直紀 目覚め 6
このページには性的な暴力シーンがあります。
地下鉄へ続く地下道には珍しく人が歩いていない。
コツコツと環のローヒールの音が響いている。
周りを見て、環はにやついた顔を他の人に見られなくて済んだ、とほっとしたその刹那、後ろから音もなくいきなりハンカチのような布を口に押し当てられ、引き摺るようにすぐ近くの男子トイレに連れ込まれたのだった。
何が起こったのか瞬時に判断できない。他人が近づく気配も足音も気付かなかった。身構えていなかったために、奥の個室トイレに押し込まれるまで抵抗できずに引き摺られてしまった。
漸く自分が危難に遭っていることを理解したが、逃げるには遅すぎる。
ここで命を落とすわけにはいかない。何とか生きて最愛の夫の元に帰らねば……ということだけに集中しようと決めた。
ーどうすれば良い?どうすべきか?
ガンガンと踏切の警報音が頭の中に鳴り響く。
ー落ち着け、私!大丈夫!
震える身体の細胞1個1個に「落ち着け、そして考えろ」と命令して指令を出す。
黒のニット帽子と表情を判別できない黒のサングラスにマスク姿の痩躯の男が、はあはあと猥らな息を荒くしながら環のスカートを捲ろうと太腿を探るように触り始めた。
「妊娠してるの!」
痩せているとはいえ、目の前の男に力で適うとは到底思えなかった。一か八かに賭けて抵抗すれば、逃げられる可能性があるのかも知れない。しかし、命を失う可能性のほうが高いだろう。
男の目的が淫行であるのなら、助かる可能性はある。かと言って環の膣内に挿入させるわけにはいかない。間違いなく射精されてしまう。それだけは絶対に避けたかった。
この卑劣な男に一片の良心を期待できるはずがない、それでも「妊婦を犯すことには抵抗がある」と思うのではないか…。
微かな希望を抱いてついた嘘に賭けたのだ。
いつ他の人がトイレに入ってくるかわからない状況下で、とっとと欲求を満たそうと焦ったのだろう。まんまと彼女の嘘に引っ掛かった。
「フンッ」と嘲笑って環の髪をグシャッと乱暴に掴み、脳天から物凄い力で男の股間の前に顔が来るまで押し下げ固定したのだ。
「じゃあ、口で気持ちよくしろよ。・・・妙な真似をしたら腹を蹴るからな」
背筋が一瞬で凍るほど低く枯れた声が、はあはあと飢えた狼から漏れた。
環は恐怖で声が出せない。
(誰か助けて、誰か入って来て)と祈りながらも次々と溢れる涙で顔をグチャグチャにしながら、震えるように小さく何度も頷いて男のズボンを下ろそうとした。
時間を稼ぐつもりでズボンだけに手をかけたが、彼女への死刑宣告のように卑劣な男は下着を穿いておらず、目の前に赤黒く脈打った凶器をぶるんと勃たせ、環を絶望の谷底に叩き落したのだった。
思い出せるのは、その場に自分の吐しゃ物が床に広がり、白濁した生臭くドロッとした粘液が口内だけでなく顔にも、襟元にも、そして両手にもべったり付着していることだった。
自分の唾液にも男の体液が混ざり、飲み込みたくなくて何度も、何度も便器にえずいて吐き出した。
「ここから離れたい」その一心で隣の女子トイレにふらつきながらも辿り着き、顔と口内を何度も洗った。そして、ここでも吐く。
バッグからタオル地のハンカチを取り出して洗面台で絞り、忌々しい粘液を口から、顔から、襟元から、手からゴシゴシと拭き取った。
正面の鏡には、すっかり化粧が落ちた青白い亡霊のような女が映っている。
改めてバッグの中を確かめると、盗まれたものは無い。大切なメレーダイヤモンドが入った包みもちゃんと確認できた。
少し落ち着いてくると、顔に血の気が戻りつつあった。顔に濡れた髪がかかっているので、左手で掻き上げた刹那、薬指の大切な結婚指輪が目に留まる。あの汚い粘液が指輪にも付着したに違いない、そう思うと自分だけでなく直紀も穢されたような感覚に陥って、急いで指輪を外して洗った。
それを汚れた指に嵌めたくなくて、化粧ポーチに仕舞ったのだった。
マンションに帰ると、身に着けていた服は下着も含めて全部、身体から引き剝がすように脱いでゴミ袋に詰め込んだ。
素っ裸のまま浴室まで走り、シャワーが温水になるのを待たずに頭から浴びる。ボディソープを何度もプッシュして頭のてっぺんから足の先まで洗った。
そして洗い終えると浴室の床にへたり込んで、そのままシャワーに打たれ続けたのだった。
記憶を完全に消し去るまで浴室に籠っていたかったが、それが叶うわけもなく、シャワーを停めてバスタオルに身を包む。
「酷い顔」
独り言ちながら髪を乾かし、鏡に向かって「大丈夫。大丈夫」と自分に言い聞かせるように何度も繰り返した。
バスローブを身に纏ってリビングに行くと頭が割れるように痛み出した。本格的に痛くなる前に急いで鎮痛薬を飲むと、数分で睡魔が訪れた。
そのままソファで横になり、うつらうつら・・・とすると、スマホの着信音で現の世界に引き戻された。スマホの画面に「直紀さん」とある。
「はい、環です。直紀さん、もうお帰りになりますか?」
ーほうら大丈夫。いつも通りの声。いつも通りの口調。いつも通りの私。
ちゃんと出来ているであろう対応にホッと胸を撫で下ろす。
「えっ?・・・今どこ?」
ところが予想外に戸惑った直紀の声が返ってきた。
「家にいますけど…」
ー何か悟られた?
思考が電脳並みのスピードで廻り出した。その刹那、全身の血の気が退く。スマホを持つ手が氷のように固まり始め震える。
ー結婚記念日!
「ごめんなさい!直ぐ、直ぐに支度してホテルに向かいます。ごめんなさい」
通話中のままスマホをテーブルに置き、大急ぎで身支度を始める。
「どうしよう。どうしよう」と泣きながらクローゼットに掛けてあるライムイエローのワンピースを着て、髪を纏めてアップにし、ヘアクリップで留めた。
「環?落ち着いて。待ってるから、気をつけておいで」
宥める直紀の声は妻には届かない。そのうち直紀のほうから通話を切った。
コンシェルジュにタクシーを呼んでもらい、中身が見えないゴミ袋をマンションのゴミステーションに放り込むのを忘れずに、1時間遅れでホテルに到着したのだった。
全身の汗腺から汗が噴き出し、化粧が崩れているだろうと思って、直紀に遅刻を詫びた後、化粧室に飛び込んだ。
鏡に映った顔は案の定酷いものだった。
化粧直しをするためにポーチを開いてハッとする。
ー指輪!
左手を顔の前で広げると薬指に嵌っていない。
当たり前だ。
それは、ポーチの中で眠っていたのだから。慌てて指輪を所定の場所に戻して、「直紀さん、気付いたかしら…」と不安が過った。
テーブルに戻っても直紀から指輪の件に触れてこないので、気付かれなかったのだと安堵した。
ディナーを終えて自宅に戻ると、いつも通りに振る舞えていた。あの忌々しい出来事は悪い夢で、直紀が側にいてくれる限り大丈夫だと、すべて封印できたと思っていたのだ。
ところが、その日から少しずつ積み木が崩れ始めたのである。
直紀との夜の営みが苦行になっていく。夫に身体を求められるたびに、あの個室での悪夢がフラッシュバックしてしまい、全身が硬直してしまうのだ。
ー時間が解決してくれる。
ー時が経てば記憶が薄れる。
そう自分で自分を慰めるが、その思いとは裏腹に、日が経つごとに夫の陰茎に触れることも見ることもできなくなってしまった。
愛する直紀との子どもを産みたかった環には致命的な障害となり、このままでは離婚を言い渡されるかも知れない、という不安に心が侵食されていった。
ー直紀さんにすべてを打ち明けよう。
朝が来るたびに、「今日こそは言おう」と心を奮い立たせるが、直紀を前にすると言葉が出てこない。
そうしてるうちに、夫から求められる回数が明らかに減り、苛立っていることが増えたのだった。
ー直紀さんを失いたくない。
救いを求めるように安達夫妻に縋ったのが、あの事故の日だった。




