碧衣 目覚め 6
今まで半月余りもピアノから離れたことがない。だから、随分指が鈍っているだろうと覚悟して鍵盤に指を乗せた。指先に伝わる鍵盤の冷たさが心地良い。
肩の力を抜いて、静かにベートーヴェンのピアノソナタ第14番「月光」を普段より少しゆっくり弾き始めた。
佳弥斗と過ごした4年間を振り返り、そして佳弥斗の冥福を祈りながら真心を込めて奏でる。
ー私、精一杯生きるね。
これからも、自分だけが生き返ったことを申し訳なく思うことが何度もあるだろう。綺麗ごとのようだが「佳弥斗くんの分まで生きる」と宣言することで、生き返って良かったんだと感じながらこれからを歩いていこうと誓う。
『美しい曲ですね』
繊月の巫も囁くように感想を漏らした。
『アオイの音は澄んでいて麗しい』
(ありがとうございます。ピアノを弾く仕事をしてるので、これからはセンゲツの神子様にもたくさん聴いていただきますね)
碧衣がピアノを弾き始めると、両親と兄がソファに座って久し振りの演奏に聴き入る。
「月光」に続いて、ドヴォルザークの「スラヴ舞曲」、ブラームスの「ワルツ変イ長調」をノンストップで弾き、聴衆から拍手をもらった。
「ちゃんと指が動いてくれて安心したわ」
両方の手の平を1度広げてじっくり眺めてから、手を合わせて祈るような形で人差し指に額を付けた。
母が丸いクッションを持ってきて、ギプスが巻かれた左足の踵の下に置いてみる。
「このほうがグラグラしなくて、弾きやすいんじゃない?」
確かに!
「来週中にはギプスが外れるだろうって先生がおっしゃってたけど、外れたところでまだ無理はできないだろうから、クッションがあったほうが安心して弾けるわ。・・・あ、そうだ。近々 ERABLE HOTEL に行こうと思ってるの。心配かけた上に2か月も休ませてもらうから謝りたいし、10月から復帰させてくださいってお願いもしたいし」
東京タワー近くに位置する ERABLE HOTEL は、1960年開業で40階建てのラグジュアリホテルである。
地下には有名ブランドが並ぶショッピングアーケードが、一方で最上階のバーラウンジには、「クリスマスにプロポーズすれば100%成功する」と言うジンクスがあって、クリスマス1か月前には既に予約で埋まるほどなのだ。
これは20年前に大ヒットしたテレビドラマでそういう設定があって、それが当時の若者に受けたのが今も続いている所為だろう。眼下に東京タワーと無数の星を散りばめたような夜景を見ながらのプロポーズは、ドラマの影響が無くてもムード満点で、首を横に振る気を失せさせる。
碧衣はそんなホテルのロビーラウンジで週4日、2時間の生演奏をしているのだ。
「お兄ちゃん、車出してくれる?」
「いいよ」
あれだけの事故を経験したにも関わらず、車に乗ることに抵抗はない。1度失った命が戻りーこれに関しては自覚がないのだがー自分の中に神子がいることで「死」に対する恐怖心が薄れているのかも知れない。
それに、何よりも雷が木に落ちてそれが裂け、その木が倒れて走行中の車を直撃するという事故に遭遇する確率は限りなくゼロに近いだろう。世の中にはもっと確率の高い事件、事故がある。
それを考えると、車に乗ることを怖がっても仕方がない、と開き直れるのだ。
今、自分が横たわっているのはレンタルベッドだけれど、家に帰って来られたこと、消毒液ではない家族の匂いに包まれていること、家族と過ごす時間を再び持てたこと、それら全てを繊月の巫に(生き返らせてくれてありがとうございます)と伝えた。
『この先楽しいことばかりではないかも知れません。1度や2度は生き返ったことを苦しく思うこともあるでしょう。それでも、次に天界に昇ってく来るときの魂が幸せな光霊であると信じていますよ』
繊月の巫の言葉1語1句が戒めとなって碧衣の心に染みる。
ーちゃんと生きていこう。
事故に遭う前は「生きる」ということを真剣に考えたことがない。だからもう1度生きるチャンスをもらった自分が、だらだらした日々を過ごすことなく有意義な毎日を積み重ねることが佳弥斗に対して負うべき責務なのだと痛感するとともに、絶対に幸せになろうと改めて誓いを立てた。
数日後、兄に付き添いを頼んで ERABLE HOTEL を訪ねた。事前に「行く」と連絡を入れておいたので、スタッフルームのドアを開けるとすぐに副支配人が入り口前まで来てくれた。
「大変でしたね。もう大丈夫なのですか?・・・さあさあ、こちらにお掛けください」
室内に招き入れると、用意してあったのか安定感のある木製の椅子を2人に勧めてくれた。
「ありがとうございます」と言って、松葉杖を兄に預けて腰掛ける。
「ご心配おかけして申し訳ありませんでした。それから、入院中にお見舞いのお花を届けてくださってありがとうございました。まだこんな状態なので、もうしばらくお休みさせていただきたいのですが……」
椅子に腰掛けた状態で頭を下げる碧衣に、「いえいえ、ご無事で良かったです」と言いながら、碧衣の痛々しいギプス姿を気の毒そうに見る。
「事故のニュースを見て、なんと不運な…と思っていたので、その事故に如月さんが巻き込まれたと連絡をもらったときは、心臓が止まるかと思いましたよ。ご友人を亡くされたと聞きました。残念でなりません。・・・仕事を休まれることは気にしていただかなくても大丈夫ですから、しっかり養生して、また素晴らしい演奏を聴かせてください」
少々小柄で恰幅の良い40代前半の副支配人が優しく労わってくれるのが嬉しい。
「帰りにラウンジを覗いてもいいですか?」
久々の職場を見たかったのだが、松葉杖にギプス姿なので一応許可を求めた。
「もちろんです。ラウンジでコーヒーでも飲んでゆっくりしていってください」
そう言うと、近くにいたホテルスタッフにコーヒーチケットを用意させて兄に手渡した。
ロビーラウンジに行くと、ホテルの日常が流れている。当たり前のことではあるが、自分がどれほど大きな事故に遭っても、殆どのものは変わらないのだ。
ーああ。この空気、好きだなぁ。
ここに来れば自分の居場所があり、再びこの日常に溶け込める。
もうしばらくこの雰囲気を浸りたくて、目立たないようにラウンジの端のテーブルを選んでコーヒーを注文した。
碧衣の仕事場でもあるロビーラウンジは10mほどの吹き抜けを6本の大理石の柱が支えるデザインになっている。吹き抜けの中央には天井から豪奢なシャンデリアが床近くまで垂れ下がり、昼間は滝が流れているように光が落ち、夜は空に輝く星を集めたように美しく輝く。そのシャンデリアを囲むように白い丸テーブルとゆったり座れるアームチェアが配置されている。
ラウンジの向こうには、大きなガラス張りの窓から都心にいることを忘れさせるほど豊かな緑と日差しが見える。東京タワー近くでこの雰囲気を有するロビーラウンジを待ち合わせ場所に指定したり、仕事の打ち合わせに利用する客が多いのも頷ける。
碧衣が仕事で弾くグランドピアノは1段高いステージの上に置かれ、隣に季節の花が花器を半分以上隠すほどたっぷり生けられている。
「早く仕事したいなぁ」
「そうだな。早く碧衣に弾いて欲しいって、ピアノも待ってるんじゃない?」




