第四十七話 少年の魔女(1)
冬が終わったと言い切れるくらいに、ここ数日の気温は高くなっている。厚着をしなくても過ごせるほど、日も高くて子どもたちの声もよく聞こえた。
桜が咲くにはまだ早い。が、俺の周りには満開の桃色が空を囲うように並んでいた。
この庭も消えてしまうのか。
そう思って俺は、誰も見つけられない秘密の庭を見回した。
半分亜空間だから土地の所有者云々は問題ないだろう。そんな建前が言えるほど、今は酷く冷静になっている。
今日は、この世界から出ていく日。
関わった者みなが俺のことを忘れる日。
午後の昼下がりは暖かく、散歩するには最高な日差しだ。見送るように花弁たちがくるくると回ってみせ、足元へと着地していく。目を伏せて、静かに見つめていた。
魔法界に行けば二度と此処へ戻ってくることはできなくなる。
移動する時刻までは、あと半時間を切った。
姉ちゃんには買い物に行くとしか伝えていない。
家を出る時、変わらない様子で「いってらっしゃい」と言われた。もう弟に会えることはないというのに、彼女は呑気な口調で笑っていた。それを思い出して、覚えず目頭が熱くなる。
最後にちゃんと「ありがとう」を言えたから後悔はなかった。
ずっと親の代わりをしてきたのだ。彼女にはこれから、何にも縛られない自由な人生を謳歌してほしい。婚約者の人と幸せになってくれたなら、弟の俺は満足するから。
シンには最後まで言おうか否か、とても迷った。しかし彼の快活な笑顔を見た瞬間、曇らせてはいけないと思って口を噤んだ。
アイツは俺と違って心を許せる人も多いし、性格が良いから心配いらねぇだろうな。友人の一人に関する記憶が抹消されても、きっと変わらずいてくれる筈だ。六年も一緒にいる俺が言うのだから間違いない。
リーリンやシューク、その他魔法使いたちにも周知することはなかった。
前者の二人は魔法省にまで乗り込んで抗議しそうだったから、これで正解だ。彼女らの結婚相手になる日は永遠にないと思って、少しばかり申し訳ない気持ちが出る。結局、両者が俺に寄せてくれた想いに応えられなかったのが唯一の心残りだな。
そして最後は。
「千田くん」
柔らかな声が初春の風に吹かれて届く。
振り返るとそこには、無表情で立つ一人の少女がいた。
憧れだった白魔女に似た、異様に真っ直ぐで濁りのない眼差しに思わず息を呑む。やはりこの瞳に惚れたんだなと、改めて感じてしまうくらいに彼女の円な双眸に見惚れた。
「悪いな、泉。わざわざ来てもらって」
「そんなことないよ、私だって来たかったから」
抑揚のない落ち着いた声音は心地よく、鳥の羽根が滑っていくようだ。相変わらず感情が読み取れねーが、今はそれが救いだった。
聞く度に安心できていた声も金輪際、耳にすることはなくなってしまう。胸が切なくて冷たくて、思わず自分の右手をきつく握りしめた。
「本当に、行っちゃうの」
自然と俯いていた顔を上げる。
「嘘だと言いてーが本当らしい。強制的に転送されっからな」
「お見送りは私でいいの」
時折吹く冷気が叫び出しそうな心を紛らわせる。
俺は無理に作っていた笑顔を力なく剥がした。
「お前がいいんだ」
俺のことを覚えていてくれるのは彼女だけ。
それは本人にとっては酷なことかもしれない。俺から忘却魔法をかければ良い話だが、提案した時、彼女にはきつく唇を結んで拒まれてしまった。
残された時間はあと僅か。
立ち話しかできないが、最後に友人と話がしたかった。
「お前にはずっと謝りてーことがあったんだ。魔女狩りに巻き込んで、本当に悪かった」
「そんなことないよ。椿妃さんとか、林田くんたちと仲良くできたし。何だかんだ楽しかったかな」
「でも見たくねぇもん見せられて苦しかったろ」
「そう、かもね」
「忘れたくねーの?」
「まさか。覚えていたいよ、悲しかったことも嬉しかったことも全部」
「誰も覚えてねーのに?」
「うん。だって、もし千田くんが此処に戻ってこれたら困っちゃうでしょう」
「本気で言ってんのか」
「嘘に聞こえる? ちょっと心外」
「いや、泉が嘘を吐くことはねぇって知ってっけど。希望を見出すのは、」
「そうでもしないと泣いちゃいそうだから、今は強がらせて」
「はぁ、勝手にしろ」
「じゃあ勝手にするね。貴方のことも、貴方と過ごした日々も忘れないようにする。帰ってきたら思い出話ができるように」
「できたらいいな」
「うん。だから、千田くんも私のこと、忘れないでね」
「逆に忘れたいくらいなんだが」
「え、どうして」
「余計に虚しくなんだよ。変に期待すると痛い目見っから」
「戻ってこれる可能性はゼロじゃないでしょう」
「ほぼゼロだ。魔法省が不問にしねー限り」
「千田くんが戦争を止めたのに」
「正確に言うと俺じゃなくてお前な」
「でも千田くんがいなかったら、上手く話せなかったよ」
「そうか。力になれたんなら良かった」
「……魔法界ってスマホ、繋がらないんだっけ」
「電波が存在しねーからな。持ってってもただの金属の板になるだけだ」
「そっか。うん、仕方ないね」
ふと泉が黙り込んだ。
撓る枝から落ちた影が、彼女の面を陰らせる。黒髪が風に抗うことなく揺れて、吹かれて、その傍を桃色の花弁が横切った。
日光が差し込む。
彼女は睫毛を濡らしていた。




