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春チャレンジ2025「学校」

ピアノの先生

作者: 六福亭

 十月になると、市内の小学校の合同音楽会が開催される。出演するのは四年生だ。披露する音楽の種類に決まりは特になく、地域の伝統芸能である和太鼓を披露する学校もあれば、金管バンドで出演する学校、リコーダーやピアニカ、アコーディオンなどの合奏をする学校もあった。


 みどりの通う天神杜てんじんのもり小学校は、毎年合唱で参加することになっていた。歌う曲が発表されるのは六月で、七月から練習を始めていた。


 今は夏休みが終わり、九月に入ったばかり。一ヶ月以上練習しているおかげで、生徒たちの歌は上手くなってきた。だが、翠には大きな悩みがあった。


 それは、誰がピアノ伴奏者に選ばれるのかということである。


 今年の四年生の中で、ピアノを習っている生徒は十人もいる。市内のコンクールで入賞した子も、よちよち歩きの頃から習っている子もいる。皆、伴奏者に選ばれたくて、日々ピアノの練習を頑張っている。


 翠も、何としても伴奏者になりたいと思っていた。


 普段の翠は引っ込み思案で、教室の中にいても、注目を浴びたり、たくさんの友達に囲まれたりすることがない。いじめられることはないが、ほめられることもない。時々それを、たまらなく寂しく感じることがある。


 学校では、とびきり可愛かったり、誰とでも仲良く話せる社交性があったり、テストの点数がよかったり、足が速かったり__そういった「強み」が、人気者になるために必要なのだ。だが、自分には何もない。翠はいつもそう思っていた。


 ピアノは、そんな翠にとって、唯一の「強み」になりえそうなものだった。ピアノ教室の先生や、両親はいつも翠のピアノをほめてくれた。だから、ピアノを弾くのは好きだ。いつか何者かにならなければならないという翠の焦りを、すうっと沈めてくれるのがピアノだった。


 合唱の曲が決まり、ピアノを習っている生徒たちに伴奏の楽譜が配られてから、翠は毎日その曲を練習している。伴奏者が本当に決まるのは、九月半ば。もうあまり時間がない。これまで、合唱の練習時には、交代で伴奏をした。ピアノを弾ける子が多いためか、翠はまだ一度しか皆の前で披露したことがない。「上手いね」と同級生からほめられるのは、コンクールに入賞した子か、クラスの人気者の子だった。


 その日、帰りの会が終わった後、翠は音楽室に向かった。鍵は開いている。音楽の先生が、伴奏の練習をする生徒のために開けておいてくれたのだ。先客がいない時、翠はいつも音楽室でピアノの練習をしていた。


 グランドピアノの蓋を開け、楽譜を開いた時。翠はふと顔を上げて、上の方の壁に飾られている音楽家の肖像画を見た。


 バッハ、モーツァルト、ベートーベン、シューベルト、滝廉太郎、宮城道雄……授業のたびに目にする、見慣れた作曲家の顔だ。


 ところが、その作曲家たちの並びの隅っこに、知らない人の絵があることに気がついた。


 優しそうな初老の男の人の肖像画だ。長く黒い眉の下、たれた目がこちらを眺めていた。ひげはなく、笑みを浮かべた口元にしわができていた。


 翠はちょっとの間、首を傾げてその男の人の顔を見つめた。けれど今は一人だから、その人の名前についてあれこれ話し合ったり、答えを教えてもらったりすることはできない。やがて楽譜に目を戻し、鍵盤に指をかけた。


 翌日の放課後も、翠は音楽室に向かう。顔を上げて、あれっと思った。昨日の人の絵がなくなっている。先生が外してしまったのだろうか。


 日が傾いて少し薄暗い音楽室で、翠はいつも通りピアノの蓋を開けた。上手く弾けない箇所がいくつかあって、早く克服してしまいたいのだ。


 ところがその日は調子が出ない日だったのか、指がいつもより滑らかに動かない。思う通りの音が出ず苛立つのだが、焦れば焦るほど指に力が入ってしまい、失敗ばかりした。

 

 とうとう翠は弾くのをやめて、椅子の上でうなだれた。長い溜息が出る。今日はどうしてしまったんだろう。


 音楽室の入り口で、低く穏やかな声がした。

「頑張っているね」

 翠ははっとして声のした方向を見た。先生が、見に来たかと思ったのだ。けれどもそこにいたのは、学校のどの先生でもなかった。たれ目と笑顔に見覚えがある。


 そこに立っている男の人は、昨日見た肖像画と瓜二つだった。


 彼は音楽室に入ってきて、ピアノの側に立った。そして、翠に優しく言った。

「もう一度、弾いてごらん」

 翠はぽかんとしていたが、その言葉で慌てて鍵盤に向き直った。合唱曲の最初から最後まで弾いてみせたが、何度かいつもと同じ箇所でミスをしてしまった。


 弾き終えてから、沈んだ気持ちで男の人を見上げると、彼は微笑んだ。

「とても良い演奏だ。相当頑張ってきたんだね」

 翠は首を振った。

「全然だめなんです。たくさん間違えちゃったし、ちっとも上手じゃない」

「十分上手だと思うけれど」

 そう言われても、翠は頑固に首を振り続けた。

「もっと上手く弾けないと、伴奏になれないから、もっと頑張らないとだめなんです。もっと……」

 すると、今度は彼が首を振った。

「今の気持ちのまま弾いてはだめだ。気持ちばかりが先走って、ピアノを置いてけぼりにしている。戻ってきてあげないと」

 男の人は、立ちなさいと翠に言った。翠は従った。

「深呼吸して」

 翠と男の人は両腕を広げ、深呼吸をした。

「今までに行ったことがない場所で、どこに一番行ってみたい?」

 唐突にそう聞かれ、翠は返事に詰まった。しかし男の人はのんびりと待っている。だから、しばらく考えた末に、こう答えた。

「北海道の、熊とか狐とかいっぱいいるところ」

 科学雑誌で写真を見て、好きになったのだ。それを聞いて男の人は大きくうなずいた。

「いいね。では、正にそこにいると思って弾いてごらん。楽しくなるよ」

「でも、ピアノなんか弾いてたら、熊に食べられちゃうと思います」

「大丈夫だ。動物も、音楽が好きなんだよ。君は今、北海道の大きな川のほとりで、ピアノを弾こうとしている。熊やきつねやりすは、君が何をするつもりなのだろうと、遠くから様子を窺っている。川の中の鮭も、ぴょんぴょんと飛び出して、君の音楽を聴いている……」

 翠はくすくす笑った。

「さあ、弾いてごらん」

 翠は目を閉じた。どこまでも広がる緑深い山の中に、鮭が登ってくる川があり、動物たちもたくさん集まっているところを思い浮かべた。自分も、そこにいる。グランドピアノと、男の人と一緒に。

 

 不思議と楽しくなって、翠は明るい気持ちで鍵盤を叩いた。


 弾き終えた時、男の人が大きく拍手をしてくれた。

「素晴らしい出来だった」

 翠は何度もうなずいた。今までで、一番上手に弾けた気がした。それに、ミスもしなかった。

「明日も、同じように練習してごらん。今日はもう遅いから、早く帰った方がいいね」

 そう言って音楽室から出て行こうとする男の人に、翠は呼びかけた。

「明日もまた教えて、先生!」


 翌日も、その翌日も、翠は彼と練習をした。ある時は南極でペンギンに囲まれて、またある時は大きな遊園地の中でピアノを弾いた。次々と、ピアノを弾く場所を考えるのも楽しみの一つだった。


 そして日が経ち、ついに伴奏者の発表の日がやってきた。音楽の先生は__翠を指名した。何人かの同級生が翠を遠くから睨んでいたが、コンクールに入賞した子は納得したようにうなずいていた。


 放課後、いつものように彼がやってくると、翠は真っ先にそのことを報告した。

「よかったね」

 彼も嬉しそうにうなずいてくれた。

「先生も、音楽会に見に来てくれますか?」

 彼は首を振る。

「残念ながら、その日はどうしてもいけなくてね。でも、君が楽しく弾けることを何よりも祈っているよ」

「そうなの……」

 翠はがっかりした。だが、すぐに気を取り直し、彼に言った。

「じゃあ、今日は先生のために演奏します!」


 今日翠がピアノを弾く舞台は、世界一広いコンサートホール。パイプオルガンもあって、客席がぐるりと舞台を取り囲んでいて。その真ん中で、翠はたった一人の観客のために、お辞儀をした。彼は、にこにこと翠を見守っている。


 グランドピアノに向き合い、鍵盤を軽やかに鳴らす。行ったことのない場所を、ピアノと一緒に歩いた。決して先に進んだり、遅れたりはしない。難しい箇所を弾きこなすたびに、誇らしさで胸が膨らんだ。


 最後の一音が空気に溶けて消えていった後、拍手の音が聞こえた。振り向くと、そこにいたのは音楽の先生だった。

「とても上手になったわね」

 先生はほめてくれたけど、翠は落ち着かない気持ちだった。あの男の人がいない。さっきまで、彼の優しい視線を確かに感じながら演奏していたのに。


 ふと視線を上げると、肖像画の列に、彼の絵が並んでいた。

「あの人……」

「え?」

 翠が指差した肖像画を見て、音楽の先生はああとうなずいた。

「見たことない人でしょう。あれはね、何十年も前の生徒が、卒業する時に残していった絵なのよ。名前は知らないけれど、その生徒に絵の助言をしてくれた人で、その人のおかげで絵を描くのが大好きになったんですって」

 今ではその生徒は、有名な画家になったそうよ。先生はそう翠に言った。

「さあ、暗くなってきたから、もうお帰りなさい」

 翠はうなずいた。音楽室を出る前に、もう一度彼の肖像画を見つめた。

「ありがとう、先生」

 絵の中で彼が笑みを深めたような気がした。


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