第三十三話 母なる悪夢の始まり(1)
外は思いの外落ち着いていた。どうやら戦闘は表――こことは反対側で起こっているらしい。裏口を教えてくれたあの女性には無事でいてほしいと願った。
魔法省と呼ばれる建造物はすぐ見当がついた。周辺の建物よりも遥かに大きく立派だ、あれに間違いない。
今一度走り出そうとした瞬間、ぴっと鋭利な痛みが首を引っ掻いた。
そこは呪いの刻印がある箇所。反射的に押さえ、じくじくと感じる鋭痛に焦燥が過る。手のひらを見ると真一文字に赤い線が付着していた。
血。
まさか、千田くんがあそこにいるの?
振り返るが離れたせいでよく見えない。砂ぼこりや火柱などが上がっているのは確認できるが、人の影までは判別できなかった。
数秒だけ迷って、私は戦場へ背を向ける。祈りと悲しみを胸に必死で走った。
彼が間違いなく怪我を負ったことに不安が身を隠せていない。ただでさえボロボロなのに、まだ戦わなくてはいけないのだろうか。まだ傷つかないといけないのだろうか。
神様でも、天使でも悪魔でもいい。どうかこの終わりなき争いに終止符を打ってほしいと、願わずにはいられなかった。
件の魔法省へと辿り着く。門番らしき人が近づいてきて、負傷した私を瞠目した。
息切れしながら私は事情を説明しようとしたが、門番は何も言わずに敷地内へと案内してくれる。
やっぱり、魔力を持っていないって一目で分かるものなんだ。呪いも見られなければ知られることはないんだろう。
室内は、人間界の役所などと同じ雰囲気だった。真面目そうな大人たちが忙しなく歩き回っている。
「お怪我をされているので医務室へと向かって下さい。この道を真っ直ぐ行った突き当たりです」
丁寧に門番が言うと、会釈して去っていった。思えば、あの人も魔法が使えるのか。外見だけでは判別できないな。
ひとまず言われた医務室へ向かおうとすると、どこからともなく猫の鳴き声が谺した。にゃーん、という可愛らしい声が雑踏に織り込まれている。
「ハルデ?」
問わずにはいられなかった。それに答えるかのように、足元に一瞬だけ子猫の影が現れる。
瞬く間に消えては少し進んだ場所に浮かび上がり、また消える。繰り返して遠くに行ってしまう前に、私は慌てて曖昧な影を追いかけた。
待ってと言っても止まってはくれない。時折首をこちらに向けてくれるが、その顔もあやふやで輪郭がなかった。でも追う以外の術がなく、無我夢中でついて行く。
人気が一気になくなった廊下の突き当たり、医務室と思われる部屋の前で子猫が進むのをやめた。
何度目ともなる呼びかけに、彼は黒い尾を妖しげに揺らす。様子がおかしい。
察した私は一歩引き下がる。反対にハルデもどきはこちらに体を向けた。かと思えば形がひしゃげ、徐々に大きく変形していく。
しまった、罠だ。
本能的に逃げ出そうとするも、見えない糸に似た何かが体を縛った。動けない。
パニックに陥った私に、人へと変貌した影が近づいてきた。そして言う。
「久しぶり、お嬢さん」
聞き覚えのある声だった。それと目を合わせると、ぞっと背筋が凍えるのを感じた。
白い長髪、頬の赤い入れ墨、老婆。
私に繋の呪いをかけた狩人だった。
声をあげないといけない。助けてと叫べば、ここの人が来てくれる筈だ。なのに喉を絞められたかのように音が出ない。
どうしよう、今度こそ殺される。千田くんの足を、また引っ張ってしまう。私のせいで、あの人を死なせてしまう。
「あぁ、この恰好だと余計に怖いよね。これなら多少落ち着いてくれるかしら」
妙に冷静な声音だ。ヒールがコツコツと鳴り、追って隙間風に似た音が通り過ぎた。
老婆は背筋を伸ばして姿を変える。途端、思考が止まった。
頬にある赤い入れ墨は同じ。でも、赤みがかった瞳や毛先だけが跳ねた髪、鋭さを感じる眼光は、千田くんや椿妃さんが持つものとよく似ていた。
「随分と私の娘息子と仲良くしてくれたのね」
「ま、さか、千田くんたちの、お母さん……?」
「えぇそうよ。気づいてくれるなんて嬉しいわ」
話し方や振る舞いは椿妃さんとそっくりだった。しかし面に感情はなく、まるで人形のような冷たい視線を向けている。
彼女が指を鳴らすと、体を拘束していた糸が切れた。思わず脱力して床に伏せる。体の震えが止まらない。
項垂れた私の顎を掴み、ぐいっと顔を無理やり向けさせられる。合わせられた双眼は何度も見た彼と同じ色を湛えていた。
「確かに誰かに似てるわね。誰だったかしら」
「……私のこと、殺すつもりですか」
恐怖で力が入らないが、相手の威圧感に呑まれないようにする。この程度の抵抗では意味がないのは分かっているが、どうしても虚勢を張りたかった。
彼女は一度、不思議そうな顔になるが、打ち消して凍てつく眼差しに戻る。
「殺したいけど、どうせ殺すなら咲薇の前がいいわ」
「自分の、子供の前でですか。貴方それでも母親ですか」
「そうよね。こんな非道な女、あの子の母親だなんて思えないわよね」
予想外の返答に私は怪訝な目付きになる。彼女は心底悲しげな表情になって続けた。
「私は異端な存在だから、許される存在じゃないから、せめて咲薇と咲薇の大切な友達と一緒に、あの世に送ってあげるの。そうすれば、あの子も淋しくないでしょう?」
ふと思い至る。千田くんのお母さんは、まだ洗脳されたままなのだと。




