第三十六話 子猫の影踏み
小柄な体躯に猫の耳、ラセットブラウンの毛色と蝙蝠の翼――悪魔のハルデが私を抱き上げ飛んでいた。
彼が片手を振り出すと周辺にいた人々は薙ぎ払われ、床に伏した千田くんまでの道のりを作る。瞬きの間に彼のもとに降り立ち、今度は指を鳴らす。すると魔女の姿は、池を作っていた血溜まりごと消えてしまった。
目を白黒させる私に構わず、猫の悪魔はぎゅっと抱きしめてくる。
離さないでねという言葉が鼓膜を掠めて、気づくと知らない場所へと移動していた。
塞ぎ込まれ淀んだ肺の中が吹き返す。冷たい風が意識を冴え渡らせて、目の覚めるような感覚があった。
外は曇天で、今にも雷が鳴り出しそうだ。
移動先は人気のない廃村らしい。荒涼とした景色がさっきの人混みと対比されて、一気に足の力がなくなった。
腕を離して、ハルデは座り込む私を見下ろす。
「ごめんね。こんなのボクも想定外だったよ」
「……千田くんは」
確かにこの悪魔への引っ掛かりはいくつもある。でもそれ以上に彼への喪失感が痛くて仕方なかった。後悔の念に苛まれて苦しかった。
ハルデは声の調子を落とし、淡々と話し始める。
「あれは即死かな。痛いと思った時にはもう死んだんじゃない? 一応体は亜空間に転送したから、人間界には帰せるよ」
彼の最後の声がフラッシュバックする。
「じゃあ、なんで私は生きてるの。刻印を刺されたんじゃ」
取り乱す私へ、彼はこれを見てと言う。ぱっと悪魔の手に現れたのは一枚の鏡。そこに映るのは酷い面相の私だった。
反射的に首へ視線を遣る。呪いの刻印が、ない。
「キミも死んでしまうと思って咄嗟に解呪したんだと思う。あの空間は無力化魔法が効いてたから、どちらにせよ反撃はできなかっただろうし」
過るのは、呪いを解く方法が分かったと教えてくれた彼の声。まだ一緒にいたいからという私欲のせいで、解かずに置いておいた。
じゃあ、あの時解いていたら?
少なくとも解呪の魔法は唱えなかった。代わりに何か違う魔法で対抗できたんじゃなかったのだろうか。
彼は死なずに済んだのではないのか。
「自分を責めてるんだ。可哀想だね」
悪魔が呟く。思わず私は大きな声を出した。
「ハルデも、なんで生きてるの。契約相手が死んじゃったのに」
主がこの世を去ったら普通、運命を共にすると聞いたことがある。では彼は何故、今もこうして平然と話しているんだ。
悪魔は頭上の三角耳をぴんと立て、妖しげに笑った。
「ときのちゃん、キミは何か勘違いしてるね。ボクの主は千田咲薇だけだといつ言った?」
あ、と思い至る。すべての引っ掛かりが繋がってしまった。
「千田くんのお母さんとの契約、切っていないの……?」
冷笑を浮かべる彼を、私は力なく見上げた。
「切ったけど結び直したと言うべきかな。ボクら悪魔の目的は契約者の魂をいただくこと、なのに槭の分はまだもらってなかったからさ」
「貴方、どっちの味方なの」
「どっちも味方だよ。主の意向に沿って行動してただけ」
彼の唐突な種明かしに、息が詰まった。信じていたのにと、心が悲鳴をあげる気がした。
日のない殺風景に影が落ちる。微笑む悪魔の声に、心があるようには思えなかった。
「ねぇときのちゃん。魔女にならない?」
楽しげに、ゲームを提案するかのような口調で彼は言う。
「憎いんでしょ、狩人たちが。千田咲薇を刺した奴が許せないんでしょ」
私の胸中を言い当てる彼は悍ましく、得体のしれない存在感を放っていた。禁断の契りを交わそうと、ハルデは尾を揺らす。
「ボクが力をあげるよ、それでキミは復讐すればいい。キミはずっと、ずぅっと力を欲していたもんね」
せめて私が魔法使いだったら。強い悪魔だったら。力になれる吸血鬼だったら。同じ魔女だったのなら、千田くんの足を引っ張ることはなかっただろうに。
今まで幾度となく願っていた。
普通の人間ではどうにもできないことを眼前で思い知らされて、いつも私は惨めだった。情けなかった。千田くんの役に立ちたかった。
うちに秘めていた欲が暴れ出す。
悔いの言葉が溢れ出る。
歯止めが、効かない。
「ボクと契約しよ。大丈夫、怖くないから」
悪魔の囁きが脳を撫でる。頬に触れてきた彼の指先は冷たく、生気が吸われていくみたいだった。
上手く考えられない。頭が回らない。ぼうっとして、頷けばいいと思った。
でも、何故か口を衝いたのは。
「いやだよ」
濁りのない拒絶だった。
ハルデはすっと表情を消して理由を問う。私は両手をきつく握って、彼の紅い双眸を見つめ返した。
「だって、私と貴方は友達でしょう」
自分のせいで何かが壊れるのはもう嫌だ。守りたい。千田くんが私を守ってきてくれたのと同じように、今度は私が守らなくちゃいけない。
これ以上壊れてほしくない。誰も、関係も、何もかも。
ただの人間の抵抗に、悪魔は三角耳を思い切り反らしてみせた。心底苛立ったみたいな、侮蔑と失望の色を湛えて瞳は瞬く。
「転生しても白魔女の魂ってこんなに強く残るんだ。あーあ、契約したら食べられたのに」
白魔女という単語に反応する。意味が分からず困惑した。
「まぁ、魂のせいってよりかはキミ自体の純真さのせいもあるんだろうね。そこもよく似てて虫唾が走るなぁ」
「なんの、話」
未だ何かを隠し続けようとする彼へ、私は不安げな目を向ける。
ハルデは温度のない視線で答えた。
「キミが白魔女シンシャの生まれ変わりだって話だよ」




