序章
中野色葉は僕の腕の中で命を枯らした。心残りが一つある。彼女の最後に遺した一言がわからない。誰に何と言ったのだろうか。余命幾許もなかった彼女から目を離してしまった。君の言葉が僕には必要なんだ。
春が過ぎ去り、夏が訪れようとしていた。早朝、登校中のことだ。制服を身にまとう僕の前で、ポケットから何かを落とすスーツを着こなす女性がいた。億劫だと思った。自分で気づいてくれとも思った。
しかし女性は気づかず過ぎ去ってしまった。僕も落し物を尻目に通り過ぎてしまう。その時だった。後方から走り出した女子高生が僕を追い越した。落し物を、スーツの女性に届け、一礼されてる様子だ。僕は後ろめたい気持ちこそあれど、安堵した。
ただ今度の女子高生の行動には驚いた。学校とは正反対である僕の方向を凝視し、一直線に歩いてきた。血の気が引いた。僕を叱るつもりだろうか。正義感が強そうに見える。
彼女は僕の正面に立つや、こう言った。
「落し物……」
やっぱり咎められるのか。そう思ったが少し様子が違う。彼女は僕に手を差し出していた。その手には、青いハンカチがあった。僕のと同じものだ。
「落としたよ。これ君の?」
彼女は優しい声で言った。お尻のポケットに手を当てると、ハンカチがなくなっていた。その市松模様のハンカチは、僕のだった。
「ごめん」と言って受け取った。
「君のだったんだね」
彼女はなぜか難題を解いたような晴れた顔をした。
ハンカチを拾われたことで僕は、惨めな気分になった。僕は人の難を、見て見ぬ振りしたのにも関わらず、僕は情けをかけられた。
いっその事、このハンカチを捨てて行きたいくらいだ。
「ねぇ君、一緒に学校行かない? おんなじクラスだし」
僕とほとんど話したことがないのに、彼女の言葉は不自然に思えた。一つ理解できる理由を考えるならば、彼女は学校一の八方美人であることくらいだろうか。それでも腑に落ちない点はあるが。
「君はさ、最近学校休みがちだよね。妙に静かになったし、声も低くなった」
僕は話をヅラした。その隙に前を歩き出す。嫌いなわけではない。僕なんかが君と歩くと目の敵にされそうなのだ。
彼女は同じクラスの中野色葉。オン眉ポニーテールという美形しか許されない髪型をしており、注意されない程度に茶髪に染めている。
学校に着き、教室に入る。数秒立つと「おはよう」という言葉で溢れた。ただし、僕に向けられた言葉ではない。後ろを歩く中野色葉に向けてみんなが挨拶したのだ。
彼女は「おはよう」と言うでもなく、コクリと頷く程度だった。やはりここ数ヶ月はやけに大人しい。以前までは、学校中に響き渡るほど、溌剌とした声をあげていた。
なにか秘密でも抱えているように見える。
八方美人という彼女のイメージも崩れつつあった。僕に対するイメージは無愛想な奴と揺るぎないであろう。
こうして変わらぬ一日が始まるはずであった。ただ、昼休みのこと。
彼女は早退するらしい。なので、彼女のカバンを、保健室まで届けてくれる人を、担任が探していた。日直であった僕に白羽の矢が立つ。面倒ではあったが、彼女には恩もあるし当然の報いだと思った。
机に下げてある紺色のリュックを指で掴み、重い足をあげる。
年頃の女の子のリュックを持つことに罪悪感のようなものを覚えた。男子が気軽に触って良いものではないと、考えていたからだ。
保健室の入り口、一歩手前のところで
「私、修学旅行まで命持つかな?」
そう聞こえた。聞いてはいけないことを聞いた気がして、中に入ることを躊躇した。
しかし、僕は歩みを止められず、慣性のごとく保健室に突っ込んでしまう。
保健室の先生である星野先生と、中野色葉の視線が、僕を捉え空気が凍った。
僕は視線に慄き、固まる。
「カバン、持ってきてくれたんだ。ありがとう。佐藤優希」
彼女は以前のような明るい声で、僕の名前を呼んだ。笑顔のオリンピックがあれば優勝できるくらい、彼女は笑みを零す天才だと、改めて思わせられた。
「ここに置いとくよ」
側の椅子にリュックを置く。用が終わったので、そそくさと帰ろうと思った。
「優希、お菓子食べていく?」
保健室に置いてあったお菓子を、頬に寄せて見せびらかす。彼女の距離の詰め方は、やはりあざといと思った。
「遠慮しとく」
彼女の行いに対し、星野先生が「これは生徒用ではない」と咎めている間に、僕は保健室を出た。
「あーー、まって!」
彼女の声は廊下にまで響いていた。
誰を呼んでいるのだろうか。状況から察すると、僕のことを呼んでる可能性は高い。迷ったが、確証がない上に聞こえなかった路線でも誤魔化せるかもと思ってしまい、素通りしてしまった。
いい気はしないまま教室で、母が作ってくれた弁当を開いた。まだ心に突っかかりがあると思い、反芻すると異物を発見した。
彼女の言葉。確か「修学旅行まで命持つかな」って言ってた。
彼女は難病でも患っているのだろうか。確かに彼女の最近の様子と照らし合わせても、合点がいく。
まあ僕には関係ない上に、確証もないので聞かなかったことにしよう。
学校が終わり、家に着くなり母にこう言われた。
「あんたいつまでダラダラ過ごすの? 部活もしない。バイトもしない」
耳の痛い話を半分に聞いて、僕は冷えたお水を一口飲む。
「明日から弁当作らないから。働かないもの食うべからずだよ。わかった?」
我慢の限界と言った顔で僕を問い詰めた。
僕は「はいはい」と吐き捨てるように言った。母にも敵対心を覚えた。
とはいえ、自分でもこのままではいけないという気持ちはあったので、この機会に尻でも叩いてバイトでも始めようかと覚悟した。
翌日。空はあいにくの灰色だった。
たしかここらで彼女に声かけられたっけな、と思いながら変わらず同じ道から登校していた。
この道を通って悪寒が走ったのは、昨日だけでは済まなかった。
「おはよう」
昨日に引き続き、中野色葉が囁くような声を発し、現れた。
さすがに僕の目を見て言ってきたので「おはよう」と返すしかない。
「あ、何で昨日シカトしたの?」
頬を膨らませて僕に迫る。
距離を置きたかったからとも言えないし、「シカトした覚えはないよ」
「私のこと、嫌なわけじゃない?」
嫌といえば嫌かもしれない。面倒ごとは嫌いだし。でも「うん」と言ってしまった。
おそらく、この言葉がきっかけで彼女は僕に遠慮しなくなったし、僕も彼女に文句が言えなくなった。
「そっか。よかった」
それから彼女は、道行く僕の斜め後方を捉えて離さなかった。と思う。思うというのは気配だけで、目で確かめた訳じゃないから予想でしかない。その間ずっと僕の心は張り詰めていた。
教室に着いても、今日は「おはよう」というクラスの声は聞こえなかった。後ろに中野色葉がいなかったからだ。
いつの間にか背後から消えていたらしい。それか、はなから僕の勘違いか。目立つのは嫌いだし、まあ、どっちにしろよかった。
僕の学校には問題があった。素行が悪い人が多いのだ。トイレにはタバコの吸殻が落ちていたり、雨の日に泥のままで学校に入ったり、トイレットペーパーなどの備品も大事に扱われない。物が破損してることはよくある。とはいえ、僕には解決できない問題なので、息を潜めるようにうまく付き合うしかない。
中野色葉は授業中、影も見せずにそのまま昼休みになった。僕は売店の弁当と牛乳で、食を済ませたあと、図書室に向かった。
木材の匂いに包まれた静観な空間は、僕に心地よい集中を与えさせてくれる。
この頃、ビジネス書にハマっている。普段目にしている商売は氷山の一角であり、水中には数多くの工夫がなされている。その裏側を知ることが楽しかったりする。
適当に本を選び、テーブルの端につく。ヒラヒラとページをめくっていった。
時も忘れるほど集中してきた矢先、隣に誰かが座った。このテーブルには六つも席があるのだ。一つ席を開けて座ればいいのに。目だけを横に向けると、紺色のスカートと白い太ももだけが見えた。女の子ならなおさら一つ空ければ良いのに。
首を動かさないと顔までは拝めなかったので、そのまま本を読み続けた。
すると、隣の女の子は何も言わずに、僕の手首にさらさらとした手を置いた。
手首には血管が集まっており、感度が高く、人間の弱点部位でもある。そこを押さえられた僕は、体が必要以上に反応した。
いよいよ無視できず、内心驚きながら、顔を上げた。
中野色葉だった。ぱっちりとした二重から現る大きな瞳を、こちらに向けている。
「ちょっと話していい?」
彼女が何を考えているのか、まるでわからない。断ることもできたが、人が傷つくことは極力したくないので、本を置いた。
「私ね、実は病気なんだ。保健室で聞こえてたでしょ」
「聞いてないよ」
苦し紛れに言った。
「病気なの。喋ると死ぬの」
彼女はそう言った。喋ると死ぬということを喋って言ってくる、彼女の矛盾した言い分を、あまり理解できなかった。
「だから私が話してるとき、声を出して話を遮ったらダメだよ」
とりあえず、話を遮らないようにコクリと頷いた。
「私、放送部に入ってるんだけど、優希くんも入らない? 人の役に立つの楽しいよ」
彼女は僕の方に体を向けて、僕は前を向いたままだ。
「放送部ってなに?」
「放送部は言葉を通して、生徒の生活を根底から豊かにすることができるんだよ。
「僕が入っても役には立たないよ。良い声なんか出ないし」
「声が大事なわけではないよ。プロじゃないんだし。優希くんってさ、結構周り見てるよね。私の病気にも勘づいていたようだしさ。人の変化に気づける君は、人に声をかける素質あるんだよ」
「素質なんかないよ。僕はやらない。他の人を頼って」
僕は経験から自分が人の役に立たない知っていた。僕には無理なのだ。
「誰でもいいってわけじゃないんだよ。私は君を選んだの。君だけに頼むよ」
彼女はそれなりに真剣な顔をした。適当なことを言っても見逃してくれそうにないと判断し、本音を言った。
「別に人の役に立つことが嫌いなわけではないよ。ただ放送部って感謝されないでしょ。感謝されないと、慈善なんてやってられないよ。パシリや都合の良い人間はうんざりだ」
僕があえて本心を言ったのは幻滅してくれると思ったからだ。そうすれば諦めてくれるだろうと。
すると彼女は逆に笑みをこぼした。
「私が毎日感謝するから。どう? いや? 私からじゃ?」
わからない。僕もこのままではいけないという焦りがある。だけどあまり前向きには捉えられない。
僕が黙り込んでると続けて彼女は言った。
「いま私、体調崩して参加できないんだ。だから私の代わりに、私の声となって欲しい」
「……」
「言葉を変えるね! 私を手伝って。生徒じゃなくて私のために。お礼もするから。仮で入って」
お礼か……
そこでひらめいた。
「じゃあさ、お礼に僕の弁当頼みたいな。ちょうど、親に弁当抜きにされたとこなんだ」
これで嫌がって放送部の話を吹き飛ばせるかもしれないと画策した。もし、彼女がこの話に乗ったら、食のためなら、やむなしなのだ。
どちらにせよ、僕は彼女の決定に従おうと思った。
「それ、いいね。私が作るね。毎日自分で作ってるんだ」
彼女は目をキラキラさせた。料理は好きらしい。火に油を注いでしまったようだ。
本当にこれで良いのか? と今頃、迷ったがもう気軽には、引き返せない。
「そうだ。私の難病のことは二人だけの秘密ね! 一応周りには、軽い喉の病気ってことになってるから」
「わざわざ、僕に言う必要あった?」
「こうでもしないと納得できないでじょ。人にお願い事するなら、自分の腹から見せないとね」
彼女は小指を差し出した。
なにこれ? と避けることもできたが、それも情けないので、僕も小指を差し出した。
彼女は僕と小指を結び、指切りげんまんを歌い出した。
図書館で騒いだため、周りから冷たい視線を感じた。やめとけば、と後悔した。
僕は不安を抱えながらも、彼女の病気に目処がつくまで、中野色葉の声を代役することになった。こうして、中野色葉との奇妙でほろ苦い関係が始まった。
学校のチャイムが鳴り授業が始まった。
彼女は「また放課後声かけるね」と言い残し、おそらく保健室に帰って行った。
授業中、自分が放送部をうまくやれるかと憂慮している最中、もっと重大なことを思い出した。
彼女は死ぬと言っていた。このことをどう解釈していいか、僕にはわからない。
例えば、彼女がもう時期死ぬとしても、確証がない限り、僕はこの説を受け止めることはできないだろう。
死は怖い。それが自分でなく、ただのクラスメイトであったとしても、今の僕には目を向けることができないものだ。
なので、僕が彼女に対して、明確に答えを聞き出す度胸もありはしない。
僕が知っても意味すらない。
一つの小さな可能性として、彼女は死ぬのかもしれない。そうやって僕は問題を先送りにして、現実から目を背けた。
放課後、神出鬼没の彼女は僕の前に現れた。彼女に導かれるがまま校門の玄関に連れてこられた。僕を入れて、男女四人の放送部と合流した。意識が高そうで、めんどくさそうな人たちだ。
「じゃあーみんなよろしくねー」と彼女は言い残し、「頑張って!」と僕の肩を叩いて去って行った。
全然元気そうな彼女に変わって仮で入った
放送部の初仕事は、玄関口の床掃除だった。梅雨時は濡れた靴で往来されるので、泥や水で大変汚い。相変わらずの素行の悪さだ。
床掃除など、喋らなくても出来るじゃないかと思った。騙された。ただの雑用じゃないか。
まぁどっちでもいい。飯のためだ。
僕はクラスメイトでもある加藤に指示を仰いだ。不満げな顔で「君、仕事出来るの?」と軽蔑されながらも、モップを渡された。
出来ないとも言えないので「うん」と言っておく他ない。
彼女は肩に届かないほどのショートヘアーに手櫛をあて、隙のない猫目で僕を睨んだ。
あまり信頼されていないようだ。その割に彼女の指示に従うのは、荷が重く感じた。
驚くことに彼女は唯一、靴を脱いで裸足になった。そこまで本腰を入れるものか、とも思ったが、加藤の生真面目な性格を考えると、それほど驚くものでもないのかもしれない。
大方の生徒が下校した後も、僕らは健気に床を磨き続けた。
そろそろひと段落つきそうかと周りを見渡すと、床できらりと光る金属を見つけた。目を凝らすと画鋲であることに気づく。画鋲は裸足の加藤のすぐ後方にあり、今にも踏みそうだ。
僕は画鋲に手を伸ばした。ただ、あわててしまった。モップをかけたばかりの床はよく滑り、頭からずっこけてしまった。
頭がパンクした。顎を打った痛みと転んだ羞恥心てのもあるが、それ以上にバケツの水を一面に撒き散らしてしまったことと、加藤のスカートの中が見えてしまったことが僕の頭をショートさせた。
「あんた何やってんのバカなの。これじゃあ一からやり直しじゃない」
加藤は水を撒き散らした方を怒った。心なしか頬が赤く見えたのは、憤慨からだろうか。
もう一人の生徒もやれやれと言った様子だ。
「ごめん」という他ない。またこれか。やっぱ僕には無理だ。僕は本当にダメな奴だ。
「邪魔するくらいなら帰ってよね」
これ限りだと思った。僕はそっと画鋲を拾った。
片付けをしてるとき、僕を励まそうとしてくる人がいた。
「まあ気にすんなよ。加藤はドジだから」
松尾という男だ。彼が放送部にいることは意外だった。
坊主頭で耳には沢山の透明ピアスをつけており、眉毛もほとんどない。もはやヤンキーにしか見えない。しかし彼は人当たりが良いばかりでなく、放送部にまで入っているのだ。何かあったのか、学生の中でも悟った顔つきをしている。
「気楽にやろよ。たかが放送委員なんだからよ」
彼は目尻にしわを寄せて歯にかんだ。自由人ではありそうだ。
清掃を済ませ、失敗に落ち込む僕はトコトコと校門を出た。夕日ももうじき消えそうだ。
「まってーーー」
かなり遠くから聞こえた。僕は既視感を覚えた。が僕は下を向いたまま歩いていた。イヤホンをつけているので聞こえなくて当然なのだ。
「こらぁー、無視すんなー。命削ってるんだよ、こっちは」
中野色葉が僕の襟をやや強めに引っ張った。襟は歯を食いしばらせるほど僕の首を絞め、同時に彼女の不満も汲み取れた。
走って大声だし、暴力まがいのことをすれば命も削れるだろと、息を切らした彼女を見て思う。
「次逃げたらタダじゃ済まないからね」
僕は首は大事にしたいと思った。
「どうしたの?」
「ん? ご飯頼んだでしょ。今日の分はもちろん作ってないから夕飯おごるよ。食べに行こ」
表情を一変させて、ニコニコと笑い出した。確実に僕より元気そうだ。
「いやいいよ。やめることにしたから。今日も迷惑をかけたし。僕はいないほうがいいんだよ。みんなのためだ」
アハハハと彼女は鼻に指を置き笑った。
「迷惑がなんだよ。優希がしたいようにやればいいんだよ。ほら、行くよ」
彼女は僕の迷惑なんてお構いなしに、連れ回した。自分勝手な人間だな。
変なところだ。これが彼女が連れてきた、お店に対してのファーストインプッションだ。外装がピンクと黒を基調としており騒がしい。そしてこの独特の匂い。新しいお菓子でも発明してんのかって思わす甘ったるさ。
「こうゆうお店来てみたかったんだよねー」
彼女は声を弾ませた。
周りの客は、お店の雰囲気に溶け込む、いわゆる地雷系女子に溢れていた。
制服姿の男女二人は、ここでは浮いてしまっている。居心地が悪くて落ち着けない。
「なに食べよっか?」
席に着くなり彼女はメニューを開いた。
そんなこと聞かれても一体どんな食べ物があるんだよと思った。
メニューを覗くと、カレーやらオムライスやら普遍的な品揃えに安堵した。
僕はカレーを頼もうとしたが、彼女がカレーを選んだため、なんとなくオムライスに変えて注文した。
目線を感じ、周りに目を向けると冷たい視線が僕に多数向けられていた。
「周りの女の子見てるの?」
「見てないよ」
むしろ見られている。
「優希くん彼女は?」
唐突な質問に僕は、やや警戒心を強めた。
「いないよ」と素直に言った。
「よかった。彼女がいたら一線越えられないもんね」
彼女が何を言いたいのか、わからなかったが善意はないと感じた。
注文が配膳されて僕はそっちかよと思った。オムライスは緑一色だった。食欲をそそらない。卵をすくって現れたお米は、青色だった。彼女のカレーも似たような色だ。
「おいしそおー」
と本気でボケる彼女にツッコミたくなったが、僕の代わりに店員さんが突っこんだ。お膳を滑らし、コップが勢いよく倒れ、彼女はお水一口分濡れる。
そこまでは突っ込まなくてもと思った。
「あーーー」と声をあげ、立ち上がる彼女と
焦る店員。それを優しく見守る僕がいる。
タオルを持ってきて謝る店員に「平気だから」と陽気に返す彼女。それだけでなく、かの彼女は自分の腕やスカートを拭いた後、テーブルも綺麗に吹き出した。
「僕がしますのでごゆっくりしてください」と店員に止められる。
店員がことを済ませた後「ついてないなー」と彼女は小言を漏らした。
「待たせてごめんね、ご飯食べよっか」
固まっていた僕に、わざわざ彼女は気を遣う。
「なんで放送部なんかに入ったの?」
どうしてこんなに人の為に動き、声をかけられるのだろうか。僕は彼女の献身的な態度を見て、純粋な疑問を投げかけた。
「出会いかな。感銘を受けた言葉と出会ったのがきっかけになったかな。
情けは人の為ならず
知ってる?」
僕はその言葉を知っていた。だが今は好きではない。元々、人のためにと行動しようと優しい諺だと思っていたが、本当の意味はただのエゴだった。
「意味は、人に良い行いをすると巡り巡って自分に帰ってくる」
「自分の為に、人に優しくしろってこと?」
「そうゆう味方もできるかもね。でも私はこう思った」
彼女は満を持して語り出した。
「人の為に行動すると相手も喜ぶし、私自身にも良いことがあるの。それって最強じゃない? みんな幸せ。厄災なしだよ。相手のためでも、自分のためでもなく、お互いのために行動する。共感した?」
「一理あるかもね」
一理あると言ったのは、君にとっては正しいのかもしれないと思ったからだ。しかし、僕には当てはまらないと思う。そもそも彼女と僕とでは前提が違う。
彼女は容姿端麗で明るく、人懐っこい。僕は根暗で無愛想だ。受けては、僕の優しさには価値を見出さず、彼女の献身には価値を見出すだろう。
僕と彼女とでは前提条件が違うのだ。
彼女には理解してもらえない考察だと思い、胸に閉まった。
「言葉を知れば人生が変わる。言葉を知らなければ色も感情も識別できないって言うくらいだしね。
人助けがしたい。みんなに声をかけたいから、放送部に入った。
だらか、私は優希に声をかけるし、優希も私に声をかけて欲しいな」
彼女のぷっくりとした薄ピンク色の唇からでた素直な言葉は、嬉しいものではあった。
だから、気持ち「だけ」受け取った。
すっかり冷めたオムライスをスプーンに乗せた。
美味しくない。冷めたからなのか、元からなのかはわからないが。僕は、見た目とは裏腹に味は美味しいのではないかと、期待もしていたので、気を落とした。
彼女は「おいしいね」と言い、スプーンに口を滑らす。
残すのも気を遣わすしと思い、彼女に続いてスプーンを働かせる。
「ねえ、味見していいかな?」
「別にいいよ」
食べる量が減るなら大歓迎だ。
彼女は僕のオムライスを背後からスプーンを刺し、少し寄せるようにしてから口に運んだ。
こうして動物の本能に従い、食する彼女を見ると、美少女もただの人なんだと気づく。
彼女は「おいしい」と言った。美味しくはないだろと突っ込みたくなった。
「優希くんもカレー食べてみて」
笑顔で紫色のカレーを僕に勧める彼女は悪魔にも見える。彼女は、僕のスプーンを取り上げ、僕の手元に帰ってきた頃には、紫色のブツが上に乗っていた。
口にしても、冷めたカレー、以上の言葉は浮かばなかった。
食べ終わるやいなや彼女はまた何か頼んでいた。それは眼球のなりをしたチョコレートだった。ハロウィンかよ。
それと店員が先程のお詫びとして、スムージーを提供してくれた。ただ、それには、ひとつのスムージーに二本のストローがハート型に突き刺さっていた。
彼女はサービスを喜んだあと、「カップルだと勘違いされたね」と頬に手を置きながら、呟いた。
気まずいと思った。僕はどうするでもなく彼女が食べ終わるのを待つ。
「一緒に飲む?」と煽り顔で誘ってきたが断った。僕が彼女の言葉に一歩身を引いた時、不可抗力でスプーンを落としてしまう。
その時「優希くんは好きな人いるの」と聞かれたが、体を屈ませながら「いないよ」と返す。
足もとのスプーンを拾った時、対面にあったのは彼女の生足だった。スカートの丈は膝より短く、足を組んでいたので太ももまで見えた。その時、加藤のスカートの中を見てしまったことを連想し思い出してしまった。
テンパって体を起こそうとしたため、頭をテーブルにぶつけた。
痛みもそこそこだったがそれ以上に、加藤の下着が緊迫していた当時より、落ち着いた今になって、鮮明に僕の平常心を乱した。
頬を落ち着かせるため、顔を上げてからは、髪を触って手で顔を隠した。
「あれあれ、顔かくなってない? さては好きな人いるんだな」
彼女は茶化すように言った。
「そうじゃないって」
と色んな意味で言う。
「なんだ、まだ教えてくれないんだ」
「まだって、いつかは教えてもらえるような口ぶりだな」
「うん。そうだよ。修学旅行までには教えてね」
彼女の目には強い意志を感じた。
「ここのご飯ほんとに美味しかった?」
茶化された仕返しをしようと思って、嫌な質問をしてみた。
「当たり前じゃんか。冷めたから美味しくないと思ったでしょ。そうじゃなくて、美味しい、には料理人への労いの意味もあるんだよ。料理作んないと苦労もわかんないか」
反撃され、説教される形で終わった。芯が通った人間なことだ。
彼女は手を伸ばして、僕の口に眼球を無理矢理、入れた。眼球は甘くて普通に美味しかった。
水やらスムージーやらをたくさん飲んだ彼女は自ずとトイレに向かった。
一人になって冷静に考えると、僕なんかが彼女みたいな人のそばにいるとバチでも当たるんじゃないかと憂いた。災いの元だ。
店から出ると、空はすっかりと暗くなっていた。遅れて彼女も店から出てきた。
「あれー、料金払ったの。代役の恩だから私が払ったのに」
女性がお手洗いに行くのは金を払わすためと、何かで見たことがあった。僕は紳士を装ってというわけでもなく、どちらかというと強迫観念に駆られて、会計を済ませていた。
あーそっか。彼女に払わせればよかったんだ。そういう手筈だったか。
「もう今度は私が払うから抵抗しないでよ」
今度があるかどうかはわからないが、抵抗はしないだろう。
帰り道、彼女は僕の少し前を歩いていたが、やけに静かだった。まるで病人にみたいだ。
別れ際に僕らは連絡先を交換した。させられた。それから彼女は切り出した。
「私ね、期待してるんだ。君の活躍に。あの時だって女の人がサイフ落としてたの気づいてたでしょ」
あの時といえば、スーツの女性のことか。やっぱりバレていたんだ。
「私の声変わりに気づたの、優希くん以外に一人もいないよ。相当周りが見えてると思うの。世の中には気づけない人の方が多いからね。才能だよ」
「気づけるだけで、役には立たない人間だけどね」
「絶対そんなことないから。命を賭けるよ」
心臓が握り潰されそうだった。命なんか賭けて欲しくない。彼女の命を賭けるには重々しい意味を感じて、不安に思った。
君と僕は、関係ない、関係ない、と暗示した。
「じゃあね」と残し、彼女は去った。彼女の強引さは、焦っているようにも見えた。
家に着くなりシャワーを浴びた。いつもより遅れて入るお湯は、心地よいものだった。
風呂から上がり、部屋に戻る頃、スマホにメッセージが届いていることに気づいた。
「おつかれー。今日は楽しかったね。明日さ、早朝から放送活動あるから来てね。八時からだから、遅刻しないでね」
ずっしりとしたこの文に違和感を覚えた。
普通メッセージを送る際、文が長くなると二つに切ったりする。例えばこの場合「おつかれ……」と「明日さ……」に分けるのだが彼女はそうはせず、強引に一つにまとめた。
話を遮ってはいけない、という彼女の言葉を思い出して、何か関係があるのだろうと解釈した。
「わかった」と返したら、親指を立てたスタンプが返ってきた。そのキャラは豚鼻で、とてもセンスのいいものではなかった。
僕は彼女の秘密を半ば知っている。僕の方が彼女の弱みを握っている。はずなのにどうしてか、僕が彼女に弱みを握られたかのような、精神的な後れをとっていた。
断るよりは、彼女の言う通りにする方が、心が楽だと感じた。いまはまだ。
なんだかんだ今日は疲れたので寝ることにしよう。目覚ましを一時間早めて、ベットに潜った。
僕は朝っぱらから放送室に例の四人でいた。
中野が僕を弄ぶように、放送席に座らせた。こうなれば、加藤はだいぶご機嫌斜めで、目も合わせられないほどの殺気を放っていた。
「この原稿読むだけだからね」
気楽に渡された原稿は存外短く、これくらい頑張れと自分に言い聞かせた。
中野が合図して、マイクのスイッチを入れて、フェーダーをあげた。
切羽詰りマイクを握ってしまい、耳に刺さるようなノイズを出してしまった。
冷静になろうとひと呼吸したが、それが逆に変な間となり、僕をさらに焦らした。
「全校生徒の皆さんおはようございます」
中野が出だしを読んでくれた。その声は僕だって放送で何度も聴いたことがある。どこまでも透き通った彼女の声は、生徒にとって小さな癒しであったと思う。少なくとも僕はそう思っていた。
それから彼女に続いて僕がアナウンスした。
「今日の一言は、雨奇晴好です。意味は晴れても雨でもそれぞれ良い景色で趣がある、です。
この頃、梅雨入りし、気分も上がりませんが、いかなる状況でも前向きに捉えて進みたい。そんな気持ちを皆さんに共有したく、選びました。
雨にも負けず、今日も一日頑張りましょう。これで朝の放送を終わります」
僕が原稿を読み終わると、中野は腹を抱えて、あはは、と笑い転げた。
「テンション低すぎでしょ。葬式じゃないんだから」
終わったことにホッとして良いのか、恥を悔いていれば良いのか、僕の心は揺蕩う。
そんな中、もちろん激昂する人がいた。
「あんたやる気あんの? 声も暗いし聞き取りづらいし。邪魔!」
僕はなに一つ言い返すことができなかった。そんなこと言われなくても、僕だってわかってる。やめたいよ。
放送を聞いても、大抵の人間は素通りして校舎に入ってく。なんのためにこんなことをしているのだろうか。ほんとに声は届くものなのだろうか。少なくとも、僕には厳しい。
教室に戻ると、なにやらざわついていた。不審者でも出たかのようだった。
今日は珍しく中野色葉が教室にいた。不審な放送について、クラスメイトから言い寄られているようだ。
放送部というのは通常、影が薄いものだが、彼女だけは特別に認知されていた。声が良いってこともあるが、元から人気者ってのも大きいだろう。
数学の授業が始まった。
四人一組のグループ学習で、僕の対面には中野が座っている。
数学の問題を解き終わった僕のことを彼女は凝視していた。どちらかというと、睨んでいるという表現の方が近いのかも知れない。
僕が目を逸らすと「あ! またシカトした」と大きな声を出した。
「大きい声出すと周りに迷惑だよ」となだめると、机の上に置いていた僕の手首を獲物を捕らえるように握った。
「こっちの意図を理解しておきながら、また逃げたな」
こっちの意図とは、数学の問題に手をこまねく彼女に、率先して声をかけろと、言うことだろうか。
大きな声を出した挙句、手首まで掴んでるもんだから、クラス中の視線が僕ら一点に集まってる。目立つのは嫌いだから、早く手を離してほしいと思った。
「数学教えるから手を離してくれない?」
僕の言葉に一応、納得したのか手を離してくれた。
解き方を教えているときだけ、彼女は素直でいてくれた。
次の授業は体育であったが、既に冷や汗をかかされので、運動をもう十分だ。
「久しぶりの体育着だよ」となぜか見せびらかしに来た彼女に「よかったね」と返しておいた。
「惚れたりする?」
鼻を高くしてからかって来たが、始業のチャイムが鳴ったので、彼女をそっとしておくのがいいと思った。
「無視すんな! 優希! 優希!」
こんな感じで、また僕をクラスの注目の的にして、報復を楽しんでいる様子だった。僕は透明になりたいと思った。
種目はバスケであったが僕の出番は少なく、隅に座って時が立つのを待った。
隣のコートでは女子がバスケをしていた。彼女は馬鹿みたいにぴょこぴょこ跳ねてるのかと想像していたが、大人しく端で体育座りをしていた。
いっても病人なのか。彼女の表情は退屈そうだ。
彼女と目が合ってしまった。災のもとだ。さすがにコートの反対側にいる彼女も悪さはできないだろう。
彼女は小さく手を振った。幼稚園児みたいだ。
彼女はチャレンジャーだな。僕が手を振りかえすはずがないのに。
僕はまた怒られるかも知れないと思ったので、すぐに目を離すことはしなかった。
すると、今度は舌を出して瞼を引っ張り、挑発してきた。俗にいう「あっかんべー」を見るのは初めてで、貴重な経験だった。
授業が終わってボールの後片付けをしている時だった。
彼女が言い寄ってくる。
「弁当用意したから、放送室まで来てね」
そういえばそんな契約だったたかと思い返したそのとき、顔に鈍痛な痛みが走った。
バスケットボールが勢いよく顔面に当たったのである。
僕はしゃがみこんで鼻を押さえた。ツーっと涙が出てきた。
「コラぁー! 山口くん危ないでしょ!」
中野はクラスメイトを怒鳴った後、僕の肩に手をおいて「大丈夫?」と囁いた。
その時は無性に怒りが湧いた。山口というやつはサッカー部で運動神経は良いが、人当たりの悪い人間だった。
僕は彼女に導かれ、保健室に向かった。
微々たれる鼻血を拭いて平静を取り戻して血も止まった。
保険の星野先生が「鼻折れてなくてよかった」と僕を労った。
中野色葉が、僕を覗き込むようにして、気にかけてきた。
「大丈夫? ごめんね、痛かったよね」
「大丈夫だよ。もう過ぎたことだし」
彼女はなぜか謝ってきたが、僕はもう水に流した。
それより腹が減っていた。なのでいつもどおり売店で牛乳でも買いに行こうかと立ち上がったが、彼女に止められ、代わりに買ってくると言ってくれた。
その間、星野先生が僕に話しかけた。
「佐藤くんお菓子でも食べる?」
「僕は結構です」と言おうとしたが、手元まで差し出されたので「はい」と言って受け取った。
「ホントはダメなんだからね」
「ありがとうございます」
星野先生は二十代後半と比較的若く、それゆえか少しばかり緩いように思えた。
お菓子はビスケットだったが、食事前だったので、ポケットにしまった。
「佐藤くんは色葉ちゃんと上手くやれてる?」
「上手くやれてるとは言えないと思います」
「コツがあるんだよ。色葉は自分のこと曲げたりしないから、とことん彼女の気持ちに付き合ってあげれば、色葉も喜ぶよ。正面衝突一択!」
たしかに彼女の信念は強そうだ。僕は今まで大なり小なり彼女から抵抗してきた。しかしこの事実は、僕には抵抗権がないのだとはっきりとわからせた。
戻ってきた彼女は牛乳パックを二つ持っていた。昼の放送は、加藤と松尾が担当することが多い。手負いの僕らは、保健室のテーブルについて弁当を開いた。
「愛情込めて作って来たから、残したらダメだよ」
中を覗くとオムライスだった。先日と違って黄色い卵に赤いケチァップがかけられていたので、心の底から美味しそうに見えた。
ただ、彼女がケチァップで描いたのは、ハートと「ゆうき」という僕の名前だった。
ハートはオムライスのテンプレと言えなくもないのでまだしも、名前は若干引いた。非常に歯痒いが、彼女はニヤニヤとしたり顔になった。
「早く食べなよ」と彼女が言ってきたとき、背後に人影を感じた。
クラスメイト男女四人が彼女の見舞いに来たらしい。中には山口もいて、体が強ばった。
僕は咄嗟に弁当の蓋を閉じた。
「ねえ、今日も一緒に食べないの?」
女子が不満げに彼女に問いただす。
「今日も熱出てて、移したら悪いから。ごめんね」
「もうわけわかんない」と小言を漏らし、四人は去っていった。
「君にしては無愛想だね。彼女らのところに行ったらいいのに」
僕は本音をぶつけてみた。
「八方美人はさ、もうやめたの。輪の中に入る気分じゃないから行かない。そんだけ」
「そうらしいね。君は僕に病気を移しても良さそうだし」
「あれは嘘だよ。熱なんかないよ。バカ」
バカと言われて「ごめん」と言いかけたけど、冷静に考えると僕に非はない。
そんなことより、またご飯が冷めるのは嫌だったので、早急に食べ始めた。
「これも言っておかなくちゃなんだけどね。私、山口に告白されてるんだ。私のことが好きだって。二ヶ月くらい放置しちゃったけど」
「悪い女だね」
「そうかもね。もし私たちが付き合ったらがっかりする?」
「しないよ」
「嫉妬は?」
「しないよ」
「わかった」
沈黙が流れた。
「まさか僕が代わりに、君の気持ちを山口に伝えるとかじゃないよね」
「さすがにこればっかりはね。自分で返事しなきゃ」
山口が彼女のことを好きだったなら、さっき僕にボールをぶつけたのもわざとの可能性が高いな。君といると災いが増えそうだ。
彼女は僕の真似をして、牛乳にストローを刺して飲み出した。
「牛乳好きって珍しいよねー」
「給食時代から癖になってるんだ」
「これで私も元気になれるかな?」
「なれるよ」というのが正解だろう。
幼稚園児のように人の真似事をする彼女は、好奇心が旺盛なんだと思った。
「どう? オムライスおいしかった?」
僕がオムライスの最後の一口を食べたとき、彼女は聞いた。
僕が返事をしようと思ったとき、口の中でガリっという音がした。
なんだこれは。オムライスの感触ではまずありえない、砂でも入っているかのような違和感。
彼女は瞳を大きく見開いて、僕の返事を待ってる。
頭を回転させると、この混入物が卵の殻である可能性が高いという考察に至った。この状況では吐き出すことができない。僕は迷った。今、口から吐き出すのも申し訳ない。
もう、呑み込むしかないと思い、呑み込め、呑み込め、と必死に暗示をかけて喉に落とした。
それから「美味しかったよ」と労いの思いを込めて言った。
彼女は笑顔で「どういたしまして」と返した。
実際、彼女のオムライスは、ほっぺが落ちるほど美味しかった。
彼女の気分を害さずに済んでよかった。
そう思った矢先、テーブルに手を叩きつけて、前屈みになり、僕に迫る。
「なんで私の友達が来た時、オムライス隠したんだよ」
「災のもとだからだよ」
「はあ? 自慢げにしなさいよ」
「君もますます距離、置かれるよ」
「いいの。私はもう腹括ったから」
僕はまだ腹なんか括ってない。災難はごめんだ。
昼食を済ませたので僕は立ち上がった。
「おい、まだ帰んなよ」
「まだなにか、させるつもり?」
「ゲームしよ」
彼女は楽しそうにトランプのようなカードを取り出した。
こっちでやろう、とベットに僕を誘い込んだ。
「このベットは長く使ってるから、もう私のものなんだ」
彼女は靴下をまで脱いで、ベットにあぐらをかいた。
僕はお尻だけをベットの端にぽつんと置いた。
カードには、トランプのような数字が書いてあるわけではなく、「かわいいね」「愛してる」などのセリフが書いてあった。
僕は得体の知れない、それも彼女が選ぶようなゲームに身構えた。
「二枚引いて、ひとり一つセリフを選んで言うの。表情を変えて感情を出した方が負けね」
なんか似たような遊びが巷で流行っていたような。それの派生か? 厄介なおもちゃを作る人間がいるもんだ。
決めセリフゲームといい、放送のための演技力向上に役立つらしい。本当かと疑った。
彼女はニタニタしながら二枚カードを引いた。
「好きだよ」
彼女は上手に間をおき、アニメ声を使った。
僕はこの状況に恥ずかしくなって、駆け出したくなった。
いま誰か来たらどうするんだよ。というか星野先生は黙認してるし。
それでも僕はポーカーフェイスを貫き通せた。しかし、このお遊びの厄介なところは、責める側も羞恥心を乗り越えなくてはいけないところだ。
恐る恐るカードを引くと「抱いて」と「ありがとう」だった。「抱いて」のカードには戦慄したが、救いの手はあった。
「ありがとう」
僕はなんとか変態にならずに済んだ。
彼女は無表情に次のカードを引き始めた。そう簡単に終わりそうにない、このゲームに絶望した。しかしそのとき、神の手が差し伸べられた。呼び鈴が鳴ったのだ。僕は神の手に全力で縋る。
「僕、授業だから」
「まって、あと一回」
嫌だよとも言えたが、報復もあるしさっさと終わらしたほうが早いと考えた。
「負けた方が勝った方のお願い一つ聞く。いいでしょ?」
「わかった」
彼女の提案に乗った。
そして、
「愛してる」
今度は低くてやらしい声を出した。
僕はそれに「嫌い」とすぐに返した。
僕が引いたカードは「好き」と「嫌い」の二枚であった。人を傷つけるような言葉は使いたくなかった。とはいえ、好きと言うのも照れくさいし。だからこんな僕を困らせるゲームをしてきた君が「嫌い」だと言うことにした。
彼女はあからさまに眉をひそめた。
僕の勝ちだ。
「このゲームは今後禁止ね。これが僕のお願い」
「わかった」
彼女は大人しく素直に聞いてくれた。僕は時間もあれなので急いで教室に戻った。
翌日も例に漏れず、昼休みに放送室に召集された。今日は見学ということで、幾分か心が楽だった。
放送室に着くなり、中野から弁当を受け取った。ここに来ないと僕に食事はない。胃袋を掴まれるとは、こういうことなのかも知れない。
部屋、中央にあるテーブルを囲んで、箸を取る。壁沿いに置かれた、放送機材の前には、加藤が座りスイッチをオンにした。
中野は鼻に人差し指を当てて、しーー、っと僕に釘を打つ。
「全校生徒の皆さんこんにちは。これからお昼の放送を始めます。今日は金曜日ですので、詩の朗読をします」
加藤は生き生きしていた。3分あたりかけてようやく終わったらしい。
「どうだった。参考になった?」
中野が僕に聞いた。確かに、声は聞き取りやすい。加藤の背中を見て、背筋を伸ばすことが大切なこともわかった。ただ僕は素朴な疑問を投げかけた。
「詩の朗読って聞いてる人いるの?」
僕は小声で聞いたつもりだったが、加藤にも聞こえてしまう。
機材を叩いて、僕の方に進撃した。
「あんたになにがわかんの?」
「素朴な疑問だよ」
音楽が聴きたいのが生徒の本音ではあろうと思った。
「教養になるでしょ。文句があるならあんたが生徒のために面白い話でもしなさいよ」
加藤に首根っこを掴まれた。中野は空気を読まずに、あははは、と笑っていた。素なのか、空気を和ませたいのか。どっちにしろ黙られてるよりはマシだと思った。
たとえ、教養になっても聞いてる人がいない限り、それは加藤の自己満足では、と思ってしまう。
今度は放送室のドアが、勢いよく開いた。
「コラァー! マイクつけたままにして、なに騒いでるんだー!」
生徒指導の教師が乱入してきた。この男性の声も、そこそこにうるさい。
全校生徒は放送事故に唖然としていた。
それから、加藤が顔を赤裸めながら、スイッチを切った。
「次やったら、ペナルティ」と言い残し教師は消えた。
しかし加藤はまだ怒っていた。
「はい、面白い話して」
「できないよ」
「はぁ、できないじゃないでしょ」
加藤は僕の腕を綱のように引っ張る。そんな彼女に尻込みした。
「まあまあ、二人の言い分はわかったから落ち着こ」
中野が仲介してくれる。
加藤は機嫌を損ねたか、「面白い話、絶対してもらうから」と捨て吐き、放送室から出ていった。
「あちぁー、やっちゃいましたねー。加藤はあんまり融通が効かないからね。そんなに気にしなくていいよ、優希」
今度は学校中に羞恥を晒して、胃がもたれてきた。面白い話もできるはずがない。口は災いの元だ。
「そういえば、この部活て顧問とかいるの?もしかして今の教師?」
「いないよ。実際は、ただの放送委員だからね。放送委員より放送部って呼んだ方が青春でしょ」
「それで練習もなく、自由なのか」
「そだよ。大会もないしね。目標はすぐ側にある、日常を言葉で豊かにすることだからさ」
彼女はバカっぽいけど、本当は物凄く賢いのではないかと勘づいた。
教室に入ろうとしたその時だった。山口が目の前を横切った。一歩引いたはずなのに、足を踏まれた。僕は舌打ちを抑えた。山口は何事もなかったかのように通り過ぎて行った。
放課後、図書室に寄った。手短で面白い話がないものかと探したが、そんな都合の良いもの、すぐには見つからなかった。逃げる方法を考えるのが懸命だな。
家に帰って改めて思ったけど、心底向いてないな。これっていつまで続くんだろうか。
ふと思い返すと、彼女が言葉を知れば人生が変わると言っていたな。暇を持て余してたし、ネットで四字熟語やら慣用句やらを調べてみた。
その中で、背後から僕を刺した言葉があった。
「義を見てせざるは勇無きなり」
意味は、人としてするべきことだと知っているのに、実行しないのは勇気がないことである。
僕への当てつけのような言葉だった。この慣用句が僕がいかに臆病者であるかを教えてくれた。
結局、僕のような人間は言葉を知っても、落ち込むだけだった。
僕はまた早朝から放送室にいた。
「お前たちできてるの?」
松尾が僕と中野の関係を気にしていた。
「まるで違うよ」
「まぁ中野は乱暴なとこあるからな」
「仲良いの?」
「中学の時は結構喋ってたかもな」
松尾が彼女と同じ中学であることを初めて知った。
「まぁどっちにしろ心残りがないようにしろよ」
彼の口ぶりは、自分は心残りを残してしまったことを、悔いてるようだった。
今日は、中野も加藤もいなかった。中野はおそらく病欠か。加藤はへそを曲げたか、担当じゃない朝は、来なくなった。
僕は放送した。今回も棒読みだったであろうが、松尾はだんまりだった。あまりこだわりがあるタイプではないのかもしれない。
「佐藤は普段どういう曲聴いてるの?」
「曲? ボカロとかかな」
「あー、機械の声を使って作るジャンルのやつか」
どうせわかんないだろうなと思っていたが、松尾は意外と知っていた。
「よく知ってるね」
「歌い手がよく歌ってるよな」
「君はいつもなに聴いてるの?」
「洋楽が多いかな」
「そういえば、昼休みによく洋楽、流れてるよね」
「そうそう。あれ俺が流してるから。佐藤も好きな曲流しなよ。なにがいい?」
いきなりそんなことを言われても戸惑う。全校生徒に流すのだから、メジャーな曲が良いだろうと思うが、そもそもボカロがマイナーだし。
「好きな曲でいいよ」
「じゃあ濫觴生命とかかな。コード進行が一律だから、洋楽っぽいよ。多少はね」
「今度流すわー」
少し話していたら、もう授業が始まりそうだ。僕らは、授業が始まらないうちに、教室に駆け出した。
翌日。昼食時間、今日はというより、今日も彼女の気まぐれに振り回された。二人で放送室を占領したのであった。加藤と松尾には今日は「優希と二人でやらせて」とお願いしたらしい。これを加藤にも頷かさせるのが、中野の器量なのだろう。
というか、いつの間に学校に来ていたんだ。
彼女を見るたびに、おどおどしてしまう。
僕は急かされていた。昼の放送をするために、さっさと食事を済まさないといけないのだ。
彼女は僕の横の椅子に座る。
「今日は三食丼だよ。好き?」
「なんでも好きだよ」
「私のこと以外はね」
彼女は今日も表情豊かだったので、先日の発言は忘れてくれたか、と思っていたがまだまだ根に持っていたらしい。
「いただきます」
箸はピンク色であからさまに女の子用だった。僕も一応思春期なので、なにか卑猥な気持ちで使った。
「どう? 放送部には馴れた?」
「あまりうまくはやれてないよ」
「難しく考えなくていいよ。優希くんは素を出せばいいだけだよ」
「それには勇気が必要なんだ」
僕の言葉に、彼女は意外そうな顔をした。彼女の視線はいつでも真っ直ぐで、そこには人と接する際の、彼女なりの誠意を感じ取れた。
そんな彼女に少し憧れる。あくまで憧れだ。
「なんで放送部のこと手伝うって言ってくれたの?」
「胸を張れる生き方をしてなかったから。何かを通して変わりたかったのかも知れない」
「変われそう?」
「さぁ、どうだろう」
内心、無理そうだ、とは思っていたが、ネガティヴなことを言うのも気がひけるので、濁しておく。
「がんばれ! 優希ならできるよ。応援するよ」
彼女は手を差し出した。僕も手を出すと、彼女は僕の手を握り、肩を叩く。手の平はサラサラしていて、生暖かった。僕はあと少し頑張ろうと思えた。
牛乳を口にしたとき、違和感に気づいた。
牛乳パックがやたらと重たい。僕は半分以上飲んでいた気がする。彼女が口につけているが、僕のではないかと疑った。
とはいえ、あえて言うことでもないので、気づかなかったことにした。
「まだ気になってるだけど、なんであのとき財布拾ってあげなかったの? 自分の魅力を隠すのは罪だよ」
「べつに」
本音を言うなら、僕が無価値な人間だからだろう。そんな経験が僕にある。
昔、僕にも人のため動き声をかけていた時期はあった。中学生くらいまでは。
率先して周りのために動いていたし、声もかけた。ゴミは拾うし、提出物が遅れてる人にも、声をかけたりした。
感謝され、人から求められることが好きだったから。
頼んでもないのに余計なことをするな、と怒られたこともあった。
お節介だったかもしれない。そんなことしていると、舐められたのか、掃除を押し付けられたり、提出物を奪われたりしていった。僕もそれにはうんざりしていった。
ただ、一人のクラスメイトだけが僕に感謝してくれていた。だからまだ頑張れた。僕はその人に気があったのかも知れないと今に思う。
しかし、彼女には彼氏がいた。僕があげたプレゼントの数々や、時間を割いて手伝った行事、課題も全ては男のためだった。
無性にやるせなくなったし、涙が出るほど悔しかった。
誰も僕に感謝していないことに気づいた。僕の助けは必要ないことも知った。人のために声をかけることは、この上なく難しい。
僕は自分がいい人だと思っていたが、打算なしには動けない人間であることを理解した。そんな自分にがっかりしたし、嫌いになった。
僕は無価値だった。
そのとき、糸がぷつんと切れたように、やる気を失った。自分の心が空っぽになっていった。
客観的に見れば大したことないかも知れない。ただ、僕はそれなりに真剣だった分、深く傷ついた。
この程度のことなので彼女には言えないし言わない。
「どうかした?」
「なんでもないよ」
突然、暗い顔をしてしまった僕が気にかかったらしい。
なかなか納得してくれなそうな顔を、彼女がしていたので、話を逸らした。
「そっちが僕の牛乳じゃないか?」
苦し紛れだったので、話題としては、よくないもの選んでしまった。
「えー? そうだったの? ごめんね!」
彼女にしては珍しく慌てた様子で牛乳を取り替えた。僕は話題をそらせたので、一様ほっとした。
「口紅ついたかも。ごめんね」
「別に気にしないよ」
口づけしたって味なんか変わらないし、科学的に液体が変化するわけでもない。
気にする人もいるが、気に留めるほどのことではないというのが僕の意見だ。
「私、お腹いっぱいだからそっちもあげる」
お腹いっぱいでもそれっぽっちの液体くらい体に入るだろうと思う。牛乳がそもそも好きじゃなさそうだ。
「背伸びして牛乳飲むからだよ」
「人が飲んでるんのっておいしそうだし、病気も治るかもなーって」
彼女は遠くに目をやって、はにかんだ。
「治るの?」
戸惑いながら聞いてみた。
「まっ治んないけどね」
彼女は明るく言ったが僕は聞いたことを後悔した。
僕は彼女のことを知っておきたいと思う反面、真実を知ることは怖いと思ってしまい、それ以上聞くことができなかった。
「優希くんさ、いつもイヤホンしてるよね。なに聴いてるの? 教えな?」
「ボカロだよ。知らないでしょ」
「えー? 聴いたことないなー。どんな曲?」
「機械の声なんだけど。普通、機械の歌声なんて聴きたくないでしょ?」
「うん」
「それでも聴きたいと思わせるほどの魔力がボカロにはあるんだ」
「優希くんが珍しく、楽しそうに喋るくらいだから、よっぽど好きなんだね」
「え、そうか?」
表情を隠そうとも思ったがまあいいや。
「そうだよ。それなら私も聴いてみるね。てか今流そうよ」
そういって彼女はなんの前振りもなしに、僕のスマホを奪って、学校中に流し始めた。
「生徒からリクエストされた曲じゃなくていいのか?」
「いいの。いいの。職権乱用だよ。たまにはね」
結局、彼女は僕のスマホから適当に選んで流した。
「あんまりパッとしないね」
「初めは馴れないよ。最低三日は聴いてよ」
「うん。わかった。毎日聴くね」
彼女は嬉しそうだった。
「君にも響くものがあると思うから」
彼女にいくつかおすすめの曲を教えておいた。
ここまでは順調といえなくもなかったが、ここからが、トラブルの連続だった。
一通り音楽を流した後、今更になって、読まなくてはならない原稿があると手渡された。
さっさと片付けようと思い、マイクの前に腰を下ろす。勝手にスイッチを押す彼女にも動じずに、平静に対処する。
原稿は修学旅行を渇望させる内容だった。
「修学旅行まで残り二ヶ月を切りました……」
彼女は僕の肩に両手を置いて、体重を乗せてきた。今度はなんなんだ? 僕は耐え凌ぎ、原稿を読み進めるしかない。
彼女のポニーテールが僕の鎖骨にまで流れてき、柑橘系のシャンプーの匂いが鼻を掠めた。
何より、重苦しく、集中力を削いだ。言葉で注意することができないので、背筋を伸ばして反抗したが、効果はない。
「夏までに体調を整えっ……」
僕の声が途切れた。彼女が僕の首に腕を回したからだ。
僕は焦る。
彼女の腕と体から、常軌を逸した、熱が伝わる。
僕は振り返って彼女の腕を解く。なにやってんだよ! とは言えない。まだ放送中だ。
彼女は笑ってなかった。どうせまたイタズラだろと思っていたから、眉をひそめる彼女が腑に落ちない。
中野は手を合わせて、謝罪の意をジェスチャーした。
しょうがないので、朗読を続ける。彼女が大人しくなったので、気兼ねなく読み進められた。
安心したのも束の間、仕掛けられた地雷に気づかず、踏んだ。
「……健康には気をつけましょう。そして修学旅行までに、僕は彼女を作ります。斎藤優希」
何気なく読んだ文章が、僕の心をつまづかせる。
僕は自分で読んだ文章を、心で読み直す。焦燥と嫌悪感で肌寒くなった。
「はぁ」と声が漏れた後、振り返って彼女に目を向けた。
口を結んで馬鹿ヅラをしていた。
「なにやってんの」
「宣戦布告だよ。これくらいの気持ちで挑まないと。せっかくの人生なのだから」
「せっかくの人生って、僕と君の人生を同じ尺度で測るなよ」
「そういう考え方は嫌い。なんか曇ってる」
「だったら君も何か宣誓しろよ」
彼女はおもむろにマイクに近づき、息を呑んだ。
「私、中野色葉は修学旅行まで死にません」
「……」
僕は、言葉に詰まる。彼女の死にまつわることを耳にすると気が滅入る。僕はそんなつもりで、指図したわけじゃない。
「コラァー! またマイクつけたまま騒いでんじゃねー」
また、生徒指導の先生が乱入してきた。職員室が隣の部屋だから、反応が早い。
この声もマイクを通して、だいぶ校内に響いた。
僕がスイッチを切る。
「ペナルティ、月末のプール掃除やってもらうからな」
僕にとってはプチ災難だ。
「わかったか?」
「はい」
教師のダメおしに僕が返事した。
教師はそれだけ言い退室した。
今度はなにを言い出すかと思えば、彼女は椅子に座り込んで、体をすぼめていた。
「なんで僕の首絞めたの?」
「……絞めてないよ。さむかったから」
たしかに、絞めてたというよりかは、腕を巻きつけてただけかもしれない。とはいえ、いきなり首に腕が入ると、反射で身構える。
「熱で出るんでしょ」
「……」
彼女はうずくまって答えない。
「星野先生、呼んでくるよ」
彼女は咳払いし、喉を押さえていた。
いろいろ咎めたいことはあったが、彼女が体調を崩しているようなので、興がそがれた。
中野は星野先生に介抱され、保健室に帰って行った。
教室に戻ると、それはそれは視線を向けられるもんだ。
「彼女はできそうか?」
僕にヤジを飛ばすものもいた。女子生徒がニヤニヤと僕を見て笑った。
席について、なにか言い訳を、頭の中でリピートさせたが、自分がなにを考えているのかもわからなくなっていった。
止まない雨はないと言うことなので、ひたすら耐え凌ごう。
放課後。中野の体調はどうなっただろうか。たまには様子を伺おうと、保健室によった。
彼女と目が合うなり、こっちこっちと、手招きした。
「体調はどう?」
「薬飲んで、だいぶ良くなった。お見舞いに来たんだね」
したり顔もできるほど、元気に戻ったらしい。
「僕、帰るよ」
「まてまて。仕事があるのだ」
「来るんじゃなかった」
「じゃあ、いい……ごめんね」
「別にいいって。愚痴るってことは、やるってことだから」
「そうだよね。ありがと」
仮面を取ったように笑顔を見せる。
そして、今日もまた、出口の掃除と彼女から告げられた。
「雨の日はタオル敷いてるのに、みんな足を拭かずに入るんだよ。雨の日は、足拭けって貼り紙があるのにそれを無視してさ。そりぁ汚れるよ」
「人間めんどくさがりやだからね」
「ねえ、なんかいい案ない? 人を改心させ動かすのも、放送部の仕事だよ」
「わかんないよ」
「ご褒美するから」
そんなことで僕ははあやされない。
この日もきっちり床掃除を終わらせてから帰った。
昼に求められた提案の件について何か浮かびそうだった。というより思い出しそうだった。前に読んだビジネス本に書いてあった。
ちょうど彼女のように言葉を大事にしたやり方だった。
判然としないまま一日を終えてしまった。
彼女は三日、学校に来なかった。それが、僕が最低、三日は聴いてと言ったからなのか、純粋に体調を崩したからなのかは、知るよしもない。
翌日。僕は山口に相当、目の敵にされていることを知った。山口は僕の前の席なのだが、プリントを配る際に、荒々しく腕だけを振り回すのだ。顔にプリントが当たる時もあるし。そのままどこかえ飛んいってしまい、僕がプリントを拾いにいくことが度々あった。授業中のこと。風邪でも引いたのか、山口は居眠りをしていた。それを気にした教師が「起こして」僕の目を見て促した。起こせるかと思った。ただ教師をシカトするわけにもいかない。ブーメランでも投げて前方の額にでも当てられたらどれほどいいか。背後から突いて起こそうとペンを握ったが、動悸がして体が動かなかった。そうして僕が妙に固まっていると、山口の前方の人が気を利かせて起こしてくれた。ことは済んだが、僕の心に足枷のようなものがかかっていることに気づいた。
二日後。僕は取り越し苦労していたようだ。変わらず彼女は元気そうだった。
でもやっぱり、彼女は僕に嫌がらせをする。ホームルームの授業で、修学旅行の班決めなどのまとめ役を、僕が前に出てクラスを扇動することになった。
なんと中野はクラスの委員長までやっていたのだ。それを代わりに押し付けられた。そして残念ながら副委員は加藤だった。
「僕はやらない」
人目は嫌いだし、情けない自分を見られたくはない。ただでさえ彼女のせいで、変人扱いされているのに。
「平気平気、平気だから」
「無理無理」
「お願い!」
「僕は君の実験体じゃないよ」
彼女はおだててくるが、僕は揺るがない。「じゃあ病人の私にさせるの。喉がはち切れちゃいそう」
彼女はしくしくと顔を手で覆う。
「わかったよ。もう僕がやるよ」
そう言うと、彼女はころりと笑顔に戻る。
彼女が嘘泣きであることはわかる。ただ、冗談ぶる彼女の目は本気に見えた。だから、引き受けた。病気を盾に使われると、どうすることもできない。
中野の蛮行も、ほどほどにしてほしい。そう思いながら、教卓の前にたった。ここで失敗したら、僕はもう立ち直れないかもしれない。塩をかけられたナメクジみたいに体が縮みこみそうだった。僕の横で加藤がチョークを走らせる。そんな僕らを、中野は席で見ている。
「僕たちの修学旅行は沖縄の二泊三日です。まず、班決めをします。修学旅行中は、原則班での行動になります」
もっと声を張らなくちゃと思いながら、進行を始めた。
クラスメイトの顔は曇りがかっていて、僕が進行することに不満でもありそうだ。
グループは男女混合で、おおかた人気者から振り分けられていった。
言い方は悪いが残り物グループに僕は入った。意外だったのは中野が人気者グループからハブられて、残り物グループに入ったことだった。まあ、日頃の行いの結果であろう。
イカズチに似た酷い音が鳴った。
山口が鍛えた足で机に音を立てた。と勘違いをした。不幸中の幸か、山口は今日病欠だった。なので僕の空耳だった。
ただ怖かった。恐怖が僕の心にこべりついた。
僕は固まった。あれ? なにをすればいいんだっけ? 逃げ出せばいいのか? どうしよう、どうしよう。
そこで中野と目があった。彼女の目は座っていて、僕と瞳を合わせても微動だにしない。どしっと構えれば良いのだ、と言われた気がした。
もうやるしかない。
虎の威を借りる狐のように、彼女の強さを心に纏わせた。
僕は今だけは、根拠のない自信を胸に抱き、背筋を伸ばした。
冷静に帰り、玄人のように進行を開始した。
それから、部屋割りや、係割りなども、ぬるぬると決まっていた。
私はあっち、僕はこっちと、多少の摩擦を起こしながら、落とし所を探していく。
そういった、イレギュラーにも目を背けず、彼女のように真っ直ぐ視線を貫いた。
一つ二つと、クラスの思いをかき分けた。
ここらで、だんだんと慣れてきた。自分の保身を考えられないほど、進行に夢中になっていく。声も後方の壁まで届くようになっていった。
ひと段落して、改めてクラスの顔を見ると、さっきと表情は対して変わってない。
ただ、僕はその顔が不満そうには見えなかった。不満があったのは僕の方で、勝手にフィルターをかけて、人を判断していたのだと、気づかされた。
大事なのは、僕自身の心の持ち用だ。
「これで班決めを決定して良いですか?」と最終確認をしたら、小さな拍手がぽつぽつと鳴った。
ホームルームが終わり、席に着く。まだ少し手が震えていたが、筋肉痛のように不快感のない、スッキリとした疲労を覚えた。
昼休み。僕が冷水機で水を飲んでいると、後ろから、背中をちょんちょんと、叩く人がいた。
珍しいことに反応すると、中野だった。水でも飲みたいのかと、冷水機を空けたが、彼女は僕の方を見た。
「どうかした?」
「うまくやれたじゃん。まとめ役」
「君のおかげだよ。褒められるほどじゃないけど」
「イェイ」と彼女は手を振りかざした。僕もそれに手を合わす。
バシッと僕たちの手から、息の合った綺麗な音が鳴った。
「ハイタッチ。良いでしょ?」
「たまにはね」
彼女は、してやったといった感じで、堂々と立っている。
「案ずるより産むが易し、でしょ」
「ん? なにそれ?」
「あれこれ悩んでないで、さっさと挑戦してみれば、案外たやすく済んでしまうって意味。気に入った?」
「前のよりかはね。多少は腑に落ちたよ」
「人に見られることは贅沢なことだからね。拒むことじゃないよ」
彼女がみんなから一目置かれるのは、なにも外見だけが理由なのではないのかもしれない。
「じゃあご飯食べようか。保健室に行こ」
「そうだね」
日頃より、学校に日差しが差しているような気がする。心でも晴れたかのようだ。
そう微笑んだ時、
骨を突いた鈍い音が鳴る。
僕が空を仰いだ時、彼女は音をたてて、廊下に膝をついていた。
「イテテテテ。つまずいちゃった」
「なにやってるの? 大丈夫?」
一瞬、心臓が止まったが、ただ足をくじいただけらしい。彼女は、ぺたんこ座りをして、膝をさすっている。
「立てない立てない」
高い声をあげて、僕を凝視する彼女。不穏なアイコンタクトだ。目をそらしたい。
「痛みが引くまで待つよ」
「おんぶして」
空の上にまで登ったみたいに、両手を大きく広げる彼女。
「星野先生を呼ぼう」
廊下にぺたんこになっている人がいれば、もちろん視線の的だ。チラチラと僕の彼女を通りすがる者たちが一瞥する。
退きたい。
だが、こんな状況で知らぬ存ぜぬと、この場を離れるのも、人でなしすぎる。
となると本当にこの手しかないのかよ。
もうなんだよ。結局かよ。
かろうじて人間を保った僕は、彼女を背中に乗せた。
彼女は人に見られることは贅沢だと言った。ほんとにそうだろうか。僕は今、たくさんの視線を浴びている。油田でも見つけたみたいに。
ただ、幸福感も優越感もさらさらない。贅沢と幸福は根本的に違っていたのだろう。
彼女は僕の肩に手を置き、僕は彼女の太ももを両手で支えた。
中野はスカート短かったけど、大丈夫なのか? 見えてないだろうな? 背を起こして、なるべく彼女の体が前屈みにならぬように配慮する。
彼女のパンツにまで気が使える僕は、紳士かもしれない。
「スカートの中に手、入れないでよ」
彼女は僕に吐息がかかる距離で耳打つ。
僕の配慮も虚しく、悲しいことに、彼女は僕がセクハラをしでかすと、警戒しているようだ。置いていくぞ!
「意外と背中おっきいね」
それなりに重い荷物を背負って歩いているので、答える余裕はない。
熱いな。彼女はいつも熱い。首をやられた時もそうだったけど、今も彼女は熱い。特に直接肌に触れてる太ももからは、インフルエンザ患者のような、こもった熱も感じる。
通りすがる女子生徒が「やばっ!」と声を発し、振り返ったりした。
他にも男子が近づいて、手伝おうかと何人かが寄ってきた。中野を背負いたいのか?
たしかに、キャラメルっぽい、女の子の匂いはするが、物体としては重いからやめた方がいい。そう思いながらも、このチャンスは逃さない。
「それじゃあ頼……」
頼むと言おうとした。でも僕は懸命なので言い止まった。彼女の腕が僕の首に回ってきたからだ。首は大事にしたい。前にも言ったが。
彼女の腕は、いつかの放送室とは違い、殺気を感じた。
次はないかもしれない。
二度と過ちを犯さないためにも、楽しい、楽しい、と価値観の変革に臨んだ。
彼女をベットまで持っていき、星野先生に託した。
僕は保健室の端の椅子に腰掛け、汗を吹いた。また出しゃばってしまったな。
ここまでしたのだから、嗜好の一つもあって良いはずだ。僕は保健室のお菓子を一つ、勝手にとって食べた。学校で食うお菓子は必要以上に甘かった。
「うん全然問題ないね。すぐに歩けるよ」
星野先生が言った。
僕は足より、彼女の病気の方が心配だった。
「熱測ったら?」
僕が問い正そうとすると、彼女は立ち上がり、「飯食うぞー」と叫んだ。
「ご飯食べるんだから、静かに座ってよ」
彼女にはなるべく大人しくしてもらおう。彼女は素直に座ってくれた。
「ハンバーグ食べて元気つけな」
今日の弁当はハンバーグだった。
「いただきます」
一口、食べる。疲れを一網打尽にするほど、奥ゆかしい味がした。今日も。
「毎日、弁当作ってきつくないの? 体調も心配だし。厳しいならやめた方がいいよ」
僕は迷惑をかけているのではないかと憂う。
「キツイわけないでしょ。なにもしないことが一番きついよ。自転車は止まると転ぶの。私は転ぶのが怖い」
もしそうなら、僕はずっと地面に体を擦りつけている事になる。ここ最近は少し立て直してるかな……
「ねぇ、おいしいって言って」
彼女は儚くも、懇願するようだった。
「美味しいよ」
僕は彼女に正面から向き合う。
「ちゃんと言ってね。これからも。感謝、私もされたい。気持ちを伝えてほしい。いい?」
「わかった。君には感謝しているよ。弁当以上に」
「ちょっとまって。そんな急に言えるの? まだ身構えてなかった。あはは」
彼女は初めて僕から目を逸らして、頬を赤くした。
食事を済ますと僕は彼女に布団をかけ、ベットに押し込めた。彼女が暴れないように。
「今から、放送してくるから、聞いてて」
「わかった。聞いてる」
放送室には加藤がいた。もちろん僕らは犬猿の仲だ。
「なに?」
「君が面白い話をしろって言っただろ。それをしにきた」
「いい度胸だね」
加藤は僕の背後で腕を組んだ。
面白い話。いろいろ本を漁って思いついたものがあった。出来は決して良くないし、これをやる勇気も僕にはなかった。
それでもやろうと思う。案ずるより産むが易しだ。開き直れ。半ばやけくそだが、ここがチャンスだ。もう僕はとっくに変人だし。
マイクのスイッチを入れ呼吸を整えた。
面白い話とはなんなのか、一概には言えない。笑える話というのも、そのひとつと言える。もっと広い意味で考えると、面白い話は人の心を動かす話であろう。それが感激であっても恐怖であっても。
笑いを取りにいくのはリスクもあり、苦手だ。なので、僕は怪談よりの話を考えた。
「全校生徒の皆さんこんにちは。午後の放送を始めます。今日は夏の修学旅行に向けて、少し涼しい風が吹くような物語を話ます。最後までご静聴ください」
ここから僕は、図書館にこもって自分で紡いだ物語を話た。
『今際の告白』
修学旅行のホテル。
身の毛もよだつ噂があった。
四〇四号室の内線電話に出てはいけない。
時折、女の子の幽霊が出るんだ。おそらく、十代。あどけないけど、無鉄砲ではない。
せがむように問われる。
「私のこと好き?」
好きと言ってはいけない。あの世まで連れ去られるから
未練を残したのだろう。
ある男児がその部屋で体調を崩した。眩暈がして、もう時期意識も飛びそうだ。
男児はこの話を知っていたが、幽霊など信じていない。受話器に手を取る。
耳に当てるとそこは、胎内のような閉鎖的な空間を感じさせた。
「私のこと好き?」
隔たりの向こう側から聞こえる覚束ない声だったが、たしかに聞こえた。
男児は焦った。悪戯か?
「嫌いだよ」
男児は念のため、「好き」という言葉は避けた。この茶番をしてる場合じゃない。
「なんで? なんで好きって言ってくれないの? お願い」
「嫌いだって」
「お願い、お願い」
「いつまでふざけてるんだ」
その言葉を最後に男児は息を引き取った。
他にもいくつか電話に出てしまった人がいるが、助かったものはいない。電話に出てすらいけないのかもしれない。
この噂がたつ、数年前の出来後だ。
二人の高校生はある約束をした。
「僕は君のことを意識している。だから修学旅行の晩に、この想いを伝えようと思う。その時に、この気持ちを受け取ってくれるかい?」
男子高生のハルが、女子高生のミオに伝えた。ミオは「待ってる。約束だよ」と言い喜んだ。
ミオはハルにミサンガをあげた。
「二人が別れますように」
ミオは不思議な願いを込めて、ハルの腕に巻く。
「なんで二人が一緒に入れますようにじゃないの?」
「ミサンガって切れると願いが叶うんでしょ。そしたら、切れるまでの間、一緒に居れないじゃん。ミサンガって頑丈だから、滅多に切れないんだよ。
切れると別れる。切れない限り別れられない。
これなら、私たちはミサンガが切れるまで離れられないよ
ミサンガって人の愛よりも長持ちすると思わない?
頑丈に作ったからさ」
彼女はそんな想いを込めた。
二人が待ち望む夏はすぐに訪れる。
白い砂浜に、果てのない青い沖縄の海。喜色満面の最中だった。
旗をへし折る勢いの風と、皮膚を突き刺す豪雨に荒れ始める。
彼女、ミオの姿がどこにもない。ハルや周りの大人たちも一心不乱に探し回る。
どこにもいない。
沖に流されたのだろうか。
一件は海上保安に任され、ハルたちはホテルに帰された。
ハルは、気が気ではない。そんな張り裂けそうな心臓を押さえて何時間も待つ。
そんな最中だった。
鳴った。
耳を刺すような、けたたましいベルの音が、ホテル室内の内線電話から鳴った。
ミオが見つかったのだろうか? そんな願いしか頭には浮かばずに、受話器をとる。
耳をつぶすようなごぼごぼとした圧力が鼓膜を削り、反射で歯を食いしばる。
その遥か遠くに、声が聞こえる。
「わたし……すい……はる……すけて」
ギーンという鈴のちぎれたような音がして、電話は切れた。
気持ちだけが荒ぶって、なに一つ判断できない。
部屋のドアが開いた。彼女は亡くなった。ミオは亡くなった。沖で見つかったから。
そんな報告だけだけが届いた。
それから、ホテルの電話に幽霊が出るようになった。
瞬く間に有名になった噂話を聞きつけ、ある男がその部屋に行った。
ハルだ。
ハルは、ミサンガをつけて受話器の元まで向かった。
ハルが受話器に手をかけようとした時、ベルが鳴った。ハルは臆さずに取った。
「ハル……聞こえる?」
「聞こえるよ。ミオ」
「久しぶり」
「本当にミオ?」
「そうだよ。ミオだよ」
彼女の声だ。思わず、涙腺が緩んだ。
「ごめんな。僕が助けてあげられなかったから。こんなことに」
必死で言葉を形にした。
「そんなことないよ。私はこの修学旅行ほんとに楽しみだった。だってハルに告白されるなんて夢のようだったから」
「僕も君と入れて幸せだった」
「ハル、私のこと好き?」
ハルはなんの躊躇いもなく、気持ちを伝えた。
「好きだよ。大好き。だから僕と付き合ってください」
「約束、覚えていてくれたんだ」
「忘れるはずがない」
「やっと……やっと好きって言ってもらえた。ずっと持ってた。待ってたんだよ」
ミオはすすり泣いた。
「もう大丈夫だから。僕もそこ連れていって」
「ありがとう。私はハルの告白だけ聞けて満足した。連れていったりなんかしないよ」
「ミオ、戻ってきて。また僕に笑顔を見せて」
「ハルとはもう会えない。でも私は幸せ。こっちで笑ってるから。ハルももう前に進んで。また元気なハルに戻って。応援してる。だから私からも最期に、愛してる」
電話は切れた。
ハルのミサンガも切れていた。
さよなら
放送を終えた後、加藤から「つまんない」と言われた。
それでも僕は挑戦できただけ満足だった。
それから放送室を出て、一度保健室に戻った。
「どうだった?」
「泣いたよ」
中野はそう答えたが、別に泣いてはいなかった。
「女の子は愛情をもらえないと成仏できない生き物なんだね」
「そうかもね」
「私もそうかな?」
「どうだろう、これはあくまで創作だから」
「もし私が告白されるなら誰からだろうね」
「先約がいたじゃないか」
僕がそう答えると、彼女は掛け布団を鼻まで被せた。
「なんで、ミサンガ切っちゃったの?」
「ミオを成仏させるためだよ」
「あれ、少しさみしいな。こっちとしては。ミサンガがあるからどこに居てもずっと一緒だよって落ちかと思った」
「それだとハルが前に進めない気がした」
「そうかな……」
「そうだよ」
彼女が黙り込んだので、僕は教室に戻ろうと思った。
すると
「やっぱりなしだよ。あれはなし」
彼女は目を擦っていた。
「じゃあ書き直しておくよ」
そこまでいうなら、別にいいか。ただの創作だし。
心なしか学校中がしんみりしていた。悲しい話を作りたかったわけではない。綺麗な終わらせ方でスッキリしてほしかった。自分のうちにある暗い部分が無意識のうちに表に出てしまったのかもしれない。
帰り際、僕に腕を組んできた者がいた。もちろん中野だが。結局、元気じゃねーか。さっきの哀愁はなんだったんだ。
「カラオケ行こ」
首根っこやられるのも懲り懲りなので、犬のように彼女に従う。
どこからともなく、爆音が漏れる空間に僕らはきた。
指定された部屋に荷物を置き、僕らは、ドリンクを漁りに向かう。
「アイスもあるんじゃん」
「あんまり食べすぎるとお腹壊すよ」
大量に貪る彼女に忠告しておく。
「そんなやわじゃないって」
僕はお茶でいいや。
廊下で息を呑む出来事が起きた。
クラスメイトの女子高生、三人組が居た。学校中とは打って変わって、第二ボタンまで外したり、スカートを太もも半分まであげていたりと、羽目を外していた。
「色葉、こっちで歌わない?」
中野の友人が、中野に聞く。試すようだった。
だが、中野はクラスメイトを無視して、僕の腕を引っ張り、自室に押し込めた。
「喧嘩でもしたの?」
僕は彼女に察するように言ったが、何も答えてくれない。
「そうだ、私も身軽になろ」
彼女はボタンを外し、スカートを短くした。
「友達なんだろ? なんで無視するんだよ。君、おかしいよ」
彼女のことは彼女が決める。ただ、今のことに関しては、僕でも見過ごせなかった。
「八方美人は辞めたって言ったじゃんか」
「じゃあなんで八方美人をやめたの?」
「誰かに深く愛されるため。嫌われる勇気がないと誰からも愛されないでじょ」
「それでも返事くらいしてあげたら」
「それ、君が言うの? それとも私に早死にして欲しいの」
「どういう意味? そんなわけないでしょ」
彼女の意見は飛躍していて、全く理解できない。
「友達いなくなるよ」
「優希がいるから。私のこと一人にしないでね」
「でも……」
「もう、その話は終わりー」と強引に切り替えて「なに歌おっか?」と意気揚々に言う彼女。
気にかかるが、彼女は彼女なりの考えがありそうなので、これよりは触れないでおく。
「僕は歌うの好きじゃないから見てるよ」
「はあ? それは通用しないって」
これは覚悟しないといけない件かな。
彼女は一曲目を入れ、大きく深呼吸した。
「君の好きな曲、歌ってあげるよ」
彼女はソファの上に立った。
彼女が歌い出すと、室内の空気が変わった。日常から解放されたような、高揚感がある。
ミラーボールと相待って、ドラマチックな雰囲気を醸し出す。
中野の澄み渡る歌声は、ひんやりとした風のように透き通っていた。
ずっとここに居たいと思わせた。
結局、僕が教えたボカロが気に入ったのか、彼女は上手に歌いこなす。
「叫ばせて!」に続く「世界があたしを拒んでも今、愛の唄、歌わせてくれないかな」という歌詞が、妙に彼女と調和していて、必要以上に感傷的に受け止めてしまった。
「歌、上手だね。歌い手にでもなったら?」
「それいいね。やっぱ私の声って魅力ある?」
「あるよ」
彼女は、はしゃぐ。
生きてるだけでかわいい。
歌っている彼女を見てそう思った。
一曲歌い上げた彼女は満足気に「人を感動させられるものを、この世に残せるってものすごいことだよね」と漏らす。
「そういうのに憧れるんだね」
「憧れるよ」
「歌わない」と駄々をこねる僕に「恥ずかしいなら、一緒に歌おう」と誘う彼女。
「それなら」と僕は妥協した。
彼女の歌声にリードされるまま、何曲か、一緒に歌った。
悪くはないというか、少し楽しいと思えた。
ドリンクを飲みすぎたか、尿意を催しトイレに向かった。
トイレは爆音から僕を解放してくれる落ち着く場所だった。ため息が漏れ出た。
トイレから出た時、ちょうど女子トイレからも人が出てきた。
中野の友人だった。
僕たちは無関係だし、何事もなかったかのように素通りしようと思った。
しかし、彼女は僕に関係を求めた。
「ねえ佐藤くん。こっちで一緒に歌はない?」
「いや僕は……」
後ろから、もう一人出てきて「来るでしょ?」とダメ押ししてきた。
彼女たちは、制服を引っ張られ、すぐそこの部屋だからと僕を拉致した。
予想よりまして強引で翻弄された。
僕をソファに座らせ、僕の両隣に二人が座った。
近い。
ズボンとスカートが接触する距離で、僕を威圧してくる。
「コーラ飲む?」
ドリンクを渡されたが、歓迎されているわけではなさそうだ。
「色葉のこと、なんか知ってるんでしょ? 教えて」
「知らないよ」
彼女が秘密にしろと言っていたので、プレッシャーに負けずに嘘をつく。
「じゃあ何? 色葉の彼氏?」
「違うよ」
「チューはしたの?」」
「してないって」
段々僕も腹が立ってきて、口調が強くなっていった。
「もういいだろ」
僕は立ち上がった。早く戻らないと、中野も心配するだろうし。
ドアに立ち塞がる中野の友人。我が強い。
「恋人じゃないんでしょ。それなら私にハグして」
「は?」
「できるでしょ。ハグぐらい。彼女いないなら」
本気で言ってんのかこの人は……
僕はシカトしてドアノブに手を置き無理矢理立ち退こうとした。
不覚にもそこで彼女の方から、僕に抱きついてきた。ただ手を添えるだけで距離感のあるものだった。
瞬間、彼女からも女の子らしい甘い匂いがしたが、嗅がないようにした。
一応、彼女は女の子なので、僕の理性が本能にかられないようにするためだ。
腕を解いて、部屋を出た。
早急に中野の部屋を目指す。
「こんなに長く、どこ行ってたの?」
「トイレだよ」
彼女は僕の胸のあたりに顔を近づけた。
なにをしているんだ。
「一人にしないでって言ったのに」
「してないじゃんか」
彼女はスマホの画面を見せてきた。
そこには、僕と中野の友人とがハグをしている写真が写っていた。あの瞬間をカメラに収めて中野に写真を送りつけていた。
最悪だと思った。
「もう、君の友人に同情なんかしない」
「目移りしたの?」
「だからそうじゃないって」
「君にとってのハグはクラスメイト程度の人とも出来るってことでしょ」
「そうだよ」
苦し紛れだったが、そう言うことにしないと収集がつかない。
「じゃあ私にもハグして」
深いことを考える前にさっさと終わらそうと思った。
彼女の体に腕を回した。彼女の華奢な体には熱がこもっていた。
僕は先ほどとは違い、匂いから気をそらすようなことはしなかった。
彼女の呼吸が聞こえる。
僕の鼓動が彼女にまで届きそうで、もどかしい。
それでも、このままでいたい。
僕は離すタイミングを見逃したのだ。正直このまま彼女を抱きしめていたい。後に引けない。彼女の方から剥がしてくれるのを待った。
「あったかい……」
彼女はそう言い、動く様子がなかった。
「ねえ、私とならどこまでできる?」
そう聞かれた時、我に返って彼女から腕を離した。
「べつに」
僕は訳のわからないことを言った。
「どっちが気持ちよかった? 私とあの子」
「本音で言ったほうがいい?」
「もちろん」
「君のほうがよかったよ」
誤魔化そうと思えばそうでできた。だが、そうしなかった。
自分の気持ちが抑えられなくなっていく。
「今回だけは許すよ」
「僕を弄ぶのやめたほうがいいよ。僕が本気にしたらどうするつもり?」
「どうもしないよ。君がどうするかだよ」
「もう帰るよ」
帰宅して服を脱いだ。普段はしないが、制服の匂いを嗅いでみたが、さして二人の香水の匂いはついていないようだ。
そのはずだけど、母が「なんかつけた?」と問いただしてきたことを鑑みると、女の感覚器官は凄まじいなと戦慄した。
僕は彼女のことが好きになりそうだった。それは危険だ。あんまりお門違いなことを考えるんじゃない。醜態を晒すことになるぞ。
彼女のことは人形くらいに思っていたほうが、適度な距離感が掴めそうだ。
翌日。
「ねえ今日も行きたいところがある」と中野に映画館に連れられた。
不治の病を題材とした映画だった。
「ポップコーン買わなくていいの?」
「僕はいいよ」
僕はポップコーンもドリンクも頼まない。金欠だからではない。
ポップコーンは喉が渇くし、ドリンクは催す。上映中にトイレに立ちよりたくないからだ。
一瞬、手を伸ばしそうだったが、経験上、我慢するのが懸命だろう。僕は財布の紐を緩めなかった。
指定席についた。上映前から、中野は僕に何度もポップコーンを勧めてきた。彼女は猫じょらしでも振りまわしてるような目をした。
映画を悠々自適に楽しむためだと、修行僧のように雑念を押しのける。
上映中に無言で進められた時、とうとう「まあいいか」と、まんまと妥協させられた。
おいしいが、食べ終わったあとは、口が乾いて少し不快だ。これは仕方がない。
彼女が何かささやいたので、耳を寄せた。
「喉渇いたでしょ。一口なら飲んでいいよ」
中野にしてみれば優しいもんだ。遠慮なく頂戴した。
甘いコーラだった。できればお茶がよかった。
それよか、気に触ることが起きた。
彼女の後ろの席の奴、態度が悪い。何度か彼女の椅子に足ぶつけたりするのを、隣の僕でも感じるほどだった。
許さん。でもここで騒ぐわけにはいかないので、僕は彼女と席を交換するだけにとどまった。
映画が終わって、館内から出ると、生ぬるい風に現実世界に戻された。
「いやー感動したねー」
「そうだね」
彼女は鼻を赤くしていた。
「優希くん、全然泣いてないじゃん」
「心で泣いた」
「薄情者め」
涙なんか流すことはない。そんなのは僕には無用だ。
映画の出口付近にいるとあいつがやってきた。あの態度の悪い猪みたいな中年の男だ。
周りを押し寄せるように、我が物顔で歩いている。
ぶつからないようにと、中野の手を引き寄せたにも関わらず、彼女の肩に当たっていく。
「鰐ミソ野郎」
問題を荒立てたいわけじゃないので、遠回しの悪口を言った。
「なにいったの? 聞こえちゃうよ」
「聞こえても伝わらないから」
「鰐ミソってなに?」
「鰐の脳みそ。鰐の脳みそって豆三つ分の大きさしかないんだよ。餌に飛びつくしか脳がない、馬鹿なんだ。あの人も同じようなもんじゃない?」
「だからって悪口はよくないよ。私は悪口は言いたくない。せっかく言葉を使うなら、ポジティブなものがいいでしょ」
「それなら僕もそうしてみるよ」
中野はいつも天真爛漫で幸せそうだ。彼女の言葉の先にある景色が見たいと思い彼女の意見を素直に聞いた。
次に寄ったのは、ショッピングモールの中にある、服屋さんだ。
レディースものしかないない店内。僕は試着室の前に一人で立っている。周りから見て変質者に見えてないか、心配だ。
「じゃーん、似合ってる?」と中野。
「そうだね」
この件を三週もしたのだ。いい加減決めてくれ。
「やっぱさっきのにしよ」
彼女はまた試着室に戻った。ちなみに彼女の私服姿を見るのは、今回が初めてだった。制服を脱ぐだけで中野でも、こんなに大人っぽくなるもんだな、と感心した。
「それ代わりに買っておいて。後でお金渡すから」
試着室から顔だけ出して、彼女は言った。それとは僕に持たせていた、購入候補の服のことだ。
これいくらするんだろう。僕の財布の中身で足りるのか? 足りなかったら相当ダサいぞ。馴染みのないブランド店で憂慮しながらも、レジまで持っていった。案じても仕方がないものだし。やってみれば容易い。
レジの店員さんがピッピと音を鳴らしながら、金額をみるみる積み上げていった。
止まれ! 止まれ! と願わされる。ギャンブルでもさせられてる気分だ。
五桁まで上ってしまった。
僕は財布を出す。
ほんのギリギリのところで、間に合った。あの時、我慢してポップコーンとドリンクを頼まなくてよかった。それほど間一髪だった。
「彼女へのプレゼントですか?」
綺麗な店員さんにそう言われた。なんと答えればいいのやら。違いますというのも、ここでは不審だし、カッコ悪い。
「はい。そうです」
中野の雑務に付き合ってあげているのだ。これくらいのイキリは許されるだろう。
「素敵な彼氏さんですね」
そこまで、言われると申し訳なくなった。
一着買ったが、中野はまた服屋に入った。さすがにもう解散したいと思った。
「今度、優希の服、買おうよ。私が選ぶよ」
「いや、いいよ。服にこだわりないからさ」
「だから、私が選んだほうがいいでしょ」
退屈だった先ほどとは違い、今回は僕の服を選ぶということで、幾分か没頭できた。
女性専用車両に乗ったような息苦しさもない。
中野は僕にいろいろと服を当ててきた。「これは大人っぽく見えるね」などという中、僕は「うん」「うん」とだけ答えた。
何度か着替えさせられたりした。
ようやっと決めてくれたらしい。
「よし、じゃあこれは私が買ってあげるね」
「いやいいって、値段安くないでしょ」
「さっき奢ってくれたじゃん。それのお返しだよ」
「え? 奢ってないよ」
「彼女へのプレゼントって店員さんに言ってたじゃん」
もう最悪だ。頭が真っ白になった。あんなこと言うんじゃなかった。
「話の流れで言っただけだよ」
「男らしくなったと思ったのに。それならさっきのお金返すよ。これも私が奢るから」
「それはダメだって。僕の服は買わなくていいよ」
「買うよ! 私が両方買うか、お互いに奢り合うかだよ」
「もうわかったよ。さっきの僕の奢りでいいよ」
百歩譲っても一応、男だし。女の人にお金を払ってもらうのは、のしかかっているようで好きじゃない。
彼女に大金を払わすのも気が引けるし、意見を変えてくれる人間でもない。僕の敗北だ。
中野は会計を済ませてきた。
差し引きで僕が五千円分奢ったようなものだった。
「ありがとう」と一応、礼を言って受け取った。
「せいぜい喜んでよね。高かったんだからさ」
「うん。ありがとう。毎日着るね」
毎日は着なくていいけど。
中野は判然と笑った。
その笑顔にいつも絆された。
「ねえ? あの店員さんと私どっちが可愛い?」と聞かれたが、僕は悪戯心で無視した。
彼女と過ごす日々は楽しいという自分の感情が無視できないものになってきた。
時は梅雨とともに過ぎ去っていった。
僕らは放送部の仕事をこなしていった。
修学旅行の企画準備にも幾度か付き合わされた。加藤はだいぶ張り切っているようだった。こっちに飛び火が来ないといいが。
中野は日に日に学校を欠席するようになっていった。
今日、中野に会えたのは、ひさかたぶりのように思えた。だが、それが冷酷無惨な現実の始まりだった。
昼休み、僕は保健室に向かった。中野の髪の色が落ちて以前より明るい茶髪に見える。
「あれ? 今日、用事あるんじゃなかったの?」
中野は目を見開いって僕と目を合わせた。
「その用事だよ」
これは、前日の電話のことである。
「もしもし、優希。明日、一週間ぶりに学校に行くよ」
「また声低くなったね」
「よく気づくね。私に夢中なの?」
「べつに。それから、明日は弁当いらないよ」大事な人との用事があるからさ」
「はあ? 嘘でしょ? 明日に限って。女の子じゃないよね?」
「女の子だよ」
「待って、明日はいてよ。リップサービスするからー」
「リップサービスなんて口先だけの言葉、いらないでしょ」
「もういい。最悪。切るね」
彼女は怒ったが、いつもの仕返しができてるようで、悪い気分ではなかった。
そして翌日の昼休み。
手前用事があるので早急に駆け出した。
30分以上かかってしまった。やっぱり、飯を食う時間はなさそうだ。
それから、保健室に向かった。
息を呑んだ。山口が僕とすれ違い、保健室のほうから出てきた。僕は目を合わせなかったが、山口は僕のほう睨んでることが、嫌でもわかった。
保健室に入り、戸惑う中野に聞かれた。
「誰をたぶらかせてたの?」
「そんなんじゃないって」
僕は買ってきたものを、彼女に渡した。
「何これ?」
「ショコラケーキだよ。誕生日でしょ。プレゼント」
僕はケーキ一切れ分を買ってきた。一切れとはいえ、五〇〇円はする世界線のものだ。
「えぇー? なんで知ってるの?」
「べつに」
松尾から聞いた。というよりかは、教えられた。松尾いわく、念の為に知っておけだそうだ。いざというときの、猛獣の駆除方法だと思った。
「愛情が詰まってるね」と僕を見る中野。
「料理人の愛情がね」
おもわず、僕の分も買いたくなるような、よだれが垂れるほどのケーキであったが、近頃金欠なので、やめにした。
「おいしい。めっちゃうれしい」
彼女は一口食べて、口に手を当てた。
僕の腹が鳴った。朝から何も食べてないからだ。
「あれ? じゃあ優希はケーキ買いに行くために、ご飯食べてないってことなの?」
「そうだよ」
「え? なんでそこまでしてくれたの?」
「さあ」
そこまでというほどのことでもないが。改めて問われると、自分でもよくわからん。彼女がずっと保健室にいて退屈そうだからであろうか。
「こっちのお菓子、食べる?」
「うん」
腹も減ったし、お菓子でもいいや。
渡されたのはマカロンだった。
「いかにも君が食べていそうなお菓子だね」
「そう、これも貰い物なんだ」
僕はマカロンを口にした。人工的な甘さと
、じゃりじゃりとした食感。味より見た目の可愛さの方が優っていた。マカロンは鑑賞用なのかもしれない。
「誰から貰ったの?」
「山口くん」
吐きそうになった。色んな意味で。
「それは君が食べないとダメでしょ。他の男に渡されたら傷つくでしょ」
「私が貰ったものだから。私の勝手でしょ」
中学時代の苦い青春を思い出した。僕も想い人にプレゼントしたものを男に流されたことがあるから、これだけに関してはやつに同情する。
僕も悪い男だな。
腹が鳴った。もう一個だけ食べておこう。
ケーキを食べ終わった彼女は言った。
「よし。じゃあ私が、優希のご飯買ってくるね。そういう約束だし」
「いや、いいって。時間ないし」
「腹痛で、五時限目は保健室で休養ってことで。いいよね、星野先生?」
いいわけないでしょ。
星野先生はコーヒーをテーブルに置いて「特別ね」と黙認した。
いいのかよ。やっぱ緩いな。星野先生は。
「だったら、自分で買ってくるから」
束の間、彼女はいなかった。
戻ってきた彼女に感謝して「いただきます」と手を合わせた。その時、ちょうど五時限目のチャイムが鳴った。
みんなが勉強している最中、食べる弁当は優越感があって、ひときわ美味しいものだった。
中野と星野先生が折り合いをつけようとしていた。
「ほら。やっぱ熱出てるでしょ。無理に今日くるからだよ」
「だって」
「お母さんに連絡してお迎えに来てもらうからね」
肩を落とす中野。ベットに潜って、顔を伏せていた。
昼食を済ませてからも保健室で、僕はのんびりした。授業中に戻るわけにはいかないからだ。
星野先生はパソコンの前に突っ伏して仕事でもしているようだ。
「優希、隣空いてるよ。入る?」
ベットの中から、くぐもった中野の声が聞こえた。
「寒いのか? 冷房あげるよ」
「そうだ!」
急に声を張って、布団を投げ倒し、起き上がった。
「私もあげるのあったんだ」
彼女はカバンの中を漁り始めた。
「あげるものってなに?」
「優希にプレゼント用意してたんだよ」
なんだろうか。少し期待した。
彼女がカバンから出したのはハンカチだった。
ただし、それはプレゼントというわけではなかった。
戦慄した。一瞬にして奈落の底に落とされた気分だった。
彼女は…… 中野色葉は血を吐いた。彼女の両手とハンカチに収まりきれないほどだった。
聞いたこともないえづく声は、彼女を一人の女の子に留めさせない妖怪じみたものだった。
星野先生はコーヒーカップをこぼして駆けつけた。
すぐさま救急車が呼ばれた。その間、僕は苦しむ中野から目を逸らすこともできなかった。
心臓が張り裂けそうだった。
サイレンと赤い回転灯を四方八方に靡かせる救急車に連れられ、中野は救急病院まで搬送された。
恐怖を煽るサイレンの音は、今回ばかりは待ち望んだ、安心感のある音だった。
気が落ち着かず、手が震えていた。
今までは怖くて聞けなかった病気のこと。今ここで聞くしかない。冷静に戻らないうちに星野先生に問いかけた。
「彼女の、中野色葉はどんな病気なんですか?」
「……枯葉病。言葉を発するたびに、体が枯れていって、最後は死ぬ」
星野先生が何を言ってるのかわからない。脳が腫れたように痛い。
「言葉を発さなかったらどうなるんですか?」
「死なない」
「じゃあ……」
「無理だよ。言葉を発さないで生きるって孤独になるってことだよ。言葉を話したり、メッセージを送ったり、文字を書いたり、手話も。全部、できなくなる。だから諦めて、余命まで普段通りに生きるしかない」
「話すと寿命が縮まるってことですか?」
「そう」
だったら、僕と話している間も、ずっと寿命を縮まて話してたのか……
頭が追いつかない。
「あとどれくらい持つんですか?」
「このままいけば、一ヶ月持たないかも。ひとつの会話が一として、あと余命、三千会話くらい」
「会話ってなんですか? 文字とかじゃないんですか?」
「文字じゃないよ。だから一歩的に喋る分には、寿命はあまり減らない。彼女の会話が途切れたところで一カウント。大脳にある、言語中枢が……」
頭の中に霧がかかってそこから先は聞こえなくなっていった。
わけのわからない病気に対して、必死で粗探ししようとした。英語なら、とか絵ならどうかとか。でも、どうしようもないことは腹の底ではわかっていた。医者が深く考えないはずがないと。それでも考えることをやめられなかった。
考え込んでいく中、今になって信じられなくなった。そんな病気なんて聞いたこともない。僕はネットで調べてみた。記事が載っていた。何度検索し直しても、ゾンビのように出てきた。手の力が抜け、僕はスマホを落とした。
思い返すと、「私の話を遮らないで」と中野は言っていた。メッセージを送るときも、長ったらし文を一つにまとめて送ってきていた。
それにそうか。だから大人しくなったんだ。誰とも喋らなかったのはこの病気のせいだったんだ。だったらなんで僕とあんなに喋ってるんだ…… 僕のこともシカトすればよかったのに。
リップサービスって、中野にとってリップサービスって、命を削るほどの贈り物だったんだ。だとしたら、なおさらいらないよ。
「僕、体調悪いんでベットで休んでいいですか?」
「うん。いいよ」
そのとき、保健室のドアが開いた。
「娘は?」
と女性は言った。
「いま救急車で病院まで運びました」
中野の母親だった。目元に中野の面影がある。顔は整っていて綺麗だったが、日光を当てられていない植物のような、やつれた表情をしていた。
星野先生が事情を説明した。
「あなたは色葉のなに? 彼氏?」
中野母は強いるように僕に尋問した。僕はどうゆう顔をしていいのかわからない。
「違います」
「最近、色葉と仲良くして、遊びに行ってるのはあなた?」
「……はい」
痺れを切らしたような顔で、僕に寄ってきた。
「あなたは色葉のこと好きなの?」
「いいえ」
これが正解だろと、言いたくないことを言った。
左の耳が聞こえなくなった。痛い。中野母にぶたれていた。鉄の味がする。口の中も切れてる。怒りとは違う、何か吐き出したくなるような強い感情が、腹わたから沸いた。
「あんたみたいな、なんの覚悟もない人があの子に近づかないで!」
中野母は叫んだ。
僕は下を向くまま動けない。
星野先生が仲介に入った。
星野先生と中野母は場所を移した。
僕もそろそろ限界だった。学校どころではない。とりあえず、なるべく頭の中を空っぽにして、家に帰った。
そのとき、どうしても気になったものを拾った。中野母が手を出したとき、彼女のカバンから落ちたものだ。いま勝手に拾わないと一生見れない気がして、ヤケクソで拾った。それは、中野色葉の写真が貼られた手帳だった。
ただ、すぐに開こうとは、思えなかった。
気を治めるため、一度寝ようとベットに入った。そのとき、指先まで伝わるほど、鼓動が荒れていた。
きっともう会えない。そんなことを覚悟した。
僕は三日ほど、体調を崩して、学校を休んだ。その間、中野母の手帳だけ覗いた。そこには、たくさんの写真が貼られていた。いつのものかもわからない。中野色葉が随分小さい頃の家族写真だった。
そこには彼女の無垢の笑顔があった。未来しかない笑顔だった。体も今より半分も小さい。とても小さい。中野にもこんな時期があったんだな。この写真は学校中の人たちが見たいと願うものだろう。
勝手に見て申し訳ないが、これで僕は決意できた。彼女とはもう関わらない。彼女の人生を僕は背負えない。彼女の人生に僕はいらない。
手帳だけは返そう。直接は無理だから、保健室の落し物ということで、星野先生に渡そう。
今朝。メッセージが来ていた。中野だった。
「ふっかーーーーつ!。もう元気取り戻せたから。今日、学校で会おうね。午後登校になっちゃうけど。三日分も弁当作れなかった。ごめんね。怒ってるよね、約束破ったから。埋め合わせはするからね。じゃ、あとでね」
彼女は僕とまだ、関わろうとしていた。僕はもう嫌だった。僕は最後のメッセージを送った。
「これで最後だから。弁当はもういい。僕も三日、放送部の仕事してない。放送部はもうやめた。君とも終わり。もう話かけないで。僕は君のこと好きじゃないから。お願いします」
「病気のこと詳しく聞いたでしょ?」「心配ない」「私の人生だから」「言ったでしょ」「私、腹括ったって」
彼女はここにきてメッセージを分割で送ってきた。僕は彼女に怒りが湧いた。死にたいのか?
僕は彼女の連絡先をブロックした。
学校に着いたが放送室にも行かないし、近づきもしない。彼女が来ないうちに、星野先生に手帳だけ渡した。
昼休み。僕は売店で弁当を買った。保健室には行かない。いつぶりか教室で食べていた。
「おい、優希! 連絡無視すんな。弁当だって作ったんだから」
中野色葉。クラス中に声を響かせた。僕が何したって言うんだよ。
僕は走って逃げた。
「まってーー!」
彼女も、凄まじい気迫で追いかけてきた。
襟を掴まれた。
「どうして逃げるの?」
「前にも言っただろ。お前のことが嫌いだからだよ」
「私はただ黙ってればいいの? 一人で」
「家族や友人と過ごせばいいだろ」
「またって。私はもう人形じゃない! 黙ることもないし、人の機嫌取りもしない。血の通った、わがままで理屈知らずの人間なんだ!」
彼女は身を切るようだった。
僕は手を振り解いた。
走る僕に彼女は叫ぶ。
「逃げるなー!」「約束はどうした!」
そんな声も徐々に小さくなり、1分も経てば、彼女の姿はなかった。
僕は四階に逃げた。四階はカップルばかりが占拠していて居心地が悪いが、一歩でも中野から離れられるので、今だけは平気だった。
体を丸めて廊下に座った。これで落ち着いた。呼吸も安定していく。
しばらくすると、
騒音――
学校中のスピーカーからマイクを叩く、怒号が鳴った。
その音に誰もが身構えた。
「優希。聞こえてる? 学校のどこかにいるんでしょ」
彼女は放送を使って僕に語りかけてきた。これじゃあ、どうやっても逃げられない。最悪だ。
「いいのこのままで。胸を張れるような人生送りたいって言ってたでしょ。私、応援するって言ったよ。逃げれば変われるの? それで優希は幸せ?
いいのか? このままで終わって!
胸を張れ!
自信を持て!
前を見ろ!
優希。私に声をかけて……
私は待ってるよ」
中野の放送が終わった。学校中がどよめいていた。
僕は自分の髪をむしった。トイレに行って、大して何も食べてないけど、吐いた。
彼女の気持ちは汲み取ってあげたかった。ただ、僕は自分と喋るたびに、彼女の命が擦り減ることが、我慢できなかった。
死ぬなら、僕のいないところで、他のひとと会話して死んでほしい。やっぱり家族とか。それが幸せじゃないのか。
自分でも、なにをどうすればいいのか、知るよしもなかった。
教室に戻っても、今回はちょっかい出されることはなかった。それは、僕が殺気だっていたからだと思う。とはいえ、それなりに視線を向けられた。
帰り際だった。松尾に呼ばれた。珍しいことだ。腹割って話そうとのことだ。
「迷走しているようだね」
「迷走というか……」
「俺さ、恋人いたんだ。中学の時。死んだんだけどさ」
唐突な話。僕は彼の話に、真剣に耳を傾けた。
「自殺だったんだよね。急だった。そのとき思ったことがある。人の気持ちって心底わからない。想像を超えるよ。だからさ、人の気持ち想像で決めつけない方がいいよ。悔いが残る」
「どうしたらいいの?」
「ちゃんと聞いて、会話して、心を通わせて。それで初めてわかるから」
「……うん。考えておく」
「ちなみに、その恋人、中野の妹だから」
「え?」
「俺も中野に誘われて放送部入ったんだ。あいつに恩があるから。だから、あとは任せたよ。色葉のこと」
そんなことがあったなんて知らなかった。中野はそんな素振り全く見せなかった。
僕は中野のそばに居ていいってことなのか? はたまた別の意味なのか。答えはどうしても聞くしかないのか。僕は中野のこと、どう思ってるんだろう。
やっぱり、もう好きになってるよな。
夕日だけが灯っていた。
とにかくまた学校を休んだ。今の僕には行く勇気が出せなかった。そんなことをしていると、追撃をくらった。
留守電だ。スマホの留守番電話にメッセージが残っていた。また彼女は命をすり減らして。腹わたでも抉れたような気分だった。
「最低、最悪。意気地なし。あほ。ばか。もう嫌い。呪ってやる。覚悟しろよ……」
僕への中身のない悪口が詰まっていた。
このままでは……
一つ覚悟できた。一度は話そう。そこで決着をつけよう。松尾が言った通り、彼女の気持ちを聞こう。彼女の寿命を減らすのは嫌だけど、ここまできたら一度はしょうがない。明日、学校に行こう。
翌日。中野の大暴走はなかった。おそらく、欠席だろう。
盗賊のように保健室の様子を伺った。やはりいない。星野先生に確かめた。中野は欠席だった。
「女の泣かせ方を覚えたんだね」
星野先生は教師の立場を超えた発言をした。
「そんなつもりじゃないです」
「前にも言ったでしょ。コツがあるって。色葉ちゃんの気持ちを大事にしてあげればいいんだよ。命よりもね」
僕は言葉が出なかった。
下校した後に思い出した。今日はプール掃除の日だ。いつかのペナルティだ。学校に戻ってやらないと。また怒られる。幸い共にペナルティーを食らった中野は休みなので、彼女に「逃げたな」とどやされることはない。
早くしないと日も沈みそうだ。僕はブラシを持って、プールサイドに上がった。
プールの水は透明で、小さく揺れる波が日の光で輝いていた。
よく見渡すと、水の上に何か浮かんでいた。誰かの忘れ物か…… 拾いに行くため、反対側まで歩いた。
浮遊物が明確に見えた時点で、僕は慌てて走り出した。
人だ。人が浮かんでいる。制服姿の女の子だ。そしてこのポニーテール。鬱癖で顔は見えないが、絶対、中野だ。
僕は青ざめた。なにやってんだこのばか。
僕は息つく暇も無く、飛び込んだ。
水の冷たさなど全く気にもならずに、全身全霊で体を引き上げた。
「中野! 聞こえるか? 起きろ!」
体が冷えていた。僕は必死で祈った。お願いだから、起きてくれ。もう喋れないのは嫌だ!
中野はゆっくりと目を開いた。中野と目を合わせるのは久しぶりで、ほっとした。
彼女は息もできないほど、強くむせた。僕は背中をさすった。
「無事でよかった」
「もう来ないかと思ったよ」
「そんなわけないでしょ」
「私から逃げなくていいの?」
「もう逃げないよ。僕も腹を括った。君に勝手に死なれたら、僕にも悔いが残る。だから例え君といることが罪だとしても、僕はそれを背負うよ」
僕が彼女から逃げるのは、彼女に死んでほしくないという僕自身の気持ちだ。それは彼女を思うようで、ただの保身だった。彼女のことを思うなら、彼女の気持ちを優先するべきだ。彼女の命より。
「後悔先に立たずだね」
「そうだね」
力が抜けて僕は、背をプールサイドの床につけた。
「はぁー」と彼女も息を漏らし、横たわった。
「この世の全てがバカらしくなることってあるよね」
大の字になって彼女は言った。
彼女は髪から下着まで全身が濡れている。
「早く拭かないと風邪ひくよ」
僕は着替えるように促したが、彼女は足だけ水に浸かる形で、プールサイドに座った。僕も同じ形で、プールサイドに座る。
足を揺らつかせ、彼女は何かにふけっていた。
「なに考えてるの?」
「ねえ? そろそろさ…… チューでもする?」
「え? なにそれ……」
とっぴな訴求に僕は体裁を見失う。
「あ、やっぱダメ。ブラじろじろ見てるでしょ。変態」
中野のシャツは濡れている。膨らんだ黒色の下着に向かって、透けたシャツが張り付いていた。見てるというか目に入る。
「減点だよ」
彼女はそう言って、代わり僕の体に腕を回して、肩に顎を乗せてきた。僕もますます濡れるが、引いたりせず、彼女の体に腕を回した。
やっぱり君のことが好きだ。いえずとも心で思った。
「優希も濡れろ!」
彼女は僕の体ごとプールに飛び込んだ。頭まで水中に浸かり、顔も髪もびしょびしょになった。プールの薬品の匂いが鼻をツンと刺した。
「なにするんだよ」
「あはは。こういうのもいいでしょ」
水が揺れる音が僕らを包んだ。
「人の体って温かいね。離れたくないな」
彼女は僕に抱きついて、足を浮かせていた。水中なので重くはなかった。
「君はなんで僕といるの?」
「んー…… まだ内緒」
「死ぬまでにやりたいこととかある?」
「手伝ってくれるの?」
「手伝うよ」
「ありがとう…… でもないよ」
「言いづらいことでもいいよ」
「ほんとにないよ」
信用ならなくて、目を見て確かめた。彼女は真っ直ぐ僕の目を向けた。
「死ぬ前って何かしたいという感情より、何か遺したいって想いにかられるんだ。ただでは死にたくないってね」
「それじゃあ、なにを残したいの?」
「子供かな……」
「……また冗談でしょ」
また甘いことを言うから一瞬、固まったが今となっては慣れっこだ。
「あれ? いま一瞬、男の目したでしょ」
「してないよ」
「ホントかなー」
こちらの動揺を誘うように彼女はつぶやく。
「それより、君のほんとの理由教えなよ。なにを残したいの?」
「……言葉かな」
彼女は我に帰るように真面目な顔をした。
「偉人の名言って、今でも鮮明に受け継がれてるよね。そこまででもなくてもさ。誰かに響く言葉を遺したいな」
「それで放送部に入ったんだ」
「そうだよ」
少しずつ彼女のことが理解できるようになっていった。
「あ、やっぱやりたいことある。というか、誰かにされたいこと、三つある」
「なに?」
「愛の告白。王子様に助けられる。あとは、眠りのキス」
「突飛すぎるよ。もっとまともなのなら、僕でも手伝えたのに」
「夢見るだけならただだから」
満足気に口角を上げた。
「もう上がるよ」
さすがに、体も冷えて、太陽も沈んできたので、彼女を抱えたまま、プールから出ようとした。
「好きだよ」
中野は耳元でそう囁いた。
僕もそうだよ、と言いそうになったが、焦らず様子を伺った。
「リップサービスだけどね」
やっぱりそんなことだろうと思った。彼女の罠にも馴れ馴れだ。
「そんなことだろうと思った」
僕は着替えなんか持っていない。タオルは念の為、持参していた。
僕は髪や腕など、拭けるところだけ拭いて彼女を待っていた。彼女は女の子だからか、それなり時間を費やしていた。
中野は体育着姿で出てきた。
「着替え持っててよかったね」
「え? 逆に持ってきてないの? 濡れるに決まってるじゃん」
絶対に濡れるのは彼女の場合であって、僕には当てはまらない気がした。
「でも下着まで持ってくるのは忘れちゃった」
彼女は「ほら」と言って、僕の手を握り、僕の拳を彼女の胸に当てた。
生乾きなうえに、体温を帯びていた。その下に柔らかいものがあった。
「あ、まって、違うよ。そういうつもりじゃないから」
彼女は自分がした過ちに気づき、頬を真っ赤にした。それは紛れもなく、中野の照れ顔で、計算ではなくほんとに間違えたのだと、吐露していた。
女の子は攻めてる時より、引いてる時の方がかわいい顔をするもんなんだな。
家まで送れという彼女のため、着替えたい気持ちを抑え、濡れた制服のまま、最後まで付き合った。
その間、中野は僕の手を握るだけして、一言も喋らなかった。
もうすっかりと汗の滴る夏に突入している。
僕も正直、修学旅行を待ち望んでいた。僕が修学旅行を楽しみにするとは、全く想像もつかなかった。こんなに待ち焦がれるのも、中野のせいであろう。
梅雨は明けていたが、忘れ物をばら撒くように、ダラダラと雨が続いていた。
もちろん、廊下は泥で汚いものだ。
それを見てやっと思い出した。素行の悪さを解決するいい提案、ビジネス本に書かれていたことを思い出した。それは注意するのではなく、感謝の言葉で人を動かすというものだ。
例えば、廊下の壁に貼ってある注意書きには、「汚れを落としてから入ってください」や「学校はみんなの場所です。綺麗に使いましょう」などと書いてあった。
これを感謝の言葉に直すと次のようになる。
「いつも綺麗に使っていただきありがとうございます」
あらかじめ感謝することで、汚すことに抵抗を覚えさせる技だ。
僕は中野に頼んで、注意書きの変更とアナウンス原稿の見直しを促した。
「やっぱ、頼りになるじゃん。ほらね、私の言った通りでしょ」
肩をバシッと叩かれた。
「まだ、結果は出てないけどね」
「うまく行くって、一歩ずつだよ」
僕も無駄骨にはならないような気がした。
中野はやっぱり、面倒なことを言い出した。
「だから、今日、理佐の誕生日なんだって」
「だからって僕がプレゼント渡すのおかしいだろ」
「おかしくないよ。だってもうハグもしてるんだし」
理佐とはクラスメイトであり、いつかのカラオケで僕に抱きついてきた人だ。中野が理佐に誕生日プレゼントを用意したんだが、それを僕からのプレゼントと言って理佐に渡してほしいとのことだ。
「だいだい、僕は君も彼女に結構なことやられてるんだよ。誕プレなんかあげなくていいよ」
「そんなことないよ。私がシカトして喧嘩売ったんだから、理佐が怒るのも当然だよ。ホントはいい子だから。いま私からってあげる方が不自然でしょ」
中野が巻いた種じゃないか。それは僕が伝えることじゃないからやらない。
と言いながら、結局、彼女の心を折ることができずに、中身の知らない袋を持って、理佐とやらの前に参上した。教室では目立ちすぎる。ひとけのないタイミングを伺い、廊下の角で捉えた。
もうどうにでもなれと思いながら、「これ、誕プレ」と言い渡した。
「は? どういう意味?」
理佐は困惑する。
どういう「事」? ではなく、どういう「意味」? と聞いてくるあたりに何か男女間のややこしさを感じざるを得ない。
「意味とかないよ。気まぐれだよ」
「キモいのとかじゃないよね?」
意味深な距離が、僕らに生まれる。
「違うよ」
中身は知らないがそう答える。
「一応もらっておくね。一応ね」
と言った感じになった。まあ受け取ってもらえただけでも、よしとするか。
その日の夜、電話が鳴った。中野からだった。
「もしもし」
「一方的に伝えるから、聞いて。明日から学校、休もうと思うんだ。修学旅行まで命が持つように。思ってたよりたくさん喋っちゃったからさ。だから今度会うのは、修学旅行の前日、夏休み入る前だね。それまで、連絡も取れないからね。我慢できる? できないよね。てなわけで、弁当、毎日校門まで持っていくから。取りに来てね。言葉は交わせないけど、顔をくらいは見れるからさ。じゃあね、楽しみに待ってる」
それから中野は昼食の時だけ、姿を現した。
パジャマ姿で化粧も薄く、髪も結んでいなかった。送迎する彼女の母とも何度か目があった。僕らを監視しているように感じた。僕はそのとき、一つの決断をした。
彼女から弁当を受け取る時、僕は「ありがとう」とだけ言う。
そのとき、中野は何度か寄り添うように、僕にハグをした。僕はそれを何度も受け止めた。お互いの手心だけで意思疎通をしあった。
普段、身にしている香水のような匂いはなく、布を火に干したような人の温かい匂いが嗅覚へと伝わった。
車に戻る彼女。何度も名残惜しい、背中を見せられた。
放送部の仕事にも、僕は精を出していた。中野から弁当を受け取っているのだから、当然だ。
僕は滑舌も声も良くないが、言葉は工夫した。感謝を軸にした、人の心に届きやすい言葉を選んだ。
あいも変わらず、加藤の厳しいお咎めが続いていが、修学旅行が近いからか、機嫌がよかった。
日は巡り、修学旅行の前日、影に身を隠したくなるほどの、眩しい日が差していた。
「優希、これ」
朝の支度をしていると、母から弁当を渡された。
「急にどうしたの?」
「最近、朝早く起きて学校に行くし、夜帰ってくるのも遅い。やっと何か頑張り出したんでしょ。顔つきも変わったし」
「あ、そうなんだ。でも弁当は大丈夫だから。また今度」
朝は放送、夜は原稿を考えるために図書室にこもっていた。確かに今の僕は以前より前向きになった。
「それならいいけど。じゃ頑張ってね」
「うん、行ってくる」
僕は家を出た。今日は久しぶりに中野と話せる日だった。
中野は放送室に足を踏み入れた。
「今日は私がやるね」
「喉大丈夫なの?」と心配する加藤に「平気」と言い切った。
「全校生徒のみなさんおはようございます」
いつものアナウンサーのような冷静な口調とは打って変わって、子供のように感情をはずめせていた。
「いよいよ明日、修学旅行です。苦楽を共にした友人との絆はさらに深まり、新たな交友があるかもしれません。普段は見えない一面が見えたり、新たな恋も始まるかもしれません。くれぐれも怪我と体調不良だけは起こさないように。この三日間がみなさんにとって素敵な思い出になることを祈ります。張り切って生こう。
今日の一言は、旅は道連れ世は情け
共に道ゆく仲間に感謝を忘れずに、助け合っていきましょう」
彼女の気持ちのたかぶりは、二学年のみならず、全校生徒に伝わった。
「はあー終わったーー」
中野はマイクを切り、そう漏らした。これが校内で流れた中野色葉最期の肉声だった。
僕ら二人は放送室に残り続けた。
「もう授業始まってるよ。行かなくていいの?」
「君だって受けてないじゃないか」
「私は病人だからいいんだよ」
「明日、沖縄行ったら何やりたいの?」
「全部だよ。水族館に行って、青い海で泳いで、名産物食べて、ホテルで恋バナする。手伝ってよ、約束ね」
「約束。むしろ覚悟してよ。僕も楽しみだから」
「とっくにしてるからって」
「僕と同じ班でよかったね」
「こっちのセリフだよ」
夜になってベットに入る。僕は彼女との日々を思い返していた。彼女のことを一言で表すと、かわいい猛獣だった。飼い慣らし方も、もうわかっている。彼女にとって特別な三日間になるように、僕は全力でサポートしようと誓った。
前日とは思えないほど、安らかに眠りに落ちた。
大空を舞う飛行機から降りた先には、本場の夏が待っていた。中野は空港内を俯いて歩いていた。様子を伺うと、似合わずに彼女は悲しげな顔をしている。僕が前に立つと一歩下がって「あ、ごめんさなっ」と他人にでもぶつかった時のようなセリフを言った。
「なんだ優希か……ビクッリしたよ」
「下なんか向いてないで、前向けよ」
彼女はハッとした後に「そうだよね」と歯にかんだ。
僕らは順にバスに乗せられ移動する。中野は僕の隣に座った。
「ねえ、私窓際がいいからこっちに寄りな」
「はいはい」
彼女は満足そうに移り変わる沖縄の景色を楽しんでいた。
「ねえーもう一回だけセリフゲームしない?」
「しないよ。約束でしょ」
「約束か……」
行きのバス内は、有り余る生徒の活力に溢れかえっていた。
「見て! 海が見えてきたよ」
彼女は足をゆらゆらとさせ始めた。楽しんでる様子で何よりだ。
バスが停まると、我先にと次々と生徒たちが降りていった。みんなが降りたところで僕たちも立ち上がった。
「やっと海に着いたよ」
そう言って振り返ると、彼女はうずくまって、呼吸を荒らしていた。やっぱり万全ではなかった。胸が騒いだ。
「どうした? 立てる?」
「……やっぱ、無理かもしれない」
涙を堪え、彼女は拳を力強く握っていた。彼女は初めて弱音吐いた。それがどれだけ辛いものか、僕の覚悟もぶれさせるほどだった。
「立って。行くよ。もうすぐそこだから」
「もしかして私って邪魔? 迷惑?」
「そんなわけないでしょ。迷惑がなんだよ。君の好きにしろよ」
僕は彼女の背中を押した。ここで引き下がることを彼女は望んでない。約束したから。
中野は精一杯の気力で、僕にしがみつきながら立った。その姿を見て、僕も手伝わずにはいられなかった。
彼女の腕を肩に乗せ、両足を持つ。おんぶする形で海辺まで歩いた。
果てのない水平線が広がり、冷たい風が僕らを迎えた。海は青く澄んでいて、海底を覗かせるほどだった。
「きれいだね。涙が出そう」
彼女は僕の支えなしに立ち上がった。集合の合図を無視して、僕らは感情に浸り切っていた。
みんながバナナボートやらマリンスポーツで時を噛み締めている中で、僕らは海のほとりにある屋根のついたベンチに腰を下ろした。
「さすが君は見てるだけが限界だね」
「そうだけど、こうやって遠目に見てるのも青春かもね」
遠くでクラスメイトたちもはしゃいでいた。
「言わなくていいの? 友達に、君がもう時期この世を去るって」
「言ったら悲しむでしょ」
「突然、いなくなる方が悲しいんじゃない?」
「そんなことないよ」
彼女は知った口で言った。
「何かあったの?」
「べつに……」
「言いたくないなら聞かないけど……」
うじうじとためを作った後、昔年の思いを晴らすように吐露した。
「やっぱ聞いて。私、双子の妹がいたんだよね。三年前まで。死んじゃったんだ。みんな悲しい顔してた。私もすぐには立ち直れなかった。でも、数週間も経つとみんなケロッと元に戻って笑ってた。友達も、クラスメイトも。案外、過ぎたことへの切り替えは人間、早いなって。置いていかれた気分だった」
「君もそうなるってこと?」
「そうだよ。当時は寂しいなって思ったけど、今は気楽でいいなって思う。引きずられるの好きじゃないし……」
「心では引きずってた人もいると思うよ」
「多少はそうかもね」
寂しいことを言う人だ。慰めの言葉も浮かばなかった。
「僕は引きずると思うよ、君が死んだら」
「心配すんなって。絶対立ち直るから、約束する」
今、考えるのはやめにしよう。修学旅行中だ。
「そうだ。君に頼みたいことがあったんだよね」
僕の願いに彼女はキョトンした表情をした。
ここで星野先生を呼んだ。
「先生もなんでもしてあげられるわけじゃないからね」
とは言うものの、星野先生は僕の頼みに耳を傾け、車を出してくれた。
予定のプログラムから外れていたので、脱獄して、寿司でも食いに行ってるような気分だ。
「えーー。優希ってお花が好きだったの?」
中野がびっくりするのも無理はない。実際好きというわけでもないし。ただ思いを伝えるにもさまざまなやり方があるので、ここを選んだ。
「見つかったら咎められるから早くしなさいよ」と星野先生が忠告する。
僕は一直線にお目当ての花を探した。中野や星野先生も店内を見回って、それなりに楽しそうだった。
いくつか花を買ったのち、一つは中野にあげた。白の中にうっすらとピンク色が交わるバラの花束、片手でも持てる小ぶりな丈長タイプを贈った。
「え? これ私に? どうしたの急に」
「ついで」
「え、ありがとう」
女の子の賢しらなき真剣な表情になった。
あんまり時間もないので、彼女の反応に目もくれずに、すぐ次の目的地に向かった。
「まさか花束をもらえる日が来るとは思ってなかったな。それもあの優希から。照れるなー」
車の中で彼女はわきあいあいとして、こう続けた。
「告白通り越してプロポーズだよ。ほんとに、やるじゃん」
「大それたものじゃないって」
「大それたものだって」
「それから手伝って欲しいのはこれからだから。君に作って欲しいものがあるんだ」
「え? なに?」
それからショッピングモールに向かった。
済ませた頃には、みな海沿いのホテルに着いていた。
「うわー、もう水族館逃したよー」
嘆く中野。
「水族館は明日だよ」
オレンジ色を灯すホテルに着いた。幻想的だ。
「ここからが本番だー」
はしゃぐ彼女の横で、とりあえず一休みしたいと思う僕。
「あんまり騒ぐとまた体調崩すよ」
ホテルは二棟あって、男女で棟が別れている。僕らはここで一旦お別れだ。
「じゃ、ご飯のとき呼ぶね」
「わかった」
僕は自分の部屋に向かった。彼女に呼び出されるまで、部屋でゆっくりしたい。
班と別行動をしていた僕は、若干入りずらいと思いながら、ゆったりと部屋に侵入した。
僕と同じ部屋の人たち三人はすでに寛いでいた。僕に似たおとなしいクラスメイトだ。
旅行先のベットは疲労もあってか、格別に心地よかった。
部屋の三人が外へ出た。おそらく夕飯でも食いに行ったのだろう。夕飯はホテルのビュッフェだ。六時から八時の間で好きな時に食べに行けばいい。席が空いてから行きたいところだ。
うたたねしてるところ、甲高い音に叩き起こされた。ホテルの置き電話だった。自分で作った話を思い出した。幽霊はフィクションだと、僕が誰よりも知っているので臆することなく受話器を手に取る。
「優希、私のこと好き?」
「おい、何やってるんだ」
中野だった。よくもまあこんなに悪戯が思いつくもんだ。
「ねえー好きって言わないと成仏しないよ」
それは困る。
「よく僕の部屋がわかったね」
「しおりに載ってるじゃん。そんなことより、私の部屋に来なさいよ。恋バナしよう」
「いや、そっちは女子の棟だし。ましては君、意外に女子生徒だって部屋にいるだろ」
「意気地なし」
「変態になりたくないだけ」
それから、髪を乾かしたらご飯食べに行こうとだけ交わした。もう風呂に入っていたらしい。僕は飯の後でいいや。もっかい寝よ。
目がうっすら覚めると三人組が部屋に帰って来ていた。なおかつ、慌てふためいてもいた。
「あのー、呼んでるよ……」
三人組の一人にそう言われてドアの方に目をやると、中野が立っていた。そりぁクラスメイトもビビる。そもそも男しかいない棟なのだから。
「なに寝てんのよ。ずっと呼んでたんだから」
「ごめん」
あくびを堪え、一階まで降りた。食堂は程よく空いていてベストタイミングだった。彼女は最後の晩餐かのように、肉のようなカロリーの高いもの主体で皿の上を持っていった。
適当な席についた。今日はカップルであっても男女座ってる人はいなかった。思いのほか謙虚だな。
僕はもう慣れたので、堂々としよう。
「え、もっと肉食いなよ。ほれ」
「ちょっと取り過ぎたからって僕に移したろ」
毎度毎度のことだ。
「あー、おいしいな。やっぱ、ホテルのご飯は。私の料理ほどじゃないけどね」
お手洗いから席に戻る時、山口が視界に入った。奴に二人で食べているところを見られるのは、さすが避けるのが無難であろう。僕は隠れるようにトイレに戻った。案ずるより産むが易しとは言うものの、奴を警戒して損はないだろう。手を二、三度洗ってやり過ごした。
ご飯を済ませた後、僕らはホテルの外にあるベンチに腰を下ろした。星の煌めく夜空のしたで、彼女と風に吹かれた。
「あしたの自由時間どこ行く?」
「君の行きたいところに行こう」
「二人がいいな。二人で抜け出そう」
「そうしよう」
「もう帰れないところまで遠くに行きたいな……」
「君が行きたいなら僕はどこへでもついてくよ」
「天国でも?」
「……」
「冗談だよ」
「君が言うなら」
「だから冗談だって」
中野は立ち上がって背伸びした。
「なんだかんだ海がいいな。濡れたい」
「風邪ひかないでよ」
「こっちのセリフだよ。優希、カラダ弱そうだから」
彼女は部屋に戻っていった。僕はもう少しベンチに残って夜空を堪能した。星がこんなにも眩しく思える日はもう二度と来ないんだろうな。
ベットの上で僕は、掛け布団の中にくるまっている。すでに消灯され、日もまたいでいた。僕は中野とスマホの電話で繋がっていた。同じ部屋の生徒を起こさないように小声で話す。電話越しから、布団のさする音が聞こえる。たわいもない言葉をだらだらと途切れぬように交わした。次第に言葉の間隔が開いていく。いつの間にか、僕らは寝落ちしていた。
二日目は沖縄を満喫できた。まずは水族館遊泳するジンベイサメや行儀良く踊るイルカなどを目の当たりにできた。その間、中野はお腹減った、食べたい、などとお魚たちを餌としてしか見ていなかった。残酷な人だ。
水族館が終わった後、みんなからすると、僕たちは逸れたように感じたのかもしれない。わざとなのだが。星野先生が何かと帳尻を合わせてくれた。感謝しても仕切れない。
僕らはどこかもわからぬ海にいた。彼女は裸足になって足を海水につけた。
「つめたっ」
僕のほうを見て、彼女は破顔した。
僕も続いて海に入った。波のせせらぎと彼女の笑い声だけが広がっている。
「あー、このまま波に沖までさらってもらおうかな」
「そんなことさせないよ」
「じゃあさ、攫われないように抱っこして」
僕は彼女の体を自然と持ち上げた。楽な形を選んだ結果、たまたまお姫様抱っこになった。そのまま水辺から砂浜まで歩く。
「これでいいでしょ」
彼女は首を横に振った。だからほんの少しだけこのままでいた。
近くにあった売店で沖縄ならではの食を見つけた。サーターアンダギーやアセロラジュースなどを彼女に奢った。
「あまっ。こっちはすっぱっ」
感想を口にしながら、彼女はもぐもぐと食べた。
それから、海を背景に何枚か写真をとった。正直、彼女の顔さえ写っていれば、それだけで十分魅力的な絵になるが、ついでに僕も写った。
今夜、ホテルではビンゴ大会のようなものがあった。大きな会場に全生徒が集められた。生徒の電話番号が書かれたくじを順に引いていき、当たった人に景品があるというものだ。景品にはゲーム機やヘッドフォンなどがある。景品に外れた多くの人でも、袋詰めのお菓子があたる。
「それでは一人目のくじを引いていきます。初めの景品はスピーカーです」
進行役は放送部だった。勤めたのは加藤と補助に松尾の二名で、僕と中野は生徒と同じようにただの参加者だ。
「優希、当たったら頂戴」
中野がつぶやく。
「当たったらね」
今更物欲なんか湧かない。
「今、電話をかけます。鳴った人が当選者です」と加藤がゲームを進める。
みんなが耳を澄ました。左奥の方で誰かが騒いでるようだった。男の人が当選すると台に上がって景品を受け取っていた。さらに当選者は一分間スピーチをしなくてはならない。僕はこれが嫌で当選したいとは微塵も思わなかった。当選した男は「修学旅行サイコー」と呑気なことを叫び、ベラベラと中身のないことを話していた。
こうして淡々と当選者が選べれていった。こんなに嫌な緊張をさせられるくらいなら、電話番号書かなきゃよかった。
そして最後の当選者のくじが引かれた。ここまでこればもう大丈夫だと肩の力が抜けそうだった。
誰かの電話が鳴った。
それは僕のそばで鳴っていた。まさかだろと冷や汗が沸く。ただ、冷静に耳を傾けると、僕のスマホのメロディではない。それは中野のスマホの音だった。中野は僕の顔をマジマジと見て固まっいる。
全生徒の視線が音の鳴る方へ集中する。
彼女の顔は喜んでいなかった。何も言わずに眉をひそめたままだった。僕は悟った。彼女はスピーチを嫌がっていると。だから僕は彼女のスマホを取り上げ、台の上に歩き出した。僕は後先考えずに彼女のことだけを優先した。後悔はない。僕は腹を括った男だ。
台の上に立つと想像以上にライトが眩しかった。ここで何を語ればいいのだろうか。適当にこなすのか。僕は仮でも放送部だ。それなら生徒を元気づけることだろうか。
百人を超える視線の圧迫感で押し潰されそうだ。
「まともなこと喋ってよ」よ加藤に釘を刺される。
どうしようなにを話そう……
こればっかりはほんとに馴れないな。
彼女のスマホをポッケにしまおうとした。そのとき、持ち歩いていた未練が手にあたった。あのとき、中野とセリフゲームした一枚のカード。そこには「好き」と書かれていた。僕は後悔していた。あのとき「嫌い」と言ってしまったことを。だからこのカードを戒めの品として持ち歩いた。
「はぁ」と重たいため息が出た。
「好きなんだ……」
もう後悔はいらない。僕はこのカードに背中を押され、マイクを握りしめた。僕がいま言うべきことは一つしかなかった。
「僕は中野色葉が好きだ! ずっと初めて話した日から。弁当を作ってもらったり、放送部に入れられたり、ゲームしたり、プールでびしょびしょになったりして、色葉は笑ってた。そんな顔が大好きで……救われた。僕の暗い人生に灯が灯った」
色葉は目に雫を浮かべた。それは初めて見る涙だった。鼻をすすりながら、淀みなく出る涙を両手で拭った。
「色葉、だいす……」
息ができない。空気が吸えない。体が全く言うことを聞かずに重力に叩きつけられた。
スピーチ中に蹴りを溝に食らったのだ。それもサッカー部の。あいつだ。山口だった。
「おい、立て。お前みたいな奴が中野に告ってるんじゃねーよ。気色悪いんだよ!」
山口は僕の襟を掴み激怒する。
やっぱり怖い。身の毛がよだつほどだ。けど今引き下がるわけにはいかない。踏ん張れ! ここが人生最期のチャンスなのだ。骨が飛びそうな蹴りを数発食らった。だからなんだ。彼女の病気に比べれば屁でもない。涙を堪え、僕は一歩も引き下がらなかった。
周りが騒然とする中、一番初めに仲介に入り僕を守ってくれた人がいた。色葉だった。
色葉は山口の肩を突き押して「あんたに何がわかんのよ。この鰐ミソ野郎が!」と言ったあと、目もくらむビンタを放った。母親似のいいビンタだった。
それを聞いて僕は寿命を十年縮めて立ち上がり、色葉の肩を両手で押した。
「そんなことに寿命使うなよ! 暴言なんか吐かないでくれ。君には似合わない。お願いだから」
色葉は一呼吸置いて、僕の手を握って下げさせた。
「私、山口のこと嫌いだから。あんたとは付き合えない。男はもういるから」
山口は腕を振り上げた。僕が身を挺して守ろうとしたが、その必要はなく駆けつけた教師によって鎮火された。
いまだ。もう一度しっかり言おう。
「色葉、大好きだよ」
僕は全生徒の前で正々堂々と言い放った。
色葉ただ黙って僕に抱きついた。僕も人目も気にせず人肌を味わう。彼女はまだすすり泣きをしていた。
会場は、現状に言葉がでず銅像のように固まっていた。
僕は自分の言いたいこと言った。彼女は死んだら言葉を残せない。それは僕も一緒だ。彼女が死んだら僕の声も彼女に届かなくなる。だから絶対にいま伝える必要があった。たとえそれが色葉にとって迷惑であったとしても。
夜会は幕を閉じた。みんなにとっては、後味の悪いものであっただろう。
会場から多くの人が出た後、放送部で片付けを済ませた。そこで加藤が騒いでいた。
「なんで私の分残ってないの? あんなに頑張って準備したの私なのに……」
どうやら、みんなに当たるはずのお菓子だが加藤の分がないらしい。
「もう、みんな自分勝手すぎる。大嫌い」
絵に描いたように不機嫌になった。
「これでよかったらあげるよ」
僕は当選したヘッドフォンを加藤に授けようとした。正直、音楽好きの僕としては、大事にしたいところだが、人に声をかけるのが放送部なので。
「は? なんでよ。馬鹿じゃないの!」
「君が頑張ってたの見てたから」
それでも気がすまない様子だったが、一応受け取ってもらえた。
色葉が僕を女子の棟に引っ張ろとする。
「だからそれは良くないよ」
「そうじゃないよ。怪我してるでしょ。星野先生に診てもらわないと」
とそこで背後から近づいてきた星野先生が「ほら行くよ」と言って聖域の女子棟に連行された。
油断してか廊下で平気で下着姿で出回っている人がいる。犯罪者のような気持ちにさせられたが、色葉が僕の手を引いてくれていたのが心強かった。
「外では服きなさーい! 恥ずかしいでしょ!」
星野先生の声が響き、それに気づいた生徒たちが半ば悲鳴のようなものを挙げた。
一番奥の部屋まで案内された。
「ここ誰の部屋?」
「救護用だから、誰の部屋でもないよ」
星野先生は答えた。
部屋に入って体を診てもらったが、大事には至ってないらしい。
「ごめんね、私がもっと早くに断っておけばこんなことにはならなかったのに」
「過ぎたことだから、もういいよ」
色葉は僕の腕に手を回し、体を預けた。あれから急に距離が縮まった。
「私ここで寝ようかな。いいでしょ先生、ここ使って」
「特別ね」
「優希は怪我人だからここにいていいよ」
二人だけの夜が始まった。女の子と部屋で二人になるのは僕には経験のないことだった。胸が疼くような甘酸っぱさが沸き立つ。
色葉はどこからともなくお菓子を持ってきた。僕はつまむ程度に菓子を口に運んだ。
「それで、いつから私に恋してたの?」
「いやどうだろう。いつからだろう…… カラオケあたりだったかな」
「あー、ハグしたやつだ。あれで好きになっちゃったんだ。わかりやすいね」
「改めて言わなくてもいいよ」
「まさか理佐ちゃんのことも好きになってないよね。ハグしてたし……怒るよ?」
「なってないよ」
色葉は残ったお菓子をそそくさと口に運んだ。
「ねえ、今から何したい?」
「なにって? 別に大したことしないよ」
「まって、私先にシャワー浴びるね。一緒に入る?」
「は、入んないよ!」
反射でそう答えた。
色葉は着替えを持って浴室に入って行った
「ねえ!」
浴室の響いた声が霧を纏わせていた。
「なに?」
「浴室の前に座っててくれる。ひと気がないと怖いんだよね」
「風呂が怖いの?」
「優希が怖い話したんでしょ。責任、もちなさい」
やれやれと、僕はシャワーの音がすぐそばで聞こえる位置に腰を下ろした。浴室から色葉は撫でるような鼻歌を奏でていた。
そうか女性の風呂は長いから気長に待たないといけないんだ。音楽でも流そうかと思った。そのときノックの音が響いていた。ドアを開けると星野先生が立っていた。
「やっぱりここに居たらまずいですか?」
「はいこれ。ちゃんと避妊しなさいよ」
「はぁっ!」
思わずうわずった変な声がでた。星野先生が夜のゴムを渡してきたからだ。
「あのこれは?」
星野先生はそれだけ済ませて自室に消えた。背中が妙に痒くなって落ち着かない。とにかく見られるわけにはいかないので、枕のしたに隠した。
星野先生は致命的なバカじゃないのか。それとも性教育者の鑑なのか。
「……した?」
色葉がなにか喋ってる。駆け足で浴室の前に戻り、とりあえず「うん」と言った。音楽なんて聴く余裕がないほど、僕の心がざわついてしまった。
「あースッキリしたー」
彼女が湯気とともに出てきた。髪をタオルでポンポンと叩いていた。
「次、優希入るでしょ? そばにいてあげようか?」
「君は、色葉は横になってていよ」
熱気がこもった浴室で僕はシャワーを浴びた。色葉の残り香が充満していて、ハグした時を思い起こされた。もう一回抱きしめるくらいはありかなと、下世話なことを考えた。ただ、今回も後悔はしないとだけ誓った。
僕は男なので、大した時間もかけずにシャワーを終えた。
部屋は暗くなっていて、オレンジ色の置き電気だけがうっすらと色葉の肌を照らしていた。
「私もそっちで寝ていいかな?」
ベットは二つあって、奥側の僕のところへ枕を抱き締めながら、ねだってきた。
嫌とは言えない。むしろ僕から行ってたかもしれない。僕は彼女も入るようにと枕を寄せた。
「え?」
「あっ!」
油断していた。ゴムを隠していたことをすっかり忘れていた。不快な気持ちにはさせたくないのに。
「どうして持ってるの? 私とヤルの?」
「これは手違いで、部屋に落ちてただけだよ。僕のじゃないから」
彼女は臆することなく、僕のベットに枕を置き布団に入った。僕の方が後から入る形と
なった。結局、僕が女の子のベットに忍び込むような不埒な立場となった。
静まりかえって、ただ天井だけを目にしていた。僕の鼓動が彼女にまで聞こえないといいけど。
「何もしなくていいの? 私のこと好きなんでしょ?」
僕は仰向けで寝ている彼女の顔を、うつぐせに肘をついて覗いた。
「そういえば君の答えを聞いてないよ。色葉はなんで僕と一緒にいるの?」
間があった。流れ星ほどの数秒程度だったが、願いが五つも言えそうなほど時を感じた。
「好きだからだよ」
色葉は僕の首を求めるように引いた。僕の頬に彼女の唇が当たった。そのときの色葉は天使のようにとびきり可愛く見えた。お互いの鼓動が身体に伝わるほど抱きしめた。
「最後までしないの?」
「しないよ」
「なんで?」
「好きすぎると、尊すぎて性欲が湧かないんだ。だからこうして抱き締めてるのが一番いい」
骨が当たるくらいに抱き締めた。
「そっか」
それからなんともない言葉が続いた。
「楽しかったね」
「そうだね」
「こっちみて」
「みてるよ」
「ちゃんとめをみて」
「みえてる」
「すき?」
「すきだよ」
僕らは誰よりも修学旅行の夜を楽しんでいた。
「どこがすき?」
「えがお……」
「ほか……」
「あ……」
「……」
「……」
「……さいごに……」
「……」
「きす……して……」
「……色葉、愛してるよ」
色葉は眠りについた。僕の胸の上で。安らかに呼吸をしていた。手もあったかい。胸に耳を当てると生々しい色葉の鼓動が僕を高揚させた。生きていた。色葉は血を通わせて生きていた。僕はそれを五感全てで体感した。もう一度、抱き締めなおした。尊い身体だ。
朝、目が覚めた。僕の体の上に重たい肉がかぶさっていた。
冷たい……
何度触り直してもどこに触れても体が冷え切って、熱が抜けていた。胸に耳を当てても何も聞こえない。心臓が張り裂けそうだ。誰か…… すぐに星野先生を呼ぼうとドアに手をかけたが、一歩先へ進めない。腹のそこでもうわかってる。知ってる。気づいてる。中野色葉が息を引き取ったことに。僕はもう一度彼女の元に戻り、最後に抱き締めた。
それから全然離れなくなり数十分がしてから僕はようやく星野先生に駆け寄った。
享年十七歳 中野色葉
葬儀の日。彼女の死を惜しむ涙がそこら中で流された。僕は心を空っぽにして参列した。生きていた人がいなくなる。そのことを僕は理解できないでいる。だってつい先日まで、笑ってたじゃないか。彼女はいまどこにいるのだろうか。声が聞きたい。
それに色葉は僕が眠るまで生きていた。いつ最後の一言を発したのだろうか。だれに? 母親と電話でもしたのか…… あれだけ頑張っても悔いが残るのか……
もちろんそんなこと直接聴くことはできない。中野母とは互いに一礼だけ交わした。今回、ビンタされなかった。
それからというもの家に引きこもった。ただただ時間を垂れ流した。そう言えば僕ってこんな人間だったな。ただの何もできない引きこもり。それに戻っただけか…… 君がいない世界の無価値な僕に……
時間の限り、いろいろ思い返した。色葉は絶対立ち直るって言ってたな。とはいえ僕は受け止めることすらできていないが。彼女のことを好きになったからこんなに辛いいんだ。体の一部を失ったみたいだ。あのバカがほれさすから。腹が鳴った。されど、体は全く動かなかった。なぜか部屋の壁を削ることにはまった。この時間でけは特別なにも考えなくてよかった。
一ヶ月はとうにすぎた。今頃学校にはいつもの笑顔が花開いていることだろう。
そうだ。色葉の留守番電話が残っていたじゃないか。それは悪口ばかり言われたものだったけど、今ならそれでも聞きたい。僕はスマホを手に取った。そのときベルが鳴った。母から友人が来ていると伝えられた。色葉の他に僕に積極的な人はいなかったはずた。幽霊かな?
そこにいたのは加藤だった。首にヘッドフォンを巻いていた。僕も色葉にあの世まで連れて行って貰えばよかった。
「あんたいつまで休んでるの?」
「どうして君がそんなこと、べつに関係ないじゃん」
「はぁ? あんた放送部でしょ。仕事手伝いなさいよ」
「君にとって僕は邪魔だったはずでは?」
「邪魔だよ。だけど、少しは良いところあるから。許す」
加藤はタクシーを止めた。
「学校行くよ」
「もう授業終わってるでしょ」
「原稿の読み合わせするから。黙って乗りなさい」
そこまで言うならと取り敢えず加藤の言いなりになる。タクシーのおっちゃんの後ろで加藤と肩を並べて座った。
「少しそのヘッドフォン貸してくれない?」
「少しね」
僕は加藤のヘッドフォンをスマホに繋いで留守電を流した。
背中に鳥肌が走った。
前に送られてきたものじゃない。いつのだろう。日時を見ると彼女が亡くなった七月二六日だった。思考が回って話が聞き取れない。もう一度、初めから再生した。
「優希、遺言ここに残すことにしたよ。気づいてくれたかな? 簡単には見つけられないようにしたつもり。私らしいでしょ。
いま優希は寝てるよ。私の目の前で寝顔を晒している。ホテルのベットの上でね。無邪気だね、寝顔は。
さあ……どこから話そうかな……
とその前に、結局えっちしないのかよ。優希ならよかったんだけどな。まあそれも君らしいからいいか。
じゃあ本題。
君は私と初めてあった日のこと覚えてる? ずっと前だよ。高校に入る前。今でも鮮明に覚えてるんだ。君だけみんなと違ってたもんね。
中学生のとき電車の駅に君はいた。不慣れな人混みの中、私は階段から落ちたんだよね。情けない話。結構痛かったんだけどね、大人はみんな素通りして行った。何かに追われているように。悪くは見えなかったけど、ちょっとばかり怖かった。そこで君に声をかけられたんだった。「大丈夫?」って私より焦った声で。擦りむいた膝にハンカチ当てられてさ。ぎこちなさはあれど見て目によらず、王子様っぽい振る舞いだったな。心が動いたよ。まあ、軽症だったからさそれっきりだったけど。
それから月日が経って私の記憶からも消えつつあった。けどあの日思い出したんだよね。
君がハンカチを落とした日。同じ市松模様のハンカチだったし、顔もよく見ると君だった。優希はパッとしないから、顔だけじゃ思い出せなかったよ。
ただ残念ながら君は変わってた。人を見限る人間に。なんかそれが納得いかなくて声かけたんんだ。君の優しいところが好きだったからさ。私ってぶっちゃけモテるんだよね。あはは。だから優しくされることって珍しくないし、それにうんざりさせられることもある。だけど、あのさりげなさと下心を感じさせない振る舞いは君しかいなかったな。
それでね……
……
情けは人の為ならず
あのとき君から教えてもらった言葉だよ。私の座右の銘。
優希は忘れてたみたいだけど……
言葉って周りに流されないくらい力強いんだって感激した。
だから恩返し……
あぁ……っ
……
うれしかったな。君を見つけたときは。人生が明るくなった。実はさ、私も絶望してたんだ。余命宣告されて。この世のすべて消えてしまえーって。あとは死ぬだけの人生だと思っていた。でも君に会ってからまだだなって思った。まだ私にはやりたいことがある。君がしてくれたみたいに私も言葉を遺した。そうやって目標ができると体が軽くなった。希望を見つけた。
君と出会っていろいろあったね。
ほんとに最初の頃は泣かされっぱなしだったよ。無視はするし、嫌いとか言うしさ。でもやっぱ根は変わってなくて私の体調不良にも気づくし、布団もかけてくれた。うれしかった。
それから、それから
はぁ……やっと好きって言われた時はもう感激だったよ。それもみんなの前で大告白。私のこと大好きすぎかよ。
私気づいたんだ。私も君と同じだったんだって。優希は人に嫌われるのが怖いから人と関わらない無愛想な男。私は人に嫌われたくないから人と関わる八方美人。
お互い成長したよね。私も君もいろんな人から嫌われて前に進んだ。だから今の二人がある。もう災いも怖くないね。
……
余命最後の一言。優希から愛されて幸せだった。
ありがとう。
大好き。
まだまだ話し足りないけど、今度は私か最後に君に伝えたい言葉を授ける。天国から応援してるぞ!
優希!
それじゃあ、あやすみ……
災い転じて福となせ!」
ヘッドフォンを耳から外した。唇を噛んで僕は必死に込み上げてくるものを抑えた。色葉との出会いも思い出した。僕が彼女に声をかけたから、彼女も僕に声をかけてくれたんだ。僕は間違っていなかった。
息が荒くなってきた。
「泣いていいよ」
加藤がそう言った。
僕は泣いた。糸が切れたように恥ずかしげもなく泣き伏せた。たまらずに声も出た。涙を拭くものもなくズボンに垂れ流した。
中野色葉に声をかけていて本当によかった。彼女に出会えて僕は前へ進めた。心でありがとうと何度も叫んだ。彼女に届くよう思いを込めて。
タクシーも学校へ行く道を、遠回りしてくれた。
「目も鼻もまだまだ赤いよ」
落ち着いて学校を歩く、僕に加藤は指摘した。その日は軽く予定決めと下読みだけで終わった。
僕は家に帰って、まだ彼女と作った未完成のものに手をかけた。それから星野先生のところへ行ってあるもの受け取った。中野母が持っていた、あのアルバムだ。兄弟に見えたもう一人の子は双子だったんだ。僕の目には色葉との区別が容易についたので、双子には見えなかった。
僕は松尾と墓参りに行った。色葉の隣には松尾の元恋人であり、色葉の妹の墓があった。
「悔いは残さなかったか?」
「残さなかったよ。僕は全力で向き合った」
「それならよかった」
松尾は少し報われたような顔をした。
後方から人がやってきた。中野の母だった。僕らは中野母に一礼した。
「あの僕、渡したいものがあって」
僕が中野母にそう告げると、松尾は先に降っていった。
「これ中野さん家族のアルバム」
「あーそれね。ありがとう。わざわざ」
中野母は物欲しそうにアルバムをパラパラとめくった。「あの子、あなたに迷惑かけてなかった?」
「とんでもないです。彼女には感謝しかありません」
最後のページはまで開いて、中野母は固まった。
「この花は?」
「押し花です。色葉さんがお母さんのために作りました。カーネーションの花です」
カーネーションの花言葉は母親への愛。気持ちを伝える方法は言葉以外にもたくさんあった。
中野母は堪えながらも、震えた手に涙を落とした。
「ごめんなさい。私、あなたにひどいことをして。怖くて責めてしまって」
「いいえ。僕は平気です。むしろおかげさまで僕は中途半端なことせずに済みました」
「また来てくれるかな? あの子のために」
「もちろんです」
僕は家族団欒を壊さぬよう、お墓から退いた。そのとき、
「あ! 私も渡したいものがあるの」
中野母が僕を引き止めた。遺言は受け取ったし、まだ何か残っていただろうか。
「これ、あの子があなたにプレゼントって買っておいて渡しそびれてた」
中野母から受け取ったものハンカチだった。僕が持っているのと同じ市松模様で色は赤色だった。あのとき、色葉が取り出したハンカチは血を吐くものではなく僕へのプレゼントだったのだ。
「あの子に、助けてくれた相手がわかったならハンカチ返しなさいって言ったんだけど、これは私がもらう。代わりに私が赤色をプレゼントするって聞かなくて……」
「ありがとうございます。大切にします」
ハンカチならもう少し早くに手元にあれば涙が拭けたのに。そう思って笑った。
一ヶ月ぶりの学校だった。あいにくのまた雨で床そうじを覚悟させられた。いざ学校についてみると、それほど汚れていなかった。気まぐれかとも思った。けれど注意書きを見直したり、放送の原稿を変えたりといった努力も無関係ではなさそうだ。一歩前進だ。僕の心だけは晴れた。
色葉は遺書を残していた。全校生徒宛のものだ。それを放送室で朗読するのは僕に任された。
「また泣かないでよね。ほんと私だから許せたんだよ。あんな醜い泣き方したら、全校生徒がドン引きだからね」
加藤が僕をいじる。
「もう泣かないよ」
僕は正式に放送部に入った。そしてこれが最初の仕事だった。
もう災いは怖くない。僕が色葉と縁で結ばれたのは災いを乗り越えたからこそ。災いなくして報いなし。災いの先にある幸福を求めて僕は前に進める。まさに彼女の言った通り、
「災い転じて福となせ!」
なのだ。
僕はその言葉を胸に、色葉の遺書を朗読し始めた。
「全校生徒のみなさんこんにちは。今日は特別な放送ですがお付き合いください。高校に入り次第、放送部を盛り上げてきた中野色葉が先月この世を去りました。悲しみに包まれる最中ですが、彼女からの遺言をみなさまに届けます。
遺言 中野色葉
全校生徒のみなさんこんにちは。中野色葉です。私は中学生の頃から、言葉で人生を豊かにすることに憧れていました。そのため、高校生になってから、みなさんに言葉を伝えられる放送部に入りました。念願のだったので始めたばかりの頃は失敗だらけでしたが、みなさんの支えあってうまく放送できるようになっていきました。次第に色葉の声好きだよとか、放送聞いて元気出してるなど、褒めていただけることが増えていきました。ありがとう。ほんとうにうれしかった。
それから順風満帆に放送活動を続けられました。そんなときだった。実は私は喉の病気で声変わりしてました。みなさん気づいてましたか? それにたった一人、気づいた人がいました。その人は私に放送部に入るきっかけをくれた人であり、言葉の魅力を教えてくれた人でした。まさかなと思って驚きました。だから私はその人を放送部に誘いました。最初は嫌がってたけど、なんとか落とせました。いざマイクの前に立たせてみるとそれは下手でね、みなさんを困惑させましたね。彼なりに本気なので、私に免じて許してあげてください。
ごめんなさい。私に無視された友人たち。傷つけてしまいました。けどそれでも私は人生最期の時間を彼と過ごしたかったのです。みんなのことが嫌いになったわけではありません。大好きです。ただ、人の目を気にせず、嫌われ者にもなってみたかった。摩擦を起こして本気で人とぶつかりたかったからです。そしてありがとうございます。おかげ様で私は幸せでした。
もう私が声を届けられることはありませんが、放送部にはまだ三名もいるので平気でしょ。
みなさんにも言葉を大切にしてほしいな。
言葉には自分を貫く強さが秘められています。みんなの心にも届いたらうれしいです。
虎は死して皮を留め、人は死して名を残す。
私の名前くらいは覚えて帰っていってくださいね。
私の声を聴いてくださった方、全てに感謝します。元気でね。