碧衣 目覚め 1
『・・・ますか?・・・こえますか?・・・聞こえますか?』
(誰かの・・・声が・・・する・・・)
『そうです。ずっとアナタの心の中で呼びかけていました』
(・・・ん?・・・ワタシ ノ ナカ?・・・って?)
心の中で誰かと会話をしながら、ゆっくり瞼を開けてみるが霞んで焦点が定まらない。
何度か瞬きをすれば、漸く周りの景色の輪郭がはっきりしてきた。
薄汚れた白い天井と、室内に籠る消毒液の匂い。
重い頭を少し動かして視線を横に向けると、医療用の機械がピッピッと電子音を鳴らしている。その隣に点滴スタンドが置かれ、輸液パックがぶら下がり、それから出る管が自分に繋がっているようだ。
大きな窓の向こうに橙色の空に広がる薄雲が見える。
再び思い頭を反対側に回して、そちらの景色も確かめる。そこにはアイボリー一色の壁と白緑の引き戸があるだけだった。
(病院・・・だよね)
『そうです。アナタはここで少しの間眠っていました』
いったい私は誰と喋っているのだろう、と思って動かせる限り頭を回転させるも、この室内には人の気配がない。
「誰かいるの?」
そう声を出して呼びかけたいのに、唇から喉までカラカラに乾いて音にならない。舌で唇を舐めて湿らせ、唾を飲み込んでから、再度「誰?」と声を発してみると、小さいながらもカスカスに掠れた声を出すことができた。
『ワタシはアナタの中にいます』
「?・・・私のナカ?」
『喋るのは辛いでしょう。ワタシはアナタの心の中にいますから、声に出さなくても会話ができます』
まだ覚醒しきっていない霞がかかる頭で、突然聞こえてきた言葉を反芻してみるが、理解不能である。
もしかしたら幻聴かも知れない。
自分以外の声が聞こえるという不思議な現象を一旦横に置いておき、自分が今どうなっているのか冷静に順を追って考えてみる。
現在自身がいるのは病院で、ベッドに寝かされて治療を受けているのは確かだ。
では、なぜ?
病気なのか怪我なのか?
1番最後の記憶を思い起こし・・・・・・そうだ、事故だ!
(確か、佳弥斗くんと俊介くんと一緒に、佳弥斗くんの渡欧前に食事をしようと、リラクゼーション施設に出かけたよね。・・・それから・・・食事の後・・・そうよ、佳弥斗くんに告白したんだった!)
思い出すと頬に熱を帯びる。
(それで前向きに考えてくれるって・・・そうよ、そうよ。仮だけど、恋人にしてもらったんだよね)
『恋が実ったのですか?』
(うん。仮だから正式な恋人じゃないけど、オーストリアで真剣に考えてくれるって、前向きに考えてくれるって言ってくれたの・・・って、私、誰と会話してるの?)
『良かったですね』
とても優しく微笑んでくれた佳弥斗の顔が目に浮かぶ。
日本にいる間にいっぱいデートしようって言ってくれた。
(そのあと帰りは・・・えっと・・・天気が急に悪くなって、雷は鳴るし、雨は激しく降ってくるしで・・・・・・)
そこまで記憶をたぐり寄せた時、目の前に大木が覆いかぶさるように倒れてくるさまがコマ送りで脳内再生された。
次に頭に浮かんだのは、自分が今の今まで乗っていた車が炎上している光景だった。
それを少し離れた場所から見ている。
「いやああぁあー!!」
悍ましい光景が甦り、両手で頭を抱えて布団の中で身体を丸める。
その拍子に点滴スタンドがガシャンと倒れて電子機器が異常なアラーム音を鳴らし出した。
碧衣は芋虫のように丸く固まってガタガタと震える。
『落ち着きましょう。大丈夫ですか?・・・落ち着きましょう』
心の中の声の主が必死に呼びかけるが、その声は今の碧衣に届かない。
「佳弥斗くんが・・・佳弥斗くんが・・・」
繰り返し繰り返し同じ言葉を布団の中で言い続けている。
ナースステーションでも碧衣に繋がれた電子機器の異常が認められたのだろう。直ぐに男性医師と女性看護師がバタバタと駆け付けた。そして、勢いよく病室の扉を開けて布団の中で丸まっている碧衣を見た。
「目が覚めたんだね。・・・ちょっと身体を見せてもらえるかな?」
男性医師が優しく声をかけながら布団を足元へ半分そっと捲って、患者の状態を確認しようと試みた。
一緒に来た女性看護師も丸まって震えている碧衣を落ち着かせるために、頭や背中を摩って「大丈夫、もう大丈夫だからね」と囁くように声をかけてくれる。
「佳弥斗くん・・・橘佳弥斗くんはどこにいるんですか?・・・一緒に事故にあったんです。この病院にいるんですか?いるんですよね?会えますか?」
どうか、「彼も治療をうけているのよ。大丈夫よ」と言ってください。
その思いで看護師のナース服を掴んで縋るように尋ねる。
しかし、看護師がしたことは碧衣の手の甲をゆっくり、そして優しく撫でながら「ご家族の方々がすぐに来てくれますからね」と微笑んだことだった。碧衣が1番欲しい佳弥斗の安否情報をくれない。
最悪の事態を想定して、碧衣が「佳弥斗くんに会わせて」と酷く取り乱して叫び続けたため、医師の判断で鎮静系の薬剤を点滴から投与され、強制的に瞼を閉じさせられたのだった。
次に目が覚めたとき、両親と兄が碧衣の顔を心配そうに覗き込んでいた。そして瞼を開けた碧衣を見て安堵の溜め息を漏らした。
目は覚めたが、まだ鎮静剤が効いている所為で頭が少々重く怠い。けれども、先程のように取り乱したり興奮したりする気持ちは既になくなっていた。
「良かった。1週間も眠ったままだったから心配で心配で…」
いつも明るくテキパキ動き回る母が確実にやつれている。
「私、1週間も眠っていたの?」
母が碧衣の額からこめかみをそっと撫でる。その目は真っ赤に腫れていた。
「うん。いつ目が覚めるんですか、って母さんは毎日主治医の先生に詰め寄ってたんだ」
母の憔悴しきった様子を見ると、その行動は想像に難くない。
「身体じゅう痛いでしょう。あんまり動かしちゃダメよ」と顔を撫でる手を止めずに優しく言う。
それから兄が怪我の具合を説明してくれた。
「全身打撲と左足首骨折。それと頭をかなり強く打ったから、なかなか目が覚めなかったみたいだ。途中、何度か意識?感覚は戻ったみたいだったけど。身体じゅう傷だらけで、額・・・前髪の生え際を10針縫わなきゃいけなかった」
「なかなか悲惨な状態だったんだね」
先程取り乱したときは足首のギプスも額の包帯も気が付かなかった。
「でも、この1週間で擦り傷や切り傷は随分マシになったのよ。事故に遭ったって連絡もらったから飛んできたんだけど、そのときの碧衣は全く意識がなくて、このまま逝っちゃうんじゃないかって怖くて・・・」
そのときの様子を思い出して家族が顔を歪めている。
「ごめんなさい。親不孝しちゃったね」
そう詫びて、ついに1番知りたいことを思い切って尋ねた。
「ねえ、教えて。・・・佳弥斗くんも助かったの?」




