碧衣 事故前 1
薄墨色の雲が一面に広がる空とは対照的に、如月碧衣の心はカーオーディオから流れてくるベートーヴェンの交響曲第7番に合わせてステップを踏みたいほどウキウキしている。
助手席の橘佳弥斗を斜め後ろからうっとりとした目て見る様子は「恋する乙女」以外の何者でもない。
(私、絶対に真っ赤な顔をしているよね)
両手を頬に当てて体温が上がっていないか確かめると、やはり熱い。
小倉俊介が信号待ちで、ハンドルを握りながらルームミラー越しにちらっと碧衣を見て、頬に手を当てて瞳をキラキラさせている彼女に茶目っ気たっぷりにウインクを送る。
碧衣、佳弥斗、俊介は同じ音楽大学をこの春に卒業した友人同士である。
卒業後、碧衣は ERABLE HOTEL の専属ピアニストとして契約し、週4で演奏している。俊介はゲーム制作会社に就職して、音楽クリエーターとして曲作りに携わっている。そして佳弥斗は念願叶って9月からオーストリアの音楽学校に留学する。
今日は「佳弥斗が渡欧する前に食事しよう」と、俊介が声をかけてくれて集まったのである。
目的地は、都心から車で1時間半ほどかかるが、最近オープンした天然温泉を売りにするリラクゼーションリゾートで、ビュッフェ形式のレストランは有名シェフ監修という触れ込みが効いてネットの評価点数が高い。
風呂はバリ風のものや和風ひのき風呂、露天のものもあって、それぞれ特徴がユニークだ。
そして岩盤浴やサウナも魅力的なのだが、女性が碧衣ひとりなので今日は休憩室横に設置されているウッドデッキに座って足湯だけで良しとした。
ふくらはぎまで足を湯に浸しながら学生時代の笑い話や、酢豚がメニューに並ぶ日は碧衣が講義終了のチャイムと同時に学食に走った話、そして指揮コースの教授は親と同世代のオーストリア人男性で、日本語の語尾になぜか「~ね」を付けるのが可愛いかった話、そこから佳弥斗がその教授の推薦でオーストリア留学が決まった話など、少し前の懐かしい思い出を次々に語り合った。
「暫くは、オンラインでしか顔を合わせられないな」
寂しそうに呟く。
「俺と碧衣ちゃんは東京にいるから、たまに会おうな」
留学する佳弥斗が悔しがるような言い方で意地悪を楽しむ。
「ツーショット写真、送ろうか?」
俊介の容赦ない追い打ちに、「そんなの送られたら帰国したくなる。勉強にならないよ」と冗談に乗っかった。
ただ、碧衣には今日どうしても話さなければいけないと決めている重要案件があり、2人といつものように楽しく過ごす間も心臓がドキドキして、浸かっている足湯の温かさも全く分からない。
今日ついに、佳弥斗に「好き」と告白するのだ。たとえ想いが叶わず粉々に砕けても、次に彼が帰国するまでに立ち直って今のような友人関係に戻れるだろうから…と、玉砕覚悟の告白である。
「佳弥斗くんに告白しようと思うの」
数日前、俊介には言っておくべきだと思って前もって伝えた。
「そうだな。オーストリアに行ったらなかなか機会ないだろうし、まさか画面越しに『好きです』って言うのもなぁ…」
俊介が1番の理解者で、碧衣の悩み事にはどんなことでも真剣に耳を傾けてくれる。だから今回告白することも隠さないし、何なら佳弥斗を好きになったことも真っ先に聞いてもらったほどだった。
「告れる機会を作ってやるから、噛まずに言えるようしっかり練習しときなよ」
事前にそういう経緯があって本日に至る。
* * *
大学で佳弥斗は殊の外人気があった。
就職希望企業ランキングでここ数年上位の「橘商事」、その超有名企業トップの次男で跡継ぎの兄とは6歳違い。
都内の超高級住宅地にある広大な敷地を持つ邸宅は、日本瓦が乗った白くて高い塀に囲まれている。そしてインターフォンを鳴らすことさえ躊躇われるほど威圧感がある数寄屋門がデーンと構え、「押す勇気があるのか?」と値踏みされている気分になるのだ。当然、そこから屋敷は見えない。
地図アプリで航空写真を見ると、いったい何棟あるのだろうと思わず数えてしまいたくなるほどの豪邸である。
大きな樹木が生い茂り、豪邸あるあるの池も確認できる。その中には間違いなく1匹数万円以上の錦鯉が何匹、何十匹も優雅に泳いでいるのだろう。
複数の使用人が世話をするのが当たり前で、望んだ物を全て手に入れることができる環境で育ってきた。
そんな恵まれた生活の中でも、「会社と従業員の生活を守れ、資産を増やせ、簡単に他人を信じるな、己が橘の家のために何をしなければいけないか常に考えろ」などを幼少期から口を酸っぱくして叩き込まれてきたのだ。特に祖父は厳しく、笑った顔を記憶の中では見た覚えがないと言っていた。
どんなに厳しく育てられても佳弥斗の口調は常に柔らかく穏やかで、グループ活動でも率先してまとめ役を買って出るし、家柄で付き合い方を変えたり、物や金銭で人を動かそうすることは1度もなかった。
すこぶる性格が良い御曹司が、180㎝で痩身、程よく鍛えられた腹筋、くっきり二重でスッキリ通った鼻筋。そんな彫刻が展示されている美術館があるんじゃないかと思わせる体躯だ。大学の学校案内誌の表紙に採用された際は誰もが納得した。
そんな王子様のような彼がモテないわけがない。
碧衣は入学してすぐに佳弥斗の存在を知った。
「メチャクチャハイレベルなイケメンがいる」と女子たちがざわついたからである。「付き合ってる彼女はいないらしい」と噂が広がると、さっそくアピール合戦が始まった。ミーハーだと揶揄されても他の女子と同じように、碧衣もお近づきになれれば…と秘かに狙っていた。
図書館やレッスンルーム、講義室で見かけたことや、学内ですれ違ったことは結構な回数あるのだが、常に友人たちー男女限らずーに囲まれているのだ。
碧衣はそれほど人見知りをするほうではないが、積極的にぐいぐい行ける性格でもないため、佳弥斗と知り合いにーましてや友人にーなるチャンスはこのまま巡って来ないかも知れないと諦め半分に、そしてそれならそれで仕方ないと思っていた。
ところが、意外な場所でその超絶ラッキーチャンスが訪れたのである。
1部修正と加筆をしました。




