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BLUE!【完結】

作者: 鶴機 亀輔

「別れてほしいんだ」


 瞬間、頭の中が真っ白になった。




 つきあって一年の彼がクリスマスや誕生日でもないのに高級レストランに誘ってくれた。


 昼食の時間、職場の同僚たちから「それってプロポーズじゃない?」と言われて「そんなんじゃないです」と否定しつつ、内心かなり期待していた。ルームメイトが作ってくれたお弁当を広げ、大好物の甘い玉子焼きを口にしている顔は、不自然にニヤけていたはず。


 今年で三十だ。


 高校や大学を卒業後に結婚した子もいれば、勤め始めてから数年で寿退社した子、結婚して赤ちゃんが生まれて転職したり、子持ちでも働ける環境だからそのまま勤めている子もいる。


 正社員に契約社員、派遣、アルバイトにパート。国家公務員や印刷会社の事務、保険会社の営業に銀行員の秘書、工場のエンジニアに保育士、小売店の店員に農家。みんな、それぞれ仕事をしている。


 おとなしい子がいれば、おしゃべりな子、明るい子、まじめな子、ボーイッシュな子、育ちのいいお嬢様な子――と個性的。


 アナログ好きなルームメイトはタブレットパソコンやスマートフォンでテレビ番組を見られる時代なのに、わざわざ家電量販店へ行って最新モデルの薄型テレビを購入した。本棚代わりにしているカラーボックスの上にテレビを置き、毎日ニュースをチェックしている。


「……少子高齢化まっしぐらですね」


「そうですね、これは非常にこれはまずい問題です」と大学を出たばかりの若い女性アナウンサーと、ゲスト出演している人気のお笑い芸人の話を聞くたびに、首をかしげずにはいられない。


 少なくとも私の知り合いや友人は全員結婚して、子どもがいる。


 グループLINEで「もうすぐ小学校を卒業するよ」と書かれているのを目にしたときは、白目を剥いた。


 とうとう、おひとりさまは私と高校・大学と一緒だったルームメイトだけになってしまった。


 だから、テレビや雑誌にとりあげられている有名三ッ星レストランのフレンチディナーに誘われたときは、天にも昇るような気持ちになったのだ。


 彼のご両親とは顔を合わせたことがあるし、うちの親に彼を紹介した。デート中は真剣な顔をして、不動産屋の窓に貼り出されているアパート・マンションの賃貸物件の情報に目を凝らしていた。長野の軽井沢へ旅行しに行ったときは、教会でちょうど式を挙げているカップルを眺めながら「結婚か」とつぶやいている姿を目にしたのだ。


 極めつけはアクセサリーショップで、しきりに指輪を見つめていたこと。


 これだけの状況証拠があってプロポーズを期待するなというほうが、おかしいだろう。




 アミューズの生ハムとメロンのクロスティーには意外な組み合わせだけど絶品の味。


 前菜のサラダは野菜を好きになる魔法がかかっていると錯覚するくらいにドレッシングの甘さと葉物野菜の苦味が調和していた。


 じゃがいものポタージュはひんやりして、舌触りは滑らか。まろやかな味わい。


 白身魚のポワレは身がホクホクして、ルームメイトの(なぎさ)にも作ってもらえないかな!? なんて思うくらいにやみつきになった。


 カシスのシャーベットは鮮やかな赤紫色。レモンみたいに酸っぱいを予想していたけど爽やかな甘みが口の中へ広がっていく。


 大好きなステーキはトリュフソースがけ。お肉がやわらかくて()めば噛むほど、肉のうまみが口の中に広がって、うっとりした。


 ラストは旬のいちごで作ったムースケーキ。ふんわりとした雪のようなムースが、しゅわっと口の中で溶けていく。いちごの甘酸っぱさがアクセントになっているのが堪らない。


 オシャレなジャズピアノをBGMに、ゆらゆとらグラスの中で揺れるろうそくの火と大好きな人の顔を見つめて、食事をする。


 ここは天国なのかもしれない。そう思っていれば彼と目が合い、私は微笑んだ。


 グレーのスーツのポケットから小さな四角い箱を取り出し、「僕と結婚してください」と言ってくれる。キラキラと光る小さな美しい石がついた指輪を左手の薬指につけてくれる。その瞬間を頭の中で描きながら胸をときめかせた。


 しかし現実は、いつだって残酷だ。





 透き通ったオレンジ色の紅茶が入ったカップを思わず落としそうになる。慌てて左手をカップの底にあて、床に落とすのを回避し、清潔感のある白のテーブルクロスの上にあるソーサーへとカップを戻した。


「ちょっと待って。どういうこと? 何かのジョーク……?」


 彼は「そうじゃないんだ」と苦しみ(もだ)えるような表情をしながら目線を下へやった。


「きみに言ってなかったことがある」


「なんのこと?」


「じつは僕――」




「このクソ野郎のスットコドッコイ! 豆腐の角に頭をぶつけて死んじまえー!」


 自分の出した声に驚き、顔を上げる。


 アルミ製のビールの空き缶が手の中でべコリと潰れていた。


「いった!」


 ガンガンと脳みその内側からトンカチで(たた)かれているような激痛がする。頭を手で押さえながら、ゆっくりとあたりを見回した。


 開け放たれた扉の向こうにはIHコンロがついた、ひとり用キッチンがある。


 横の壁は汚れの目立ちにくいアイボリーカラー。乱雑に本や雑誌、漫画が入った白いカラーボックスが壁際に置かれている。


 ドールハウスの家具をそのまま大きくしたような食器棚と透明なガラスの向こうに見えるお皿やカップたち。


 手元の白いこたつ用テーブルの上には、ミニサイズのビールの空き缶が、まるでボウリングのピンように並んでいる。


 後ろにはコートや上着、ポーチやバック、メイク用品やメイクボックスが雑然と置かれた寝室。衣装ダンスは私の母が嫁入り道具として祖母から譲り受けたもので(きり)製だ。


 大きなクローゼットは(かん)(ろく)があり、部屋の中で存在感を放っている。


 出不精な渚は「いちいち階段上るのなんて、かったりぃな。すみません、エレベーターのついたべつの物件ありませんか?」と物件案内のお姉さんに話を振った。


 駄々をこねる子どもみたいになった私は「絶対にここがいい!」と主張し続け、渚が折れる形で、ここに住むことが決まったのだ。


 白地に着緑色の水玉模様が書かれたカーテンの隙間から日の光が差し込む。真夏の太陽でもないのに異様に、まぶしい。


 風邪を引き、高熱を出したたときのようなひどい(けん)(たい)感と筋肉痛も加わり、再度ひんやりと冷たい机の上に突っ伏した。


「気持ち悪い。吐いちゃう……」


「当たり前だろ。缶ビールを何本飲んだと思ってる?」


 少し目線を上にやれば、肩にバスタオルをかけ、ベリーショートの黒髪を乾かしながらウォーターサーバーの水をカップに入れて飲んでいる渚がいた。 


「服、着ないの? 風邪、引いちゃうよ」


 彼女は夏場でもないのに黒いキャミソールに水色のショーツの姿で、あたりをうろついている。


「ジョギングしてきたから、あっちーんだよ」


「ねえ、それよりもうお酒はないの? みりんや料理酒はある?」


 渚が眉を寄せた。


「まだ飲むつもりかよ」


「この家のアルコールを全部飲んでやるわ。気持ち悪くなってトイレでゲーゲー吐いて、胃液しか出ない状態になるまで飲みたい気分なのよ」


 おもしろいことなんて何もないのに笑ってしまった。


 体も、頭も、心も痛くて最低最悪な気分。


 胸が潰れて息もできないくらいに苦しい。それなのに涙が出ないのは、どうして?


「信じられる? 彼、来週の日曜日にはアメリカで、お金持ちのセレブの子と結婚するの」


「知ってるよ。昨日の夜、何十回、何百回って聞いた」


 ことっと音がする。白湯の入った青いマグカップが右手の近くに置かれる。


 渚は半袖の黒いシャツに、迷彩柄のパンツを履いた。バスタオルをハンガーにかけ、キッチンへまっすぐ向かう。


「そっか、そうだよね」


 私はマグカップを手にして白湯を口に含んだ。カップの中のぬるま湯をのぞき込む。落としものでも探すみたいに目を凝らすけど透明な液体が入っているだけで何も見つからない。


「彼いわく、入試の本命と滑り止めみたいなものだって。体験入学して、どれがいいか決めて本命を落ちたときのために予備を準備しておく。滑り止めは私を含めて五校もあったみたい」


「五()だろ。おまえらは無機物じゃなくて有機物だ。いろんな女を味見して浮気するための言い訳だろ」


「あーあ、私が本命だと思ってたのになー」


 あの人がほかの女と会っていたのは、なんとなくわかっていた。


 彼に一番かわいくて、きれいな子と思ってもらうために体型を維持して、メイクはいつもバッチリ。趣味じゃない女らしくフェミニンなスカートやワンピを着て笑顔でいる。余計なことは言わないし、彼のことを第一に優先した。


 そうして都合のいい女にされたのだ。


 鏡のような水面にはボサボサになってモズの巣みたいな茶色い髪をした女がいる。


 ファンデーションも、コンシーラーも涙で落ちてニキビやシミ、そばかすにクマが見えている。ピンクのチークとリップもとっくの昔にとれて、唇や頬の血色が悪い。マスカラが涙袋のところにベッタリつき、両目がお岩さんみたいに腫れている。


 まるでお化けだ。


 桜色のネイルはメッキが剥がれたみたいにボロボロで見れたものじゃない。


「なんでいつもこうなるんだろ。いい人は、みんな結婚しちゃったの?」


「単純に男を見る目がないだけだろ。ダメンズばっか選んでるからな」


 ふわ、とかつお節の食欲をそそる香りがキッチンのほうからする。何を作ってるんだろう?


「いっそ野郎に泣かされた女を全員集めて、その男を制裁するのはどうだ? そいつの両親、親戚の前で浮気野郎だったことを告発するんだよ」


 元気づけてくれてるのは、うれしい。でも渚の無神経さと恋をしている最中の自分の知能低下っぷりが憎らしくなる。


「できるわけないでしょ。ほかの女の人は私が本命だと思ってるんだから」


「ずいぶん電話やSNSで(あお)り合ってたもんな。キャットファイト不可避だわ。加勢しようか?」


 お玉をお鍋に入れ、シャドーイングをしている彼女にあきれてしまった。


 ボクシングのインストラクターをやってる渚が女の人を殴ったりしたら警察沙汰になるってわかってるのに、そういうジョークを言ってくる。


「いいよ、もう……私が全部、悪いんです」


 タオルを手にし、シャワーを浴びに行く。




 彼に別れ話を切り出された帰り道、絶望して駅の階段を下りていたら転げ落ちた。おろしたてのヒールは折れたけど、足は(ねん)()で済んだ。


 その代わりにタトゥーのようなアザが両足と両腕にでき、両膝と両肘から血を大量に流し、服は血だらけ。毎夜がんばってマッサージやストレッチをしてカモシカのような足を維持していたのに一晩で象の足となった。


 漫画家の友だちが彼の電撃結婚もとい浮気をネタにしたいと言い出し、食事に誘われた。牛丼チェーン店へ行くと食べ終わったキムチ鍋を返そうとしていた人とぶつかり、お気に入りのブラウスをダメにする。


 おちゃらけた先輩が間違えた資料を直したり、サボっていた電話対応や書類の作成をするために残業。お客様から厳しい言葉をいただいて耳も、胃も痛んだ。パソコン画面を(にら)み続けたせいで目も、腰も痛い。


 気の弱い後輩がクレーム対応をしていて助け舟を出したら、ご老人のお客様から「すっこんでろ、おばさん! 公務員のくせして化粧が濃すぎるんだよ!」と難癖をつけられた。営業スマイルが崩れそうになるし、挙げ句の果てに普段なら絶対にしないミスをしてしまったのだ。苦手な上司に呼ばれ、アルバイトやパートをしている学生たちがいる眼の前で、ネチネチと嫌味を言われた。




 髪をドライヤーで乾かし終え、ドアを開ける。


「おかえり、(もえ)。朝飯、できてるよ」


 テーブルには()()で味つけしたおじやが入ったご飯(ぢゃ)(わん)とレンゲが置かれていた。


「猫まんまのおじや。シジミ入ってるから二日酔いにきくよ」


「食欲ないんだけど」


「んなこといってねえで食えよ。食ってるうちに腹も減って、平らげちまうって!」


 それって何か矛盾してない? と思いながら床に正座をして挨拶をする。


 ネギとダシの香りが食欲をそそり、味噌が体の内側からじんわりと温めてくれる。


「おいしい……」


「だろ!? リッチなフレンチのフルコースもいいけど、こういう素朴な飯だって悪かねえだろ?」


「何よ、渚のお弁当はいつもインスタ映えとは、ほど遠いじゃない」


「へーへー、悪うございました」と渚が唇を(とが)らせた。


「でもね、渚のお弁当を食べると、ひとりじゃないって勇気づけられるの。元気を充電してくれる。あなたの作るご飯、大好きだわ」


 急に涙腺が壊れたみたいに涙がボロボロこぼれて止まらない。


 目を擦っていると渚がティッシュを渡してくれる。


「こんなに天気がいいんだ。食い終わったら、ちょっと出かけねえ?」


「……どこに?」


「海行こうぜ、海!」




   *




「結構、人いんじゃん!?」


 車のドアを閉めた渚が鍵をかける。


 駐車場を歩き、日の光を受けてキラキラと水面が光る海を目にする。さざ波が寄せては引いてを繰り返していた。


 大学や高校を卒業し、春休みで遊びに来た人たちが、ちらほらいる。


「春先でも海を見る人っているのね」


「夏しか来ないから、めちゃくちゃ意外だわ。潮の匂いがして、いい感じ」


 どこか懐かしさを感じる(いそ)の香り。少しだけ湿っぽい、やわらかな風が頬や髪を()でた。


 フレアのスカートやワンピじゃなくてよかったと思う。白のパーカーに紺のジーンズというラフな格好できたのは正解だ。髪もまとめ髪にしてあるから顔の前で旗のようにはためかない。視界は良好。


「さすがに海中浴やってる人はいないね。でもサーフィンをやってる人はいそうだ。ヨットも出てるな」


 渚は、久しぶりに散歩に出た犬や、ずっと楽しみにしていた遊園地に遊びに来た子どもみたいにはしゃいだ。


「渚、いい歳して子どもっぽいよ」


「たまには童心に返ったっていいだろ。まじめに仕事こなしてんだから」


「もう! 大人としての威厳が足りないわ」


「なんだよ、萌。そんなものは車の中にでも置いてこいよ。この美しい光景を心から楽しもうぜ。じゃなきゃ損だ!」


 確かに彼女の言う通りだと思う。


 地平線のかなたまで続く真っ青な海。


 ざざん、ざざんという音が心を落ち着かせてくれる。


 それでも胸の中にポッカリ空いた穴は埋まらない。


「ねえ、渚。どうして、あなたは恋人を作ったりしないの?」


 ふと長年思っていた疑問を口にしてしまい、慌てて口元を手で押さえる。いくらルームメイトだからって土足で踏み込んではいけない境界線があるのに……。


「モテナイ女だからだよ」


 カラッとした夏空のように彼女は、あっけらかんとして答えた。


「わたしはガキの頃から『ブス』って呼ばれる人生を送ってきたわけ。大人になっても『女のくせに生意気だ』『かわいげのない女』って言われてる。だから結婚願望はゼロ。男なんて、こっちから願い下げってわけ」


「そう、なんだ」


 どこか気まずさを覚えながら目線をそらす。


「最近はアメーバや単細胞生物みたいな体をしてたら、よかったのにって思う」


 コンクリートでできた階段を下りながら渚は、なんてことのないように言った。


「単一生殖で子どもを生める。異性なしで自分の分身を生めて、大人だから面倒を見る必要もない。独身イコールかわいそうって思われることは痛くも(かゆ)くもないが『子宮があるんだからガキのひとりや、ふたりは生め』って無意識の圧力や風当たりは、年々強くなる一方だ。


 選択的シングルマザーとして精子ドナーの精子を使って人工授精もできるが、赤ん坊を授かったところで、金銭的にも、精神的にも育てる余裕なんかない。そもそも母性愛がからっきしで金もなければ、自分を愛することだってうまくできない。そんな女のところに生まれる子どもは不幸だろ」


 私は彼女に、なんて言葉を掛けていいのかわからず口を閉ざした。そしたら――「なあ、わたしも訊いていいか?」


「何?」


「なんで、あんたは、いつも恋人や結婚相手を求めてるわけ?」


「答えたくないわ」と返事をすることもできた。でも、それってフェアじゃない。


 私は、かかとを踏み潰してある水色のスニーカーで黄土色をした砂浜の砂を踏みしめ、彼女の質問に答えた。


「ひとりになりたくないからよ」


 すると渚は「なんじゃ、そりゃ」と書かれた顔で、私のことを凝視した。


「『男がいないと生きていけない』わけじゃないわ。むしろ、その逆。『女友だちがいないと生きていけない』から男の人を求めるの」


「さっぱり訳がわかんねえな。どういう意味?」


「結婚に妊娠・出産。義理の両親と親戚づきあい。幼稚園や保育園、小学校の先生やPTA。そういうものに母が振り回されて大変な思いをしていたのは覚えているわ。でも私は、それを実際に体験したことは一度だってない」


「そりゃそうだな」


「だから見えない壁を感じるの。透明でぶよぶよして、彼女たちと私の間を隔てるスライムみたいな膜をね」


 私は子どもたちや若者が海ではしゃぎ、スマホを手にしてこの瞬間を逃さないようにカメラで撮っている姿を眺め、スプリングコートポケットの中に手を突っ込んだ。


「みんなと話を合わせて、彼女たちの気持ちを想像して受け答えはできるわ。でも真の意味では、もうわかり合えない。そんな気がしてならないの。同じ学校にいて、あれだけ苦楽をともにしたはずなのに、みんなどこかの男の妻や女であり、自分の遺伝子を受け継いだ子どもの母になる。そうして『独り身の女には、この苦労はわからないだろう』って暗黙の了解のもとで距離をとられるの。仲よくしていたあの時間が、すべて(うそ)だったみたいに」


「誰もが羨むイケメンで高収入な男に愛されて幸せな女になりたい」とか、「かわいい赤ちゃんや子どもの母親になりたい」なんて願望は私にはない。


 ただ彼女たちに取り残されたくないのだ。みんなに置いてけぼりにされるのが怖いだけ。


「ふざけんな、だったら恋人を作らないわたしといるのは、おかしいだろ。バカにしてんのか!」と渚に怒られてもしょうがないことを言っている自覚はある。


 別れたあの人が最低なのは確かだ。かといって私は偉そうに人にものを言えるような立場じゃない。


「なあ、もしさ、このまま結婚相手が見つからなかったら、そんときは――わたしと結婚しねえ」


「はあ?」と思わず私は叫んだ。「渚、レズビアンだったの!?」


 すると海辺にいたほかの人たちの視線が刺さる。


「何、プロポーズ?」「やべえ、動画撮る?」なんて声がして顔が熱くなる。


 でも渚は、そんなのぜんぜんへっちゃらって顔で話し続ける。


「ちげえよ、バカ。そうだったら今頃、あんたを口説いて、男を忘れさせてやったよ」と彼女は砂を蹴りあげた。


「だったら今のは、どういう意味?」


「お互いに歳をとれば親や親戚は死ぬし、病気や怪我のリスクは増えていく。だから六十五歳になっても、萌に相手がいなかったときは結婚して家族にならないかって話。もちろん恋愛感情抜きの友だち婚」と彼女は白い歯を見せて春の暖かな日差しの下で笑った。「それにね、わたしは、あんたのことが友だちとして好きなんだよ。毎日弁当や飯を作らされて、失恋するたびにヤケ酒するあんたの愚痴を聞くのも苦じゃない。一寸先は闇なんて言葉もあるけどさ、十年、二十年、それ以上経っても、あんた以上の友だちは得られないって思うわけ」


 胸に空いた穴を今すぐ埋めことはできない。でも渚の言葉は胸の奥まで、じんわりとしみた。


「いいわね、それ。最高よ、すごく気に入ったわ」と私は目ににじんだ涙を指先で拭い去る。「ただし、ひとつだけ訂正させて。七十のおばあちゃんになっても相手がいなかったときに結婚しましょうよ」


「なんだよ、粘るじゃないか」


「当然よ、転んでもただでは起きないわ。それに老いらくの恋だってあるんだもの」


 そうして私たちは子どもに戻ったみたいに海に向かって叫んだり、冷たい水を互いにかけ合い、砂浜を走った。それこそ、お腹が空いてクタクタになるまで遊び続けたのだ。


 十年後、二十年後もともにいられることを願いながら。

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