていたのと、ワタシが巫を母のように慕っているのは同じではないでしょうか」
一旦言葉を切って、1つ深呼吸してから続ける。
「朔様。繊月の巫が下界へ降りたら、ワタシも直ぐに後を追います。そして、必ず連れ帰ります。ですから、それまで役目を抜けることをどうか許していただけないでしょうか」
覡は朔様の顔をじっと見たまま言葉を待つ。
朔様も若い神子の視線を逸らすことなく受け止め、唇を噛みながら考える。
苦渋の判断を迫られているが、ここを間違えてはいけないとばかりに、大御神がいるほうのカーテンを振り返った。
沈黙の時間が流れた後、朔様が繊月の覡の前に膝をついて肩に手を置く。
「下界にいられるのは354日しかありません。巫がどんなに明るい光霊を抱いたとしても、354日しかありません。ただ、巫は必ず一番明るい光霊を抱くでしょう。若くして寿命を終えたことを可哀想だと常に言っていますからね。…必ず、必ず戻ってくるのですよ」
「はい」
きっぱりとした返事は、もう心が決まっているようだ。
「戻るとき、光霊の1つを持って上がらねばなりません。それがどういうことかわかっていますね」
「はい。生き返った肉体から再び魂を抜くということ。・・・つまり、命を奪うということです。天界に帰るために使わせていただいた光霊にはワタシが深く深く祈りを捧げる所存です」
「祈りはワタシも共に捧げましょう」
「ありがとうございます」と言って床についた手の甲に額を乗せて、特別な使命を必ずやり遂げると意志を伝えた。
「頼みましたよ。・・・必ず、必ず354日の間に戻ってくるのですよ。下界で消えるなど、許しませんからね」
朔様が繊月の覡の身体をしっかり抱きしめた。




