第四十話 あなたに餞を(1)
この世界で最も惨憺たる戦場と化した場所へ、俺たちは向かっていた。きっと、そこは両者が互いのすべての戦力を全面的に使っている筈である。
泉の話を聞く人は多ければ多いほどいい。一人でも多くの心を救うことができるのなら、俺は何処にだって連れて行くつもりだ。
今度こそ、守り通してみせる。
夕焼けを覆い隠すように暗雲が立ち込めた。雨の匂いと冷気を孕んだ風が吹きつける。
目的地はもう少し先だ。
そんな場所に差し掛かった時、突如として異質なものが近づいてくる気配がした。
今は魔力を持つ泉にも、その感覚がわかるようで息を呑むのが聞こえた。怯えるというよりか決心するものに近いか。
眼下、恐ろしさと懐かしさの入り混じる影が立っている。
高度を落として俺は地面に足をつけた。泉には箒に乗ったまま下がるように耳打ちする。彼女は聞き分けよく、軽く浮いた状態を保って離れた。
「襲撃しないだけまだ良心が残ってんのか。それとも情けのつもりか」
「いいえ、単純に驚いたのよ。まさか生きているとは思ってなかったから」
「その台詞、そっくりそのまま返す」
頬の赤い入れ墨を歪ませ、母親は小さく笑ってみせた。
息子に向けられたこの顔は五年前となんら変わりない筈だのに、俺はこんなにも悔しくて惨く思う。この人は何も悪くないのだと分かっている、が、父親を殺したことは紛れもない事実。いつか必ず自分の手で終わらせようと考えていたんだ。
この不毛な親子喧嘩を。
彼女はするりと細い腕をこちらへ伸ばし、掌を空へ向けた。そこから溢れ出る汚泥は、意思を持って地面へと沈んでいく。地面に落ちる母親の影は巨大なものへと変化した。
あれは使い魔でもなければ生き物でもない。明確に名をつけるなら依代か。本体である彼女を倒せば、同時に消える類だ。
最初から良心も情けもない、つーことだな。
俺も魔法を唱えて武器を片手に握る。影の間合いを見計らって、接近戦に持ち込むのが吉だろう。
どちらからともなく、戦闘の火蓋は切って落とされた。
彼女は特別指示を出さない。ただ手を突き出し続けて傍観している。
影もとい泥は俊敏にこちらの動きを察知していた。足元に滑り込んでは飛び出し、攻撃を仕掛けてくる。俺が刃を振り出しても瞬く間に地面へと潜ってしまう。
コイツ自体、切れるかどうかは怪しいところだ。直接あの人を狙えたら話は早いんだが。
物は試しだと俺は一旦距離を取った。
「――サンダウピット・セット」
空にあるような黒雲を背後に生み出す。獣の唸りに似た音を聞きながら、左手を彼女へと向けた。
怖気はない。むしろ、この結末を望んでいたのだ。
母を少しでも早く、楽にさせてあげるために。
父と同じ場所へ行かせるために。彼に謝ってもらうために。
「一斉射撃っ」
ぱちんと音が空気を割る。半瞬後、鎖から解き放たれたかのように稲妻が一直線に噛みついていった。
圧で髪が嬲られる。彼女は虚ろな目で見つめるばかりだった。
俺の願いは届かず、影が途端に泥の壁となって矢を防ぐ。そして壁から針を飛ばしてきた。
回避行動を取りつつ頭の中では次の手立てを考える。
ただの陰影になったり実体化したりと、随分便利な手下だな。でも攻撃の手は案外単調。パターンを全て把握できたらいいが、他の魔法を使ってくる可能性が否定できねぇ。
殺意がねーのも気持ちが悪いな。
影を振り切った、あとは間合いを埋めるだけ。でも何処からともなく泥が行く手を阻んでくる。くっそ面倒くせぇ!
すると泥はドーム状となって、俺に覆い被さろうとしてきた。徐々に狭まる隙間から夕日が差す。
「――パワーマス・バンッ」
閉じかけた瞬間に力の塊を爆発させる。泥は弾け飛び、視界が一気に明るくなった。
目が眩んだ刹那、人影が肉薄してくるのを察する。咄嗟に下がって刃を向けたが鍔迫り合いになった。
「強くなったのね。咲薇」
鈍色の向こう。母親が死んだ眼差しで微笑んだ。
「強くならねーといけなかったんだ、お前がいなくなったせいでッ!」
押し切って距離を詰める。彼女は機械仕掛けの人形のように手足がバラバラな動きで後退した。
目下で泥が足を掬おうと口を広げる。舌打ちを零して跳ね、剣を遠くへ投げ飛ばした。
「――チェンジュ!」
瞬間、剣と俺の座標が反転した。
地面の影に剣は吸い込まれ見えなくなったがこれでいい。コールを使うより大きく移動できる。
砂埃をたてて着地し、腰を落とす。
懐に入ろうとしても相手が隙を見せねぇ。恐怖心など端からないみてぇな反応ばっかだ。そこまで俺は彼女に見下されてんのか? 俺が勝つはずないと?
それとも、実の息子だから母親を殺すことはできないと思われているのか。
癪だと思ってしまった。




