第三十八話 目醒め
閉ざされた視界が明らむ。
久しぶりに深く眠った気がして、俺は意識が浮上するのを感じた。
遠くで誰かが呼んでいる。
あれ、ここ何処だ。何してたんだっけ。俺、どうして眠ってたんだろう。
ズキ、と鋭痛が刺す。自然と漏れた苦悶が自分の耳にも届いた。
暗いが、近くに明かりがあるらしい。霞んでしまっていた景色が徐々に明確な色を持ち始める。
やっと重い瞼を押し開け、何度か瞬きをした。
始めに映ったのは、見知った黒髪の少女。
「い、ずみ、?」
「千田くん」
仰向けになっているこちらを覗き込み、彼女はいつもの無表情を崩した。大きく円な瞳は溶け出してしまいそうなほど潤み、やがて、ぽたぽたと雫をこぼす。
……なんでコイツ泣いてんだ?
涙が俺の頬に落ちる。輪郭を伝って、するりと滑っていく。
あーだめだ、頭が回んねぇ。全然寝る前の記憶が無ぇし、そもそも本当に目覚めたかどうかも曖昧だ。
でも、泉が泣いてることに変わりはない。
動かしにくい片手を彼女に伸ばす。まるでお面に取って付けたかのような涙は無機質に思えた。しかし同時に、間抜けな顔だと笑えた。コイツの無表情、もう見分けられるようになったんだな、俺。
指先に触れたのは彼女の短い髪。焦点が合ったりズレたりするせいで、いまいち上手くいかない。しかしやっと掌に伝わった感覚に安堵する。泣くなと、頭を撫でてやった。
吐息混じりの声で涙の理由を問う。彼女は珍しくしゃくり上げながら答えた。
「千田くん、死んじゃったんだよ。首、刺されて」
これほど取り乱した声を聞けるなんて幸運だと思いながら、彼女の台詞を咀嚼する。あぁ、そうか、殺されてたんだ。
「じゃあ、ここはあの世か? 呪い、解けなかった?」
問いかけに彼女は首を振る。呪いは解けたらしい、ではどうして冥界に泉がいるんだ。
寝惚け眼で不思議そうにする俺に、彼女は一呼吸置いて説明し始めた。泉は死んでいないこと、ここはハルデの亜空間で、彼には裏切られたこと、俺は生き返ったということ。
話を聞いているうちに意識が冴えてきた。記憶も断片的だが思い出せている。そうだった、俺は彼女を巻き込みたくなくて咄嗟に解呪の魔法を唱えていたのだ。
「ハルデが黒幕、つーことか。まったく、あのバカ猫は」
覇気のない声で呟く。なんだか一回死ぬと何にも驚かなくなるな。
少し考えて、どうやって俺を生き返らせたのかという問題に引っ掛かった。途切れ途切れに訊くと、彼女は抑揚のない声音で返す。
「シンシャが助けてくれた。それに、私に少しだけ魔力を貸してくれたの」
数秒、異様に無音な時間が流れる。思わず俺は飛び起きた。
「っはァ!? シンシャってあの!? ッ……いってぇ」
驚いたのは身体もそうらしく、貧血のように目眩がした。しかし今はそれどころではない。なぜ故人が助けたと言い切れるんだ? 幽霊にでも会ったのか?
泉はこちらを心配そうに見ながら手短に答えた。
自分はシンシャの生まれ変わりであると。
「なんで現れたのかは分からない、でも千田くんを蘇生させたのはあの子のお陰だよ。私の魂を継ぐ貴方なら争いを止められるって言って消えちゃったけど」
彼女自身も何が起こったのか理解できていないみたいだ。なんつーか、随分とスピリチュアルな体験をしたもんだな。
死者の念が顕現することは珍しいことではない。記憶に新しいのは、真吏っつったガキの話か。死んだ両親が、娘という心残りのせいで形を得てしまったあの出来事。
でも、まさか泉が生まれ変わりなんて。
た、確かに彼女の肖像画には似ているが、そんなことあるのだろうか。いや目の前で実際に起こってしまっているのだから、嘘でも幻でもないだろう。
そう思うと泉相手でもなんか緊張するな。
彼女は未だ不安げな面持ちで、体の方は本当に大丈夫なのかと訊いてきた。俺は首に手を当てたり、肩を回してみたりとするが特段、違和はない。
「シンシャって噂通り世話焼きなんだな、魔力も回復してる。これなら大丈夫そうだ」
若干の頭痛はするが、時間が経てば治りそうである。
とりあえず一旦この亜空間から出なくては話は進まない。ここは時間が存在しないから腹が減ることも年を取ることもないが、気が狂いそうになる場所だ。普通、生き物を飛ばす場所でもないがな。
戻ったらハルデにどんな罰を下すかも考えねーと。首輪をつけるだけで済ますつもりはない。泉まで傷つけたんだから、極刑が妥当だ。
あれこれと考え込む俺を見て、向かいに座っていた彼女が唐突に呟いた。
「千田くん。少しだけ、ぎゅってしたい」
「……は?」
脈絡のない願望に思考が停止せざるを得なかった。
目の周りを赤くした彼女は変わらず無表情でいる。言葉も棒読みな上、一切の感情が読み取れない。
意図すら汲めず、頭の中を疑問符だらけにした俺は、なんとなくで両腕を広げた。こういうこと、だよな……?
泉は膝立ちになって近づく。するりと細い腕を伸ばし、怪訝な顔をするこちらに構わず抱きついてきた。
今まで何度か抱いたことはあったが、どれも不可抗力だった。理由がないにも拘らず行う行動に、俺は内心動揺しまくっている。
彼女は俺の首に顔を埋めて二度、額を擦り付けた。控えめな花の匂いが髪から漂う。相手の体温が少しずつ服越しに伝わって、彼女の手が背中を握った。
恐る恐る俺も泉の背に手を回す。改めて思うが、こんなに華奢なんだなコイツ。
「よかった、生きてる」
震えた声で言われた。
そこまで不安にさせていたのかと反省しつつ、俺は熱くなった頬を隠すように答える。
「お前のおかげでな」




