第三十五話 間違えたくなかった
ガクンと視界が下がる。命の危険から来る恐怖が身体の芯を襲った。嘘、落ちる。
千田くんが箒を捨て、私の肩を強く抱いた。反射的に私も彼の腕にしがみつく。
魔女が何か叫んだ。が、聞き取れなかった。代わりに地面が近づいた時、ほんの一瞬だけふわりと落下速度が和らぐ。それでも衝撃は大きく、地に落ちた私たちは動けなくなってしまった。
全身が痺れて痛い。感覚がない。頭の中まで響いて、視野が、回る。
変なところを打ってしまったのだろうか、立てない。力も入らない。
「くそ、無力化魔法かよ……自分たちも使えなくなるってんのに、アホか?」
千田くんは無事らしい、いつもの棘のある台詞が聴こえた。でも私は声を出すのも難しい。
大きく揺れる目を無理やり押さえつける。なんとか状況は分かったけど、四面楚歌であることには変わりない。
どうやら千田くんが使った重力の魔法も効果が切れてしまったみたいだ。周りの狩人たちが続々と立ち上がって、こちらへ近づいてくる。
右も左も、前も後ろも敵だ。
魔法は使えない。
逃げ道は天井近く。無理だ、届かない。
再戦の火蓋を切ったのは向こうだった。素手で魔女に襲いかかる。拳が急所を目掛けて噛みついていった。
彼も表情を歪めつつ応戦する。しかし数の暴力に勝てるはずがない。
「テメーも戦えよ!」「わッ」
死角から腕を引っ張られる。振り返ってすぐ、顔の左側に鈍痛が走った。鈍い音が立ったのは理解できたが、気づくと床に倒れ込んでしまっていた。痛い。
動かない私をまるでボールのように蹴り出す。息が、できない。
「泉!? ッがは」
千田くんの悲痛な声も聞こえた。だめだ、立たないと。もう足を引っ張りたくない。
蹴りの合間を見計らって歯を食いしばる。思い切り力を込めて相手の足に体当たりをした。
反動でなんとか立つ。呼吸が上がってしまっているが、まだ動ける。
私に押され体勢を崩した狩人が、腰からナイフらしきものを取り出す。流石にそれは抵抗できない。
「クソ女が、調子に乗んなよ!!」
刃が飛び掛かってくる。こんな時に限って足が怖気づいた。避け、ないと。
その先端が狙うのは首、呪いの証が刻まれた場所。間に合わな――
「やめろッ!!」
左から凄まじい力が掛かる。上体が揺らいで壁際へと倒れ込んだ。
千田くんが私のことを突き飛ばしたのだ。
既に血だらけの彼はナイフをやり過ごし、相手の顎を殴る。でも周辺にいた大人たちの手によって、彼は押さえつけられてしまった。
もつれ込むようにして体勢が揺らぐ。狩人ともども倒れ、魔女に馬乗りになった男が刃を振り翳した。
待って、やめて。
喧騒が脈を急かす。うるさくて仕方なかった。
「死ね!!」「千田くんッ」
鋒が彼の刻印に噛みつこうとした。その時。
「――ブレッカース」
彼の唇が紡いだのは魔法だった。
途端、何か固いものが弾け飛ぶ音が谺する。鎖が壊れるような音が。
だがそれに反応する前に、私は眼前の景色に息を忘れた。
無慈悲に叩きつけられる鈍色。
人混みの合間から上がった赤の飛沫。
途切れた魔女の嗚咽。
床に広がり始める鮮血。
そ、んな、
「あ? 印の部分突き刺したのに生きてるよ、こっちの女」
誰かがこちらを向いて言う。他の狩人たちも目線を遣った。
口々になんで死なないんだ、と言って歩み寄ってくる。人の流れの先、私は脱力したまま身動ぎもしない彼から視線を離せなかった。
思考が、停止した。
息の仕方が、分からなくなった。
受け入れられなくて、ただ分かるのは、心臓の痛み。
そして浮かんだ感情は、今まで感じたことのない怨恨だった。
真っ赤に染まった刃がこちらに牙を剥く。冷たくなった全身は、指先すら動けなくなっていた。
間近に迫る先端。あぁ、私も終わるんだと感じた。
「ちょっとー、こんなにいっぱいいるなんて聞いてないんですけどー?」
鈴の鳴るような声音。
認識するよりも早く体が浮いた。否、持ち上げられたのだった。




