直紀 目覚め 1
ーん?俺はどうなった?
直紀は自分が事故に遭った瞬間を鮮明に記憶していた。
ただ、身体を全く動かすことが出来ないうえに、意識が朦朧とした状態では生きているのか、それとも死んでしまったのか判別できないでいた。
それでも暫くの間、音と匂いに全神経を集中させ、靄のかかったままの脳をフル回転させると、ピッピッと規則正しい機械音が耳に届き、ツーンとした消毒薬の匂いが鼻孔を擽ると、ここは病院なのだと答えにたどり着いたのだった。
目を開けることすらできない状態ではあるが、間違いなく自分は「生きて」いる。
それだけ確認できると安心したのか、再び意識が混濁して暗闇に沈んでいった。
「お見舞いありがとうございます」
ー母さんの声だ。そうか、俺がこんなことになったから、アメリカから駆け付けてくれたのか。
「意識が戻ったら連絡いただけますか?」
ー今度は、雅さん?・・・ああ、心配して来てくれたんだ。忙しいのに申し訳ないなぁ。
「もう大丈夫だろうって先生がおっしゃってたので、目が覚めたら連絡しますね」
ー聞こえてるよ~。意識戻ってるよ~。・・・それにしても瞼ってこんなに重かったっけ?せっかく雅さんが来てくれてるのに、身体がフワフワして力が入ら…な……い。
点滴で落とされる薬液に睡眠作用のある成分が入っているようで、再度、暗闇に引き込まれていった。
「・・・おき・・・なおき・・・」
ーうん?
手の甲を優しく摩りながら名を呼ぶ母の声に反応して、瞼がうっすら開く。
久しぶりに開けた目で焦点が定まらないが、瞳が光を捉えると漸く目覚めたのだと認識できた。
「か…あさん?」
小さくて掠れてはいるが、相手に届く程度には声が出ている、と同時に目の前の風景も輪郭がはっきりしてきた。
安堵したのだろう、目を細くする母の顔が近くにあった。
「母さん、環は?」
母が、息子に「意識が戻って良かった」と言おうとしているのだろうが、その前に妻の安否を確認せずにはいられない。
はっきりと覚えているのは、助手席の環が「雷が怖い」と言って引き攣ったように無理して微笑みを返したその刹那、大きな木が倒れてきて、車をぐしゃっと圧し潰したこと。あまりに一瞬の出来事で自分の身を守ることも、彼女を庇うこともできなかった。
もう1度問う。
「環は、生きてる?」
直紀の手に重ねている母の手に一瞬力がこもり、息を吞んだ。
それから目を瞑って深く息を吐き、首を横にゆっくり振った。
「・・・即死・・・だったって・・・」
「・・・そうか」
実感がないと何の感情も沸いてこないもんなんだな。
直紀の時間軸では、つい先ほどまで環は確かに隣にいた。大好きなジャズが流れる車の指定席にいたのに「即死だった」と言われて、「やはりそうでしたか」と素直に受け取るなど、土台無理な話である。
それでも心臓はドクンドクンと収縮し、拍動の回数が多くなっていくのを感じた。
ーいや、わかってたんだ。きっと助からないって・・・。
母が枕元のナースコールボタンを押して、直紀が目覚めたことを伝えた。
「すぐに行きます」とスピーカーから聞こえてから、程なくして医師と看護師が病室に来た。
患者の胸に聴診器を当て、傷口の確認をする。一通りの診察を終えると、点滴の落下速度を調整する。その後傷口の消毒を行い、看護師にガーゼと包帯の指示をしてから、漸く目の前の患者に怪我の状態と処置についての説明を始めた。
なかなか無愛想な医師だと心の中で愚痴る。
「打撲による肋骨骨折がありましたが、内臓損傷はありませんでした。それから、頸部外傷により出血量が多かったため、緊急オペになりました。右肩と右前腕部に切創・・・切り傷がありましたので、縫合処置を施しました。・・・うん、傷口はどれも順調に回復してきてるね」
後半は隣の看護師との会話になっていた。
「もう暫く入院してもらいますが、この調子だとそれ程長くないと思いますよ」
淡々と、服用する薬の説明と今夕から出される食事指導の話を終えたら、医療用ワゴンを押す看護師と共に1度もニコリともせずに、担当医は病室を出た。
「今日は何日?」
直紀が欲したときにいつでも飲めるようにと、ペットボトルのミネラtルウォーターを水差しに移している母に尋ねた。
「8月9日よ。あなた3日間眠ってたの。・・・事故に遭ったって佐竹君から連絡もらって、すぐにお父さんと帰国したのよ。警察対応は安達さんと佐竹君がしてくれたから助かったわ」
両親はカリフォルニアで、日本からの食料品輸入会社を経営し、直紀もハイスクール卒業までアメリカで過ごした。
卒業後は外国人留学生枠を使って日本の大学に入学し、成績優秀生として卒業式で表彰されたほど勉強熱心だったが、美丈夫な見た目のために遊び人のイメージが付きまとった。実際、六本木や原宿、表参道を歩けば芸能事務所やモデル事務所からスカウトの声がかかることが何度もあり、少々天狗になった若者は女性に不自由することがなかったほどであった。
「環は?環は今どうなってる?」
「検視?・・・それが済んで、明日お通夜、明後日お葬式よ」
それを聞いた直紀は「こんな所で寝てる場合じゃない」と髪をガシガシ掻いて、掛け布団を胸まで捲る。
「母さん、すぐに俺のマンションに行って、喪服を持ってきてくれ。俺が喪主なんだから行かなきゃ。・・・あっ、着替えの服も頼む。何でもいいから。それから、雅さんに連絡したいからスマホ取って。・・・とにかく今は、環の傍にいてやらないと」
そう言って身体を起こした途端、「ううっ」とただならぬ胸の痛みに身を丸めて顔を歪めた。
大きく息をすると骨が軋み、激痛が脳天まで走る。胸に巻かれたリブバンドと呼ばれる肋骨固定バンドを押さえて、その痛みに堪えようと息を殺すが全身から冷や汗が噴き出すのが分かった。
息子の悶絶しそうな様子を目の当たりにして、母が駆け寄る。
「動いたら駄目!あなた、本当に危なかったのよ。ここに運ばれた時点では助かるかどうか分からないほど出血が多かったんだから」
母が大きな声で叱りながら直紀が横になるのを助けて、布団を掛け直し、まだ傷跡が痛々しい頬を避けて顔を摩った。
1度激痛を体験してしまうと呼吸するのが怖い。こんな身体で環に会いに行けるはずがないと自分でも分かる。分かるのだが、妻の死に顔すら見ることが叶わないなど、これ以上酷い仕打ちがあるだろうか。次に会えるのは小さな壺に入った環だ。
胸の痛みと心の痛みは、環を見送ってやれない自分への罰に違いないと号泣する。
母は、直紀が環の姿があるうちに彼女のもとに行くことを諦めざるを得ない苦しさを吐き出せるよう、静かに病室を出た。
1部加筆しました。




