第三十四話 反抗期の息子
眼前に立つ千田くんは、私より向こうにいる人影へ目を奪われてしまっていた。瞠目し、今にも泣き出しそうに潤ませている。
当たり前だ。死んだと思うようにしていた実の母親と、突然再会するだなんて。これまでずっと押さえてきたものが決壊してしまう寸前だろう。
でも、今の彼女は。
「お母さんはね、咲薇に淋しい思いをしてほしくないの。だからお友達と一緒にあの世へ行こうね、お母さんも追いかけるから」
魔女を狩る側の存在だ。
どうしよう、このままでは千田くんが殺されて私も死んでしまう。彼を正気にさせなくちゃいけない。
声を張ろうとした時。向かいに立つ魔女は低い声で言った。
「淋しい思いをしてほしくない? お前が言うのか?」
ぴん、と空気が張り詰めたのを感じた。彼から伝わるこの熱と気迫は、いわゆる魔力なのだろうか。
「自分が子供にしてきたことを忘れたか? なに母親ぶってんだよ、このクソババア」
千田くんの赤い双眸には確かな怒りと、哀しみが燃え盛っていた。
伸ばした手の指を弾く。すると私の目の前に立ちはだかっていた透明なバリアが粉々に砕け散った。破片は散乱すると跡形もなく消える。
そういえば、千田くんのお母さんの得意魔法は防御系だった筈だ。それを一瞬にして壊してしまうなんて。
彼は私の手を掴むと、鋭利な眼光で彼女を射抜いた。鏃の先、彼の母親は心底悲しそうに目を細めて言う。
「もう反抗期の時期なのね。お母さん、あまり怒りたくはないんだけど」
差し伸べられた手。血色のない皮膚から泥のような黒が溢れ出した。
それは意思を持ったかのようにうねり、白い地面へと滴る。やがて床に染み込んで巨大な影を生み出した。
大した光もないのに落ちる影は、怪物に近い形になったり水たまりのような円を描いたりしている。千田くんのお母さんが、伸ばしたままの手を握ってこちらを指さす。
彼女が痛くないから、と呟くと影は私たちの足元へと移動してきた。
魔女が再び箒に乗る。私も引き上げられ、柄に体を乗せる。既のところで浮上し、影が放つ針からは逃れられた。
あれ、この攻撃どこかで見た覚えがある。
「数が多すぎる、相手しきれねぇ。出口は分かるか」
千田くんが攻撃を避けつつ問うたが、私は首を振る。
ここへ連れてこられる時、眠らされたらしく意識がなかった。気づいたらこんな所にいて、千田くんがいた。
彼の母親が言った、一緒にあの世へ行かせるというのも冗談ではなさそうだ。でも彼女から伝わるのは殺気ではなく、慈愛の眼差しに感じる。
五年という時間が流れても、彼女に降りかかった洗脳の雨はまだ止んでいない。なんで、この人は。
ふっと彼女が手を下ろす。呼応して影も動きを止めた。
何事かと、怪訝そうに魔女が距離を取ったまま静止する。見つめる先の彼女は、唐突に倒れ込んでしまった。
心配するかのように周辺にいた狩人たちが駆け寄る。他の者たちはこちらへ敵意の鋒を向けてきた。
「今の私の手で直接、は難しそうね……あとは頼んだわ」
「どっちにしろ数変わんねーじゃん。泉、しっかり捕まってろよ」
小声で言われ、私は一つ頷く。同時に過ったのは、やはり自分は足手まといでしかないという事実。
攻撃の手は間もなく再開した。
千田くんは避けるので精いっぱいらしく、ひたすら出口を探し続ける。おかしい、窓どころか扉一つないだなんて。
何度か刃が掠めてきたが、気にも留めずに天井のギリギリを飛行する。室内でこんなに争ったら、建物自体が崩れてしまいそうだけど。
風が耳元で鳴き叫ぶ中、視界の隅。
飛び込んできたのは空気口に似た狭い空洞。
「っ! 千田くん、あそこっ」
咄嗟に指をさす。しかし彼が確認する直前。
ジュッという音が聴こえ、伸ばした手に激痛が走るのを感じた。私の手に炎の矢が当たったみたいだ。熱い。
呪いの相手が負傷したのに気づいた千田くんは、舌打ちをすると目下を見下ろす。そして躊躇いなく魔法を唱えた。
「――ラグラヴィティ!」
高く掲げた片手を、思い切り振り下ろす。すると地鳴りと共に人々の呻き声がそこら中であがった。皆、体が押し潰されてしまうかのように地に伏せ、起き上がるのも儘ならないらしい。
それを見て思わず口を開く。
「……最初から使えば良かったんじゃない?」
「これ魔力の消費すげーから使いたくねーんだよ。ンなことより手、大丈夫か」
「うん、軽い火傷みたいだし」
箒の向きを変えて、指摘した空気口へと進む。これなら外に出られると思うんだけど。
でも、私たちを阻む声が鼓膜を撫でた。
「う、ぅ――ユアルーズィー」
苦しげな嗚咽に紛れた呪文。
ガクンと視界が下がる。命の危険から来る恐怖が身体の芯を襲った。




