表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

孤児の少女、王子の影で愛に目覚める

作者: 華咲 美月

 フラジール王国の貧民街は、まるで光の届かぬ深淵だった。

 埃っぽい路地に、煤けた石壁が果てしなく連なり、飢えた子供たちの声が風に混じる。

 そこに、ステラはいた。

 12歳の少女は、ぼろを纏った華奢な身体で、市場の喧騒を縫うように走っていた。

 手には、盗んだばかりの固いパン。

 彼女の灰色の瞳は、鋭くもどこか儚げに揺れていた。


「そこのガキ! 止まりな!」

 市場の商人の怒声が背中に突き刺さる。

 ステラは振り返らず、細い路地へと飛び込んだ。

 息を切らし、心臓が喉元で暴れる。

 だが、彼女の足取りは軽やかだった。

 生きるために、盗むために、走ることは彼女の日常だった。


 その時、路地の向こうで馬のいななきが響いた。

 ステラは立ち止まり、物陰に身を潜めた。

 そこには、黄金の髪が陽光を浴びて輝く少年がいた。

 第二王子、アステル・フラジール。

 14歳の彼は、貧民街の視察に訪れていた。

 白い馬に跨り、青い瞳は好奇心と憂いを帯びて辺りを見回していた。

 その美しさは、まるでこの汚れた世界に迷い込んだ星のようだった。


 ステラの心は、なぜかざわめいた。

「王子様、か……」

 と呟き、目を離せずにいたその瞬間、黒い影が動いた。

 覆面の男たちが、アステルの馬を囲むように現れた。

 第一王子派の刺客だ。

 剣の光がきらめき、アステルの護衛が叫び声を上げる。


「殿下、逃げて!」

 護衛の声はすぐに血の匂いに塗りつぶされた。

 ステラの身体は、考えるより先に動いていた。

 彼女は物陰から飛び出し、アステルの手首を掴んだ。


「こっち! 早く!」

 驚いたアステルが彼女を見下ろす。

 だが、ステラの必死な瞳に逆らう暇はなかった。

 二人は細い路地を駆け抜け、迷路のような裏道を抜けた。

 ステラの知る秘密の抜け道だ。

 刺客の足音が遠ざかり、やがて静寂が訪れた。


 薄暗い廃屋の中で、ステラとアステルは肩で息をしていた。

 アステルの青い瞳が、ステラをじっと見つめる。

「お前……命の恩人だな。名前は?」

「ステラ……ただの泥棒だよ」

 と、彼女はそっけなく答えたが、胸の鼓動は隠せなかった。

 アステルの声は、まるで春の風のように柔らかく、ステラの凍えた心をそっと溶かした。


「借りを作ったままでは、王子として沽券に関わる」

 とアステルは笑い、ステラの手を取った。

「王宮に来い。せめて一晩、温かい食事と寝床を与えたい」

 ステラは一瞬ためらったが、彼の手の温もりに抗えず、頷いた。

 彼女の小さな世界が、今、大きく揺れ始めていた。


 王宮に連れられたステラは、初めて見る絢爛な世界に目を奪われた。

 大理石の床、色とりどりのタペストリー、そして甘い香りの漂う風呂。

 垢にまみれた身体が清められ、粗末な服が柔らかな衣に変わる。

 食卓には、想像もつかないほど豊かな料理が並んだ。

 ステラは、夢の中にいるようだった。


 だが、食事が終わる頃、側近たちの囁きがステラの耳に届いた。

「この少女……殿下に瓜二つではありませんか?」

 もう一人の側近が頷く。

「第一王子派の動きが激化している今、影武者がいれば殿下の安全が守れる」

 アステルはステラを見やり、静かに微笑んだ。

「ステラ、俺の影武者になってくれないか? 危険かもしれないが、食べ物と安全は保証する」


 ステラの灰色の瞳が揺れた。

 王子のそばにいられる。

 温かい食事と、初めて感じる「居場所」が手に入る。

 だが、それ以上に、彼女の心を捕らえたのは、アステルのまっすぐな瞳だった。

「……いいよ。やるよ、アステルの影武者」

 と、ステラは小さく頷いた。

 その瞬間、彼女の運命は、王子の影として、そしてやがて芽生える禁断の恋の炎として、動き始めた。


 王宮の朝は、ステラにとってまるで別の世界の夢のようだった。

 朝陽がステンドグラスの窓を彩り、大理石の廊下に柔らかな光を投げかける。

 ステラは、アステルの影武者として与えられた部屋で、ふかふかのベッドから起き上がった。

 鏡に映る自分は、男装の王子衣装に身を包み、短く切り揃えた髪が少年のような面影を強調していた。

 だが、灰色の瞳には、貧民街の少女の鋭さがまだ宿っていた。


「ステラ、準備はいいか?」

 アステルの声がドアの向こうから響く。

 ステラの心は、彼の声を聞くたびに小さく跳ねた。

 彼女は深呼吸し、「王子」としての顔を整えて扉を開けた。

 アステルは、青い瞳に朝の光を湛え、優しく微笑んだ。

「今日の公務は、市場の視察だ。お前には俺の代わりに民と話してほしい」

 ステラは頷きつつ、胸の内で囁いた。

(民と話すなんて、昨日までの私なら盗みを働く相手だったのに……)


 影武者としての日々は、ステラの想像を超える速さで彼女を変えていった。

 宮廷の礼儀作法を学び、読み書きを覚え、剣術の基礎まで叩き込まれた。

 最初はぎこちなかったステラの仕草も、月日が経つにつれ、「第二王子アステル」として堂々としたものに変わっていった。

 民衆の前で微笑み、商人と交渉し、時には子供たちに手を振る。

 そのたびに、アステルのそばで彼の温かな視線を感じ、ステラの心は密かに熱を帯びた。


 ある日、庭園での散歩中、アステルがふと立ち止まり、ステラを見やった。

「お前、変わったな。初めて会った時は、まるで野良猫のようだったのに」

 ステラは頬を膨らませ、そっぽを向いた。

「失礼な王子様ね。野良猫だって、ちゃんと生きてたんだから」

 アステルはくすりと笑い、ステラの頭にそっと手を置いた。

「そうだな。……でも、今のお前は、俺にとってかけがえのない存在だ」

 その言葉に、ステラの胸は締め付けられるように疼いた。

 彼女は目を逸らし、熱くなる頬を隠した。

(こんな気持ち、知らなかった……)


 4年の月日が流れ、ステラは16歳になっていた。

 アステルとの時間は、彼女の心に深い刻印を残した。

 彼の優しさ、時折見せる孤独な眼差し、王位継承の重圧に耐える背中――すべてがステラの心を捕らえ、知らず知らずのうちに恋心が芽生えていた。

 夜ごと、寝台でアステルの笑顔を思い出し、ステラは胸の鼓動を抑えきれなかった。

 だが、彼女は知っていた。

 この想いは、影武者の分際で抱くべきものではない。


 ある日の謁見の間、ステラはアステルの婚約者、ルビアナ公爵令嬢と初めて対峙した。

 ルビアナは、深紅のドレスに身を包み、気品と冷ややかさを漂わせていた。

 彼女はステラを一瞥し、微笑みの中に鋭い刃を隠した。

「あなた、よく殿下の影を務めているわね。……でも、覚えておきなさい。あなたでは、アステル様を本当の意味で守ることはできない」

 ステラは言葉を失い、ただルビアナの背中を見送った。

 彼女の言葉は、ステラの心に冷たい楔を打ち込んだ。

(私はただの影……。アステルのそばにいる資格なんて、ないのかもしれない)


 その夜、ステラは自室の窓辺で星空を見上げた。アステルの笑顔が脳裏に浮かび、胸が締め付けられる。

「どうして……こんな気持ちになっちゃったんだろう……」

 彼女の灰色の瞳に、初めての涙が光った。

 影武者としての日々は、彼女に愛と苦しみの両方を教えてしまっていた。


 フラジール王宮の朝は、いつものように静謐で荘厳だった。

 だが、ステラの心は穏やかではなかった。

 16歳になった彼女は、鏡の前に立ち、男装の王子衣装に身を包んでいた。

 だが、その姿はもはや少年のものではなかった。

 華奢だった身体は女性らしい曲線を描き、短く切った髪も、どれだけ整えても柔らかな女らしさを隠しきれなくなっていた。

 側近たちの囁きも、最近は冷たく響く。

「影武者として、もう限界だ。殿下に似せるには無理がある」


 ステラは鏡の中の自分を見つめ、唇を噛んだ。

 4年間、アステルの影として生きてきた。

 民衆の前で笑い、王子として剣を振るい、彼のそばで彼の息遣いを感じてきた。

 だが、その全てが、彼女の心に禁断の炎を灯していた。

 アステルへの想いは、抑えようとしても溢れ、夜ごとに彼女を苛んだ。

 彼の青い瞳が、優しい笑顔が、孤独を隠す一瞬の翳りが、ステラの胸を締め付けた。


 その日、アステルはステラを王宮の庭園に呼び出した。

 秋の風が色づく葉を揺らし、二人を包むように吹き抜ける。

 アステルは、いつものように穏やかに微笑んだが、その瞳にはどこか重い光があった。

「ステラ……お前も気づいているだろう。影武者としての役目は、もう終わりだ」

 ステラの喉が詰まった。

 覚悟していた言葉だったが、実際に聞くと胸が裂けるようだった。

「……うん、わかってる。私の身体、隠しきれなくなってきたもの」

 彼女は努めて軽く答え、目を逸らした。


 アステルは一瞬黙り、ステラの手を取った。

 その温もりに、彼女の心は震えた。

「お前がいてくれたから、俺はここまでやってこられた。……ありがとう、ステラ」

 その言葉は、優しくも残酷だった。

 ステラの灰色の瞳に涙が滲む。

 彼女は必死にそれを押し隠し、笑顔を作った。

「借り物の王子様やって、楽しかったよ。……アステル、元気でね」

 彼女は彼の手をそっと離し、背を向けた。

 もうこれ以上そばにいたら、この想いが抑えきれなくなる。

(アステルは王子で、私はただの孤児……。この恋は、許されない)


 王宮を去る準備は、驚くほど静かに進んだ。

 ステラは、側近から渡されたわずかな金と旅装を手に、王宮の裏門に立った。

 振り返れば、アステルの姿が遠くに見えた。

 彼は広間の窓辺で、誰かと話している。

 笑顔はいつも通りだが、どこか遠い。

 ステラの胸は締め付けられた。

「もう……これでいいよね。忘れなきゃ……」

 彼女は涙を拭い、夜の闇に紛れて歩き出した。

 だが、心の奥では、アステルの声が、温もりが、消えることなく響き続けていた。


 一方、アステルはステラの去った裏門をじっと見つめていた。

 側近が近づき、「殿下、第一王子派の動きが活発化しています。ルビアナ様との婚儀を急ぐべきかと……」と進言する。

 アステルは頷きながらも、なぜか胸に空虚な風が吹いた。

 ステラの不在が、彼の心に静かな波紋を広げていた。


 フラジール王宮の大広間は、華やかさに満ちていた。

 色とりどりの花が柱を飾り、シャンデリアの光が金と銀の装飾をきらめかせる。

 今日、第二王子アステルと公爵令嬢ルビアナの結婚式が執り行われる。

 貴族たちは絢爛な衣装に身を包み、祝福の笑顔を浮かべていた。

 だが、広間の中心に立つアステルの青い瞳には、どこか捉えどころのない翳りが宿っていた。


 ステラは、王宮から遠く離れた宿屋の窓辺で、ぼんやりと空を見上げていた。

 16歳の彼女は、旅装のまま、粗末なマントに身を包んでいた。

 灰色の瞳は、かつての鋭さを失い、静かな諦めに満ちていた。

 あの日、王宮を去ってから数週間。彼女はアステルを忘れようと、旅を続けてきた。

 だが、心は裏切るように、彼の笑顔を、温かな手を、夜ごとに思い出させた。

(もう、終わったんだ……。彼は王子で、私はただの孤児)


 王宮では、ルビアナが純白のドレスに身を包み、アステルの隣に立っていた。

 彼女の美しさは、まるで氷の彫刻のように完璧だった。

 だが、その瞳はアステルの横顔を捉え、微かな痛みを宿していた。

 式の進行中、彼女はアステルの微笑みに気づいた。

 それは、民衆に向けるいつもの優雅な笑顔だったが、どこか空虚で、遠くを見ているようだった。

「……アステル様、あなたの心はここにないのね」

 と、ルビアナは心の中で呟いた。


 誓いの言葉が交わされ、拍手が響く中、ルビアナはアステルの手をそっと握った。

 だが、その手は冷たく、彼女の胸に鋭い痛みが走った。

(彼の心は、私のものではない)

 彼女は、ステラの存在を思い出した。

 あの影武者の少女が、アステルのそばで過ごした年月を。

 ルビアナの心は、嫉妬と理解の間で揺れた。

 彼女は高貴な生まれでありながら、愛の重さを初めて感じていた。


 式のクライマックス、指輪の交換が終わり、ルビアナはアステルに近づき、誰も聞こえぬよう囁いた。

「アステル様……本当に望む相手のもとへ行きなさい。あなたの心は、私が縛るべきものではないわ」

 アステルは一瞬、目を瞠った。

 ルビアナの瞳は、毅然としながらも優しさに満ちていた。

「ルビアナ、だが……」

 と彼が言いかけるのを、彼女は静かに遮った。

「行って。あなたの幸せが、私の願いです」


 アステルは、ルビアナの手を握り返し、深く頷いた。

 広間のざわめきの中、彼は静かに退場し、馬を駆る準備を命じた。

 ルビアナは彼の背を見送り、胸に残る痛みをそっと抱きしめた。

(私は彼を愛していた。でも、彼の心は別の誰かに……)

  彼女の頬に、一筋の涙が滑った。


 遠くの宿屋で、ステラは荷物をまとめ、旅の続きを決意していた。

 だが、彼女の心はまだアステルに縛られていた。

「もう、忘れなきゃ……」

 と呟きながら、彼女は宿の扉を開けた。

 その瞬間、馬蹄の音が響き、彼女の視界に飛び込んできたのは、息を切らし、汗に濡れたアステルだった。


 宿屋の軋む木の扉が開いた瞬間、ステラの心は凍りついた。

 埃っぽい街道に、馬を駆るアステルの姿があった。

 夕暮れの赤い光が彼の黄金の髪を染め、青い瞳はまるで嵐の海のように揺れていた。

 汗に濡れた額、乱れた呼吸――王子の威厳をかなぐり捨てたその姿は、ステラの知るアステルとはどこか異なり、なのに痛いほど彼らしかった。


「ステラ!」

 アステルの叫びが、宿屋の周囲に響いた。

 彼女は一歩後ずさり、荷物を抱えたまま立ち尽くした。

 心臓が激しく脈打ち、灰色の瞳が揺れる。

「……なんで……ここに?」

 声は震え、言葉にならなかった。

 彼女は旅を続け、アステルを忘れようと決めたはずだった。

 なのに、彼の存在は一瞬でその決意を砕いた。


 アステルは馬から飛び降り、ステラに駆け寄った。

 息を切らし、彼女の肩を強く掴む。

「お前を探した……どこに行ったって、俺の心はお前を追いかけてた」

 彼の声は熱を帯び、まるで抑えきれぬ想いが溢れ出すようだった。

「ステラ、俺が本当に愛しているのはお前だけだ」


 その言葉は、ステラの胸に鋭く突き刺さった。

 彼女は目を伏せ、唇を噛んだ。

 涙がこぼれ、頬を伝う。

「ずるいよ……アステル」

 声は掠れ、震えていた。

「やっと忘れられると思ったのに……やっと、諦められたと思ったのに……!」

 彼女は荷物を落とし、拳を握りしめた。

 4年間の影武者の日々、彼のそばで募った恋心、王宮を去った夜の痛み――すべてが一気に蘇り、ステラを飲み込んだ。


 アステルは一瞬も迷わず、ステラを引き寄せた。

 彼の腕は力強く、なのにどこか壊れ物を抱くように優しかった。

「俺も、ずるいかもしれない。だが、お前を失うことなんてできない」

 彼はステラの顎をそっと持ち上げ、涙に濡れた灰色の瞳を見つめた。

「ステラ、俺はお前を愛してる。ずっと、ただのお前だけを」


 その言葉に、ステラの心の堰が決壊した。

 彼女はアステルの胸に顔を埋め、嗚咽を漏らした。

「私……私も……アステル、ずっと大好きだった……!」

 言葉は途切れ、涙が彼の服を濡らした。

 アステルは彼女を強く抱きしめ、静かに髪を撫でた。

 そして、ゆっくりとステラの顔を上げ、彼女の唇に熱い口づけを贈った。


 そのキスは、まるで時間そのものを溶かすようだった。

 ステラの涙が止まり、彼女はアステルの首に腕を回し、彼の熱に応えた。

 二人の鼓動が重なり合い、宿屋の粗末な庭に、まるで世界に二人だけが存在するような静寂が広がった。

 夕陽が地平に沈み、彼らの影を長く伸ばした。


「ステラ、俺と一緒に帰ろう」

 アステルは囁き、彼女の手を握った。

「お前がそばにいれば、どんな未来も怖くない」

 ステラは涙を拭い、初めて心からの笑みを浮かべた。

「……うん、アステル。どこへだって、ついていくよ」

 二人は抱き合い、互いの愛を確かめ合った。

 その瞬間、ステラの心に宿っていた孤独は、温かな光に変わっていた。


 フラジール王宮の大広間は、未だ結婚式の余韻にざわめいていた。

 貴族たちの囁きと、盃の触れ合う音が響く中、扉が力強く開かれた。

 そこに現れたのは、アステルとステラだった。

 アステルの手はステラをしっかりと握り、その青い瞳は揺るぎない決意に満ちていた。

 ステラは、旅装の埃をまとったままだったが、灰色の瞳には新たに宿った光が輝いていた。

 貴族たちの視線が一斉に二人に注がれ、ざわめきが静寂に変わった。


 アステルはステラを伴い、広間の中央へ進んだ。

 彼の背は王子の威厳を取り戻し、しかしその瞳には愛する者を守る熱が宿っていた。

「皆に告げる」

 と、彼の声は力強く響いた。

「この者を、俺のそばに置く。彼女は俺の心を支え、俺の命を救った存在だ」


 ざわめきが再び広がった。

 貴族たちの視線は、驚きと好奇に満ちていた。

 ステラはアステルの手を握りしめ、胸の鼓動を抑えた。

 彼女は知っていた――自分は孤児であり、王子の正妃となる資格はない。

 それでも、アステルのそばにいられるなら、どんな形でも構わないと、心は静かに決まっていた。


 その時、ルビアナが静かに前に進み出た。

 深紅のドレスが燭台の光を浴び、彼女の気品は広間を圧倒した。

 貴族たちの囁きが止まり、彼女の声が澄んだ音色で響いた。

「私は、公爵家当主として宣言します。この娘、ステラを我が家の養女として迎えます。彼女はこれより、ルビアナ家の名の下、王家に仕える者となるでしょう」


 広間は一瞬、静まり返った。

 ステラは目を瞠り、ルビアナを見つめた。

 彼女の冷ややかな瞳は、かつての鋭さではなく、静かな優しさを湛えていた。

 ルビアナはステラに近づき、小さく微笑んだ。

「あなたは彼を幸せにする力を持っている。私にはそれがわかる」

 その言葉は、ステラの心に温かな波紋を広げた。

 彼女は涙を堪え、深く頭を下げた。

「……ありがとう、ルビアナ様」


 アステルはルビアナに視線を向け、感謝の意を込めて頷いた。

 ルビアナは静かに退き、広間の中心を二人に譲った。

 貴族たちの間から、祝福の拍手が湧き上がった。

 それは、伝統と格式に縛られた王宮では異例の瞬間だった。


 その夜、ステラはアステルの私室で彼と二人きりになった。

 月光が窓から差し込み、二人の影を柔らかく照らした。

 アステルはステラの手を取り、そっと額に口づけた。

「お前はもう、俺の影じゃない。俺の光だ」

 ステラの頬が熱くなり、彼女は彼の胸にそっと寄り添った。

「アステル……私、正式な妃じゃなくてもいい。あなたのそばにいられるなら、それで幸せだから」

 彼女の声は小さく、しかし確かな愛に満ちていた。


 アステルは彼女を抱きしめ、囁いた。

「お前は俺のすべてだ。どんな未来も、共に歩もう」

 二人の唇が重なり、月光の下で交わされた誓いは、どんな王家の掟よりも強い絆となった。


 ステラは、孤児から王家に仕える身となり、アステルの愛妾として彼の傍らに居続けた。

 たとえ正妃の座を得られなくとも、彼女の心にはアステルの愛が確かに宿っていた。

 そして、その愛は、フラジール王国の新たな伝説として、静かに刻まれていった。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

よろしければブックマーク登録、広告下の☆☆☆☆☆から評価をお願いします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ