直紀 目覚め 5
昼食後、直紀と雅孝は7人掛けのコーナーソファに場所を移して、これからのことを話し合う。
アシスタントも兼ねたパートナーを失ったのだから、新たに人を採用するか、仕事をスタッフと分担するか。現在専属スタッフは3名。営業と事務をしている佐竹と営業の川田、デザイン補佐の藤原である。専属以外にも契約している嘱託のスタッフが十数名いるので、そちらも頼りにできるだろう。
有難いことに「TO-J」のビジネスは順調で、多方面から注文をもらっている。
「補佐をしてもらっている藤原さんにタマちゃんの仕事を引き継いでもらうと、当面は何とかなるんじゃないか?」
雅孝の提案に異論はない。
「そうだな。・・・明日、藤原さんと話し合ってみるよ。人を入れるにしてもすぐには無理だろうから、暫くは俺と藤原さんで動くのがいいだろうな」
そう言いながら遺影の環を見る。
「人を入れることは、この事故に遭わなくても近々に考えなきゃいけなかったんだ」
思い詰めたように言って溜め息をついた。
「どういうこと?」
キッチンで昼食後の片付けをしながら2人のやり取りを聞いていた友香里が口を挟む。「TO-J」のスタッフとも親しい友香里は「誰か辞める話なんてあっただろうか?」と意外そうに首を傾げた。
「環が…恐らく環が近いうちに「TO-J」を辞めたいって言い出していただろうから……」
「何で?」
友香里が直紀の言葉に被せて語気を強めた。言葉を遮られた直紀は、どう話せば良いのか苦悶の表情で沈黙の時間を作っている。
そして友香里が手を拭いて夫の隣に腰を下ろした。
雅孝と友香里はただならぬ雰囲気を感じ取って、直紀が話し始めるのを彼の顔を覗くように見て待つ。
直紀は膝頭に置いた両手を握りしめて、腹の奥底から深くて長い息を絞り出した。
「・・・環には、俺以外に男がいたんだ」
それを聞いた親友夫婦が息を呑んだ。
直紀は続けて結婚記念日での出来事からポツリポツリと、階段を1段ずつゆっくり昇るように話し始める。
毎年計画を立てている記念のディナーを、当日になって忘れていたこと。
外しているのを見たことがない結婚指輪をその日に限って外して来たこと。
化粧室から戻ると、その指輪がさり気なく嵌められていたこと。
そして、夫婦の営みも少しずつ減って、直紀が求めないと環から求めてくることがなくなったこと。
ついには、ビクビクして直紀の顔色を窺うようになったこと。
それらすべては結婚記念日から始まったということを堪え難そうに打ち明けた。
きっと他に好きな男が出来たのだろう、と言う。
直紀が黙り込むまで・・・最後まで聞いて、友香里がわっと泣き出した。両手で顔を覆って膝に埋め、肩を震わせて号泣している。
「ひどい!よくそんなこと!ひどすぎるわ!」
そう繰り返す妻の背中に手を当て雅孝も顔を歪めて、そして労わるように優しく摩り続けた。
「直紀、事故に遭った日、タマちゃんから何も聞かなかったのか?」
怒りを含む真剣な視線を直紀に向けて、雅孝は苛立っている。いや、かなり怒っているのだ。これほど厳しい顔つきの雅孝を見たことがない。
直紀はあの日のアトリエでの記憶を辿った。
ーあの日、環を雅さんのアトリエまで迎えに行ったとき・・・そうだ、環は目を腫らしていた。
「家に帰ったら話があると言っていた。・・・好きな男ができたから離婚して欲しいと言われるんじゃないかと思ってた…」
「馬鹿じゃない!!」
顔を上げて友香里が叫ぶ。泣きじゃくってグシャグシャな顔で怒っている。今にも直紀に殴りかかりそうな勢いで身を乗り出して、拳を力いっぱい握りしめて睨みつけるが、雅孝は妻を止めようとはしない。
「いったいどれだけタマちゃんを見てきたの?どうしてそんな馬鹿げた考えができる?」
真っ赤な顔で怒りながら、ポタポタ涙を落とす友香里の肩をポンポン軽く叩いて、雅孝は憐れむように悲しそうな顔をしている。
「俺たちが聞かされていなければ、一生直紀は真実を知ることはなかったんだな」
「・・・真実って……?」
* * *
どっぷりと日が暮れて、明かりを点けてない室内は月の光に照らされていた。
環の結婚指輪を握りしめ、俯いたままフローリングの床にへたり込んで何時間経っただろう。雅孝と友香里がこの部屋を出た時はまだ日が差していた。
完全に思考が停止状態に陥り、焦点も定まらず、抜け殻と化した身体は涙を流す資格すら有してなかった。
雅孝から明かされた「真実」は直紀の心を深く抉り、ぽっかりと大きな空洞を作るほどに愕然とするものだったのだ。
1年で1番大切にしている結婚記念日のあの日、直紀の指示で環は宝石バイヤーの事務所にメレーダイヤモンドを受け取りに行った。
それが午前中のこと。
直紀から帰りはタクシーを使うように言われていたが、駅近くのケーキ屋で夫の大好きなモンブランを買って帰るために地下鉄で帰るルートを選んだ。バイヤーの事務所から地下鉄で帰るのは、今回が初めてではなかったために気が緩み、それが大事になるとは予想もしなかったのだ。
タクシーで帰るように言ったのは、記念日ディナーに行くためのおめかしをする時間を考えての直紀の気遣いだった。彼自身、危機感から言ったわけではなかった。
直紀とホテルで待ち合わせているのは午後6時。地下鉄で帰っても「おめかし」する時間は十分ある。
この日のためにライムイエローのフレアワンピースを用意した。
髪には直紀からプレゼントで貰ったキラッキラのヘアクリップを留めよう。
着飾った自分を見て夫が「綺麗だ」と言って微笑んでくれる。
運が良ければキスのひとつもしてくれるかも知れない。
そう思うと自然に顔が綻んだ。




