直紀 目覚め 2
どのくらい時間が経っただろう。
嗚咽が収まり、つつぅと流れる涙で枕がぐっしょり濡れて冷たくなっていることに気付いた。震える呼吸を整えて瞼を閉じると、泣き疲れたのと点滴から補給される薬の作用とで、直ぐに眠りについた。
次に目が覚めた時、雅孝の姿が病室にあった。
「雅さん…環が…」
雅孝の真っ赤に腫らした目を見た途端、直紀の止まっていた涙が溢れて零れる。
「ここに来る前、タマちゃんに会ってきたよ。・・・綺麗な顔して眠っているようだった」
生き残った自分ですら身体じゅう傷だらけなのに、圧し潰された環が「綺麗」なはずはなく、その姿を確認することが出来ない直紀のために・・・記憶の中に綺麗な妻の姿を残すために、そう言って慰めてくれたのだと察した。
そして雅孝自身も、それが気休めにしかならないことを承知の上で、直紀に報告したのだ。
直紀は自分がやらなければいけない事を雅孝にさせてしまい、申し訳なくて「本当は傷だらけで痛々しかったんでしょ」などと詰め寄るつもりもなかった。
「ありがとうございます。・・・俺、環を見送ってやれないから、お義父さんとお義母さんに環の骨は全て連れて帰ってきてください、って伝えてもらえますか?1片たりと知らない所に置いときたくないんで」
ベッドに横たわったまま頼むように頭を傾ける。
「わかった。必ず伝えるよ」
妻の葬儀だというのに、何もできない直紀の代わりに彼の父親が式の手配と諸々の対応をし、奈良から駆け付け憔悴しきっている環の両親に寄り添うことまでしてくれた。
式には直紀の両親が参列し、安達夫妻と「TO-J」のスタッフも悲しみの中、静かに環を見送ってくれた
その日は午後から環を送るに相応しく、しとしと雨が降っていた。
直紀も病室から重暗い雲が広がる空をみて、「離れた所にいてごめんな」と手を合わせて涙した。
* * *
胸の痛みはまだ取れず、腕を動かしたり大きく息をすると辛いものがあるが、身の回りのことを直紀ひとりでできるまでに回復したので、事故から2週間振りに自宅マンションに帰ってきた。
直紀の両親は長期間会社を留守にすることができないため、息子の退院が決まった日に、義両親に「気晴らしに、いつでもカリフォルニアに来てください」と告げて日本を発っていた。
都心にある30階建てのタワーマンションの5階に「TO-J」のオフィス用、そして最上階に直紀の自宅を所有している。
最上階3LDK角部屋からの眺めは秀逸で、まるで自分たちのためにライトアップしてくれたのかと思うほど東京タワーの夜景がよく見える。それはどんな絵画より美しい、と環はいつも満足げに口にしていた。
そのライトアップは単一ではなく、涼し気なシルバーライトに照らされる夏バージョンと、温かみのあるオレンジライトに照らされる冬バージョンがあり、訪れた友人たちはリビングの灯りを落として、その美しい夜景をワインのお供の1品にして楽しんだ。
35畳のリビングには7人掛けのコーナーソファとイギリス製のアンティークキャビネットが置かれている。
そのキャビネットの上に環が入った骨壺を置いて、大好きな夜景が見られるようにして欲しい、と義両親に頼んでおいた。合わせて、直紀が退院するまで環が寂しがらないように義母にはマンションに泊まってくれるよう頼んだ。生前から何度も遊びに来ていたので勝手も知り、直紀も安心だったからだ。
義息子が退院して帰ってくると、今日までに安達夫妻や「TO-J」のスタッフ、環の友人など多くの人が弔問に訪れてくれたことを伝えた。それを表すように、そのほとんどに彼女を悼むメッセージカードが添えられていた。
「帰ってきたよ」
直紀はキャビネットに置かれた骨壺を撫でながら、「こんなに小さくなってしまって…」と寂しげに呟く。
その日のうちに、退院までの間留守を預かってくれた義母に心から感謝を告げて、奈良への帰路に就いてもらった。
「次の法要にまた上京するね。・・・どうか気を落とさないで。直君がいつまでも下を向いていたら環も悲しむから」
義母だって娘を失った悲しみから抜け出せていないだろう。それなのに、やつれ切った顔で義息子を励ましてくれるのが申し訳ない。
「ありがとうございます。お義母さんも元気出してください」
深々と頭を下げたのには、感謝だけでなく、環を守れず自分だけが生き残ってしまった贖罪ももちろん含まれていた。
ひとりになると、家の至る処に環の匂いと痕跡が残っていることを痛感する。キッチンの向こうから、寝室の扉の奥から、バスルームの中から、ふと環が「直紀さん」とひょっこり現れそうな気がして止まない。
「環」がいるガラスキャビネットの横にある革のパーソナルチェアに座って、彼女の笑っている遺影に語りかける。
「事故の日、ここに帰ってきたら俺に何を言うつもりだった?」
あの日、車で「家に帰ったら聞いて欲しいことがある」と消えそうなくらい小さな声で言っていた。もしかすると聞けなくて救われたのかも知れない、と一瞬頭に浮かんだが、首を振って即座にそれを否定する。
「聞かなくて良い話なんてあっていいはずがない。どんな話でも聞かなきゃいけなかったんだ・・・なあ、環。何を言いたかったんだ?」
まだ数日はアルコールを控えるように病院で念を押されたので酔うこともできない。
「こんな日に酔えないなんて、拷問だよなあ。・・・そう思うだろう?」
もう返事をすることがない「環」を愛しげに摩る。
遺影の前のリングクッションに置かれた妻の結婚指輪が目に留まった。納骨の際、一緒に墓に入れてやろう、などと指輪を見ながら考えていると、ふと結婚記念日に彼女がこの指輪を外していたことを思い出した。
ーもしかすると、環の浮気相手の手掛かりがあるかも・・・。
そう思い付くと居ても立ってもいられず、まだ動くと痛みが辛い身体を椅子から奮い立たせて寝室に向かった。
そこには環のお気に入りであるイギリス製アンティークのドレッサーが置いてある。
「この猫脚がすっごくキュートだと思わない?」
数あるアンティーク家具の中からこのドレッサーを選んだのは、それが決めてだったらしい。ウォールナット材の重厚な作りで、折り畳める大きな3面鏡と、アクセサリーやメイク道具を整理しやすいようにたくさんの引き出しがあるのだ。
その鏡の前に座って毎晩、長い黒髪を梳かし、スキンケアをする妻をベッドから眺めるのが好きだった。
鏡越しに目が合うと、唇を窄めてチュッとする仕草が溜らなく可愛い。そんなことをされると、躊躇うことなく後ろから抱きしめて、「もうちょっと待って」と制止しようとする妻をベッドまで連れて行って甘い夜を過ごすのがお決まりだった。
思い出すだけで喉の奥が痛くなる。




