凛子の霊異記【湖国の振袖_改稿】
2015年に投稿した「湖国の振袖」を改稿したものです。
「ねえ、琵琶湖祭って聞いた事あるかい?」
友人の三橋達也が深刻な顔で相談があると言ってきたのは30分ほど前の事だった。ここしばらく実家へ帰っていたというが、喫茶店の椅子に座るなりそう切り出してきたのだ。
「琵琶湖祭? ああ、毎年大きな花火を打ち上げてるって言う花火大会のこと?」
結城凛子はそのように問いを返した。
三橋は首を横に振った。
「いや、戦前の祭りだよ。今の花火大会はその流れを汲んではいるけれど、全然違うイベントなんだ」
「ふーん。ごめん全然知らない」
凛子は三橋の眼を見ながらそう答えた。
そりゃそうだろうな、という感じで頷くと、三橋はテーブルの上のコーヒーをすすり、「少し長くなるけれど」と前置きしてから説明を始めた。
「琵琶湖祭というのは昭和10年から数年間開催された県主導のお祭りなんだ。戦争でそれどころではなくなったんだけれどね。祭りには「ミス琵琶湖」としていろんな行事や神事に参加する女性を琵琶湖周辺の6市町村から二人ずつ選出していったそうだよ」
凛子は無言で紅茶をすすると眼で続きを促した。
「相談というのはこの「ミス琵琶湖」についてなんだ。正確には13人目の「ミス琵琶湖」についてだ」
「ん? 6市町村で二人ずつなら12人じゃないのか?」
「そう。だけど13人目がいたんだよ。いまでいう補欠としてね」
ああ、そういうことか、と凛子は頷いた。大きな行事ならそのような用心もあったかもしれない。
そして、三橋は少し言いにくそうに、何回かコーヒーを口にすると思い切ったように言った。
「ここから先の話は現物を見てもらってからでいいだろうか」
「現物? わたしのはサイコメトリーとは少し違うのよ。「相手」がいないと...」
「うん、わかってる。でも結城さんなら力になってくれるかもと... 勝手なことを言っているのは承知しています。でもお願いします」
頭を下げる三橋の姿からは、いつもと違う必死さが伝わってきて凛子は戸惑った。三橋らしくない。
「わかったわよ。ショートケーキ追加するけど良いわね」
「いくらでも。プリンも付けようか」
「さっき食べたところだから良い」
三橋の出身が滋賀県だというのは聞いたことがあった。ひょんなことからつまらない肝試しに参加する事になり、そこで凛子の「特技」を目撃した三橋はそれ以降なにくれとなく凛子に纏わりつくようになった。と言っても不快ではなく、普通に常識をわきまえた三橋との会話は友人の少ない凛子にとっては心地よい時間でもあり、出身についての話もそのなかで聞いた事である。
滋賀方面へ向かう列車の中で弁当を食べる三橋を見ながら、凛子は少し可笑しかった。言いにくそうだったのは「泊りがけ」で頼む事になるからだったことと、自分の「特技」をあてにした「相談」でありながら、それは凛子にとって不快な「依頼」と受け取られかねないと、ずいぶん逡巡した結果のようだ。
宿泊先は三橋の実家であるし、普段の言動から三橋が不届きな企みを持つとも思えず、凛子は二つ返事で了承した。そして相談内容が凛子の持つ「特技」をあてにしているものだとしても、三橋の頼みであればできるだけのことを行うのは少しも不快ではない。
可笑しなものだな、と凛子は思う。これまで「特技」を積極的に使おうなどとは思った事もなく、むしろひた隠しにしてきたものだ。友人が少ないのもそれが原因で、気持ち悪いと離れていった「元」友人も少なくない。
三橋とならばこれからも... と思って少し赤面する。
「おおー! あんたさんが達也の彼女さんか!」
琵琶湖を見下ろす旧家の門をくぐるなり、老人が大声を出した。「おおーい! 婆さん、達也の彼女さんが来たぞー!」
ぞろぞろと三橋家の面々が玄関に集合してくる...
思わず三橋を睨んだ凛子は列車の中で赤面した事を激しく後悔した。
「既成事実を作る事が目的だったわけじゃないよね?」
三橋が自分に対して少なからず好意を抱いていることに気付いている凛子は低い声で三橋に向かって囁いた。
首を激しく左右に振って三橋は否定する。「ど、どこかで齟齬があったんだよ...」
一歩、屋敷に足を踏み入れたとたんにビシビシと伝わる気配に、玄関先のことなど凛子にはどうでもよくなった。正面に続く縁側に面した襖の向こうを見ながら思わず顔が強張る。
「ま、とにかく先ずは荷物を置いて寛いでください」
凛子の視線と表情を見てか、先ほどとは打って変わって低い声で老人が声をかけた。
通された部屋は庭に面した明るく広い座敷で、庭の向こうには琵琶湖が見下ろせた。「12畳...」と畳の数を数えながら呟いたが、途中の襖の数からしてこの程度の部屋はまだ他にもあるのだろう。正真正銘のお屋敷だな、やっぱり玉の輿も捨てがたい... などという考えがちらりとよぎる。
鞄を置いて一息つくと程なく三橋が襖の向こうから声をかけ入ってきた。お盆にお茶と一見して高そうな和菓子が用意されている。美味しそうだ。
「古い家で驚いた?」
「古いよりも大きさに驚いた」凛子が正直に感想を述べると、三橋は笑った。
「じいちゃんが挨拶に来るよ。例の話もあるし」
「お祖父さんに話は通ってるの? うさんくさい奴だと思われてるんじゃ...」
「いや、それはないよ」即座に三橋は否定する。「うちはこのとおりの旧家だから座敷童もいるし、お盆になると仏間の写真は笑うし、庭には時折見知らぬお婆さんがちょこんと立ってるしで、まあ、みんな慣れてるんだよ」
しれっと恐ろしい事を言う三橋に、それはそれで困った一族だな、三橋がわたしと普通に付き合えるのもそれが原因か、と思いながら、それでも凛子は言った。「だけど、わたしのような目的で訪れる者には警戒するもんじゃないの?」
三橋は笑って、「そこはそれ、僕の人徳がものを...」「違うぞ」と、突然三橋の後ろで声がした。さっきの老人が笑いながら立っていた。
「それは名目で、てっきり彼女を紹介しに帰ってきたもんじゃと思っておったわい」
老人は三橋の隣に座ると、達也の祖父で益次郎と申します、と自己紹介をした。
「結城凛子と申します。この度はお世話になります」と凛子が頭を下げると、益次郎翁は滅相もないと手を振って、「こちらこそお世話になります。先ほどのご様子からお気づきになったと拝見いたしましたが」と凛子に尋ねた。
「気づいたと言いますか... 気配だけで、どんなものかはまだまったくわかりませんが」そう返答すると、「では、ご案内いたしましょう。今からでもよろしいか?」と、三橋を促しながら立ち上がった。
鮎の形をした和菓子をちらりと見ながら、それでも凛子はこくりと頷いた。
襖の前まで恐ろしいくらいに伝わっていた何かの気配は襖を開けた瞬間すっと消え、残されたのは絶句するほどの広い畳敷きの部屋と衣文掛けにかかった振袖であった。
「68畳あるよ」三橋が凛子の先回りをして話した。軽く頷く凛子だったが、視線は正面の振袖に注がれている。
「あれ」だろう。
多少の色あせはあるものの、薄紫に何かの葉や波模様をあしらったその着物は十分に美しいものだった。
「「ミス琵琶湖」が着た振袖じゃ。琵琶湖の葦と波をあしらっておる」
益次郎翁が低い声で語る。
「半年ほど前に亡くなった、わしの母親、つまり達也の曾祖母が着たものでのう。もっとも本来は母のものではなかったのだが...」
凛子が無言で振袖を見つめているのを確認して益次郎翁は続ける。
「わしの母親は補欠で選ばれたのじゃ。元々琵琶湖祭になど関心がなかった母の父親はそのような行事に17の娘が参加する事には否定的であったようでな。県の偉い人から是非にとの参加要請にもなかなかうんとは言わんかったようで、結局補欠という立場での選出に落ち着いたようじゃ。ま、相手の顔を立てつつも、参加することにはならんと思っておったのかも知れんがな」
「じゃが、琵琶湖祭の直前に京都で大雨による災害があったようでなあ。たまたまミス琵琶湖に選ばれておったひとりの娘が用事で京都へ行っておったのじゃ。彼女は川に流され、急遽わしの母親が参加する事になったというわけじゃ。それも流された娘の名前でのう」
うん? と凛子は益次郎翁を見やった。その視線を受けて益次郎翁は続ける。
「母の父親がそのような見世物になるような行事に参加はさせぬ、という態度をとったため、京都での事故の事は伏せられ、母はその娘の名前で「ミス琵琶湖」となったのだそうだ」
凛子はひとつ溜息をついた。「亡くなったひいお婆様はどう思っていたのかしら?」
益次郎翁は「「ミス琵琶湖」に選ばれたこと、参加できたことが嬉しかったと言っておった。できれば自分の名前で出たかった、とも言っておったがなあ」と、眼を細めながら、何かを思い出すように言った。
「じゃが、同時に負い目もあったようじゃ。自分が着た振袖は、本来その死んだ娘のものであったのじゃからのう。死ぬ間際まで「返したい」と言っておったわ」
「振袖が死んだ娘のものとはどういうことですか。全員に提供されたわけではないのですか?」
「いや、用意されたのは12枚だけだったそうじゃ。幸いに背丈の似通った娘だったようで、その娘が着るはずの一枚が母のもとへ廻されたようじゃ」
「ずいぶんと雑な感じですね」
益次郎翁は頷いた。「まったくじゃ」
曾祖母がなくなった後、三橋は曾祖母の願いを叶えるために振袖を蔵の奥から見つけ出し、なんとか亡くなった娘の遺族へ返還しようと努力をしたようだ。だが、誰の身代わりで祭りに参加したのかを曾祖母は祖父らにも話しておらず、また、祭りの数日前に京都において川へ流されたという記録も当たってみたのだがそれらしきものは見当たらなかったという。曾祖母の記憶違いも考えられるため、遺族探しは暗礁に乗り上げていた。
その頃であった。三橋が振袖の前で何者かの姿を見かけたのは...
衣文掛けに振袖を掛け、三橋はその前で図書館でコピーしてきた資料を改めて見直していた。
その時... 衣文掛けにかかった振袖の裾に足袋が見えた。えっ、とそれを凝視した直後、足袋はすっと流れ、振袖が左から右のほうへ波立つ。
...確かに後ろを人が歩いている。
曾祖母だ。三橋はそう思い、波の先に眼をやる。黒い髪が揺れゆっくりと少女の姿が現れる。えっ、ひい婆ちゃん、若返った? そして、少女はゆっくりと振り返る...
その顔に曾祖母の面影はなかった。あるのは能面のような「無表情」だけだった。ただ静かな息遣いがかすかに聞こえる。やがて呆然とする三橋の前で少女は姿を消した。
翌日、孫の話を聞いた益次郎翁は件の振袖の前に座り待った。翁にとっては大切な母の形見であり、母が亡くなる前まで気にかけていた遺品である。孫が曾祖母の思いを果たそうと努力している事は知っていたし協力もしていたが、まさかそのような奇怪な出来事が起ころうとは夢にも思わなかった。心残りゆえに母が迷って出たか、益次郎翁にとっては考えたくない事でありそのためにも確認しなければならなかった。
朝から座り、やがて日が傾きひぐらしが鳴き始めた頃、翁はほうと息をついた。時折、孫が、また妻や嫁が様子を伺いに来たがその都度何も起こらんと笑って返していた。
ここまでじゃな、と翁は立ち上がった。流石に饅頭とお茶だけで一日を過ごしているのは年寄りにはつらい。孫の見間違いか何かであったか、いや、明日もう一度座ってみても良いか、などと考えながら振袖に背を向け大広間を横切ろうとした。
その時であった。
真後ろに何かが立った。
確かにその気配を翁は感じた。だが... 振り返る事ができない。背後からは強く睨みつけるような視線を感じる。違う、母ではない。これは母ではない。母とはまったく異質な何かだ。母は、母は…
こんな敵意を向けてはこない。
聞こえるか聞こえないかのわずかに畳をする足音と共に、すっと翁の右脇をすり抜け桜地に花菱紋様の着物を着た少女が翁の前で立ち止まった。そして、振り返りはじめた。
翁は俯き眼をぎゅっと瞑る。見たくない。見てはいけない。本能が見ることを拒絶していた。
俯く顔を何かが覗き込んでいる。膝ががくがく震える。消えてくれ、早く消えてくれ。祈りながら翁は思わず叫んだ「母さん!」幼い頃にいつも助けてくれた母に縋り叫んだ。
ふっと気配が消えた。
同時に膝が力を失いその場にへたり込む。
涙が出て止まらず益次郎翁は子供のようにしゃくりあげた。怖かった。ただひたすらに怖かった。
どたどたと廊下を駆けてくる足音がする。孫が、息子が、そして妻と嫁が、見たことのない翁の姿に愕然と立ちすくんだ。
益次郎翁から語られるその出来事は、翁にとっては恥辱以外の何者でもないだろう。隠居の身とはいえこのような旧家の、社会的地位もあるだろう翁が包み隠さず自分のような小娘に語ってくれる事に凛子は好感を持った。そしてそれはそのまま三橋達也という人物を孫とはいえ益次郎翁が信頼しているという事の裏返しでもある。
たしかに「人徳」だよ、三橋。
凛子は少し笑った。
「振袖に未練があって曾祖母を恨んでいるんじゃないかと思うんだ」三橋は呟き、そして続ける。
「返す方法もわからないんじゃどうしようもない。ひい婆ちゃんはあの世で苦しめられてるんじゃないだろうか。どうしたらいいんだろう... 結城さん、どうしたら良いか教えてよ!」
三橋の相談とは幽霊が出るとかそんな事より、ただただ曾祖母の身を案じ、安らかであるようにとの願い、「13人目のミス琵琶湖」であったがゆえに訪れた不幸な巡り会わせからの解放なのであった。
闇の中で眼が覚めた。いまは何時頃だろうか。視界の左側に振袖が眼に入る。
昨夜は益次郎翁にお願いして、振袖の前で眠る事にした。ずいぶんと心配されたがなんとか折れてもらった。その代わり、大広間を少し襖で区切って、三橋がそこで眠っている。なにかあればとんで起きるよ、と三橋は言ったがあまりあてにはしていない。むしろ巻き込みたくないと思っている。
ふっと空気が変わったことに気づく。衣文掛けの下に足袋をはいた足が見え、ゆっくりと凛子の足もとの方へ動いていく。
来た。三橋が言っていたのと同じ状況だ。
ぎゅっと体が硬くなる。金縛り... 意識的に呼吸を整える。眼だけで足袋の動きを追う。
足袋が衣文掛けの端に来たときに、意外なことにそれはすうっと消えていく。
出てこないのか... しばらくその方向を見つめていたが変化がない。しかし、体にはひしひしとなにかの気配が伝わってくる...
視線を戻した瞬間、ひっと息を飲み込んだ。天井に張り付く形で「彼女」が凛子を見つめていたのだ。
薄桃色の着物を着、長い黒髪をだらんと垂らして「彼女」が凛子を見つめている。闇に眼が慣れているとはいえ、この暗さの中で「彼女」の着物の柄や視線が明確にわかるのは不思議でもあった。
視線ははっきりと捕らえているにもかかわらず「彼女」は無表情であった。年のころは17-8だろうか、かわいい子だ。と、思ったとき「彼女」がすうっと降りてきた。
そして凛子のまさしく眼と鼻の先で止まる...
やがて無表情でありながらも、その眼から涙が一滴、凛子の眼に落ち「彼女」の視線が凛子のそれとはっきりと合った。
大雨が降っている。昼間だというのに暗い。付き添いの泰造が傘を差しかけながらなにか叫んでいるが横殴りの雨は容赦なく娘を打ち、泰造の言葉は聞き取れない。それでも泰造に庇われながら小走りに走る。足袋も裾も、体中が雨に濡れて気持ちが悪い。祖父と父、それぞれの顔と声が浮かぶ。「たかが雨だ。稽古を休む事はならん」「8日に戻れば祭には間に合う」
だからと言って昨日から降る大雨の中、三条の宿で一泊とはいえ、京都市中までお稽古にでて、今日中に家に帰らなくてはいけないなんて。せめてもう一泊、天気が落ち着くまでゆっくりさせてもらえれば。そう思うのは心の中だけで、顔に出すことは許されないことを娘は知っていた。
ただ待ちきれない楽しみもある。
先月、四条の大丸で見た祭の振袖を思い浮かべる。薄紫の綺麗な着物だった。あれを着て「ミス琵琶湖」としてお船に乗ったりするんだ。もうすぐ明後日だ、あの振袖が着られる。
もう少しで宿に戻れる。着替えたらお茶でもいただき車を呼んでもらおう。車ならこの雨でも駅までは平気だ。
突然強い風が吹き泰造の持つ傘が大きく風にあおられた。そのまま泰造自身の体がぐらりと揺れる。「あぶない!」娘は叫んだ。手を伸ばし泰造を掴む。だが、娘の力は弱くそのまま川に向かって体が泳いでいく...
川の水が、泥水が、容赦なく口から入ってくる。流れは激しく右も左もわからない。いや、上も下もわからない。水がにがい。苦しい、怖い、助けて... 娘と同じ体験をしながら凛子もまたもがく。もがきながら頑張れ! 頑張れ! と娘を励ますがその意識は徐々に薄くなってくる。突然、頭に強い衝撃が加わり一瞬で目の前が真っ赤になった。そして遠くに薄紫の振袖が舞う。あれを着てお船に乗るんだ。明るい湖にきっと映える私の...
突然がばりと起き上がり凛子は激しくむせた。泥の味が生々しく口の中に残っている。
激しく襖を開くと三橋が駆け込んできた。「どうしたの!? 大丈夫!?」むせ続ける凛子の背中をさすりながら三橋は問いかける。むせ過ぎて涙目の凛子は「大丈夫だよ」と少し笑い「わかったよ」と付け加えた。
朝食が済み、三橋家の人々は大広間に集まっていた。三橋の母親や祖母が、気味悪いのだろう、振袖に目を向けないようにしているのがわかる。三橋の話では彼女たちも奇怪な経験をしているというから無理もない話だ。いくら「慣れて」いるとしてもできればそのような経験はないほうが良い。
「結論から言います。三橋く... 達也くんのひいお婆様は安らかに眠っておられます。なにも心配される事はありません」
一同にほっとした空気が流れた。
「そもそも幽霊... 「彼女」は達也くんのひいお婆様のことを認識していません」
「それは... ひい婆ちゃんの事を恨んだりはしていないってこと?」と三橋が尋ねる。
凛子は頷き、言った。「ええ、そうよ」
そして三橋に「生前、ひいお婆様は幽霊が出るとか言っておられましたか? 座敷童や庭の老女とは別に、という意味だけど」と尋ねた。三橋は首を振った。益次郎翁に眼を向けると翁もまた黙って首を振った。
「蔵から振袖を出してすぐに幽霊が出るようになったわけでもない、と思いますが」
「うん。ひと月ほど経ってからだった...」
「正確には達也くんが、本来の持ち主、つまり「彼女」の素性を調べ始めてからの出来事になります。つまり、その時点ではひいお婆様はすでに亡くなっておられるわけですから「彼女」とは接触の機会はないわけです」
すると益次郎翁が異議を唱えた。
「しかし、あの振袖に憑いているのであれば、今の持ち主である母のことは知っておるのではないかのう」
「はい。しかしそれはあくまで12人のミス琵琶湖の一人としてです。お忘れでしょうか。ひいお婆様は「彼女」の名前で琵琶湖祭に参加されていました。「彼女」にとって、そこにひいお婆さまは存在しません。
三橋はきょとんとした顔で「そんな事で?」と尋ねた。
「そうよ。「彼女」の執着心はその振袖を着ること、かつそれを着て祭に参加することだけだったの」
凛子は益次郎翁に眼を向けながら続けた。
「そのふたつは偶然ではありましたが、ひいお婆様が「彼女」の名代として参加することで果たされていたのです」
「ではなぜ? 今頃現れたのじゃ?」
凛子は少し困った顔で「それは... たまたま、としか言いようがありません」
「たまたま?」
「はい。達也くんが「彼女」に関心を持ち「彼女」の素性を調べ始めた。突然命を失い祭に参加できなかった不幸への同情心と、たまたま波長が合ったのでしょう」
ふむ、と益次郎翁は腕を組んだ。
「わしの... わしの前に現れたときは、恐ろしいほどの敵意を感じたが、あれはどうなんじゃ」
「...「彼女」は、祖父と父親に恨み、敵愾心を持っていました」
「敵愾心?」
「ずいぶんと厳しい方々であったようです。わたしは「彼女」の心情に重なったわけですが... 正直、あまりお近づきになりたい方々ではありませんでした。ただ、当時の旧家のご家庭では普通のことだったのかもしれませんが...」
ふむ、と独り言ちて、「それでわしに対しては、年齢的なこともありあれ程... と、いうことか」と翁が呟いた。「可哀想に」
「なんとかしてやれんのか。わざわざ呼び起こしてしまって、しかもこれからも父や祖父への恨みを抱きながら迷っているのは不憫ではないか」
凛子は微笑んだ。「大丈夫です。今となっては振袖は執着心の対象ではなく、単なる依代としての意味しか持ってはいません。迷っているわけではないのです」
三橋が尋ねる。「どうすればいい? 依代だって言われても...」
「燃やせばいいのよ」凛子はあっさりとそう言った。「燃やしてしまえば「彼女」の依代はなくなり、安らかに眠ることができるわ」
「で、でもあれはひい婆ちゃんの形見だし...」と言いかける三橋をさえぎり「いや」と益次郎翁が言った。「凛子さん、あなたはその娘さんの心に「重なった」と言われた」「そして娘さんは祖父君や御父上には良い感情を持ってはおらぬと」
「はい」凛子は頷いた。
益次郎翁は一言言った。
「燃やそう」
庭の真ん中で薄紫の振袖が燃えている。三橋家の人々にとっては大切な曾祖母の形見でもあるその振袖は、しかし、同時に三橋家の人々に見守られながら故人の遺志を正しく叶えることになるのであろう方法で送られていった。
わずかに火の粉が舞うが、それほど激しく燃えるでもなく、むしろ名残を惜しむかのような燃え方に見えたのは、三橋の持つ祖母への名残の投影だったのか。それでも燃え尽き灰になった振袖だったものに、最後に水をかけたその時、さっと舞い上がり、三橋家の人々の眼に、一瞬だが確かに薄紫の色を写して、それは静かに落ちた。
「結城さんは「彼女」が誰なのかわかったのかい?」
帰路、列車の中で三橋が尋ねた。
「名前ぐらいはね」と凛子が答え、「でも教えないよ」と続けた。
「教えたらどこの娘か調べて、振袖を送り返せば... なんてあんたは思うだろう?」
「うん、それが良い方法じゃないの。燃やしたことは別にかまわないけれどさ」
「振袖に憑いて実家へ帰る。するとどうなる? 父や祖父へのわだかまりが、それも実家であればなおさら増幅されていって、「彼女」にとってそれは大変に不幸なことじゃないかな」
「ああ、そうか」
「鈍いよ。あんたのおじいさんは大したもんだよ。燃やそうと提案したとき、そのあたりの事をすぐに得心してくれたよ」
「そうか...」三橋は笑って「悪かったな鈍くて」と言った。
列車は山に差し掛かる。三橋の隣で触れた肩がなぜか自然に感じられる。「良い人たちだったな」と凛子は思い返し、「美味しかったな、鮎の形のあのお菓子」と思わず呟く。
三橋が少し笑った。「取り寄せできるよ」
「ばかね、美味しいものは食べる場所もセットなのよ」
「じゃあ、また...」と言いかけて、三橋は少し口ごもる。
こういうところが駄目なのね、と凛子は横目で三橋を睨むのだが、三橋にとってはその視線はすさまじい破壊力を持つ「流し目」だったのだ。慌てて目を逸らし、「う、うん、来年の花火大会でも...」というのが精一杯だった。
いつの間にか湖は見えなくなっていた。