第三十一話 境界線の向こう側(2)
彼は数度大きく瞬いたのち瞠目する。血の気が引くように、面が青ざめていった。
私の中では名前のわからない感情が綯い交ぜになってしまって、素直に生きていることを喜ぶべきか、何も言わずに戦場へ行ったことを咎めるべきか、迷った。ただ口を衝いたのは、魔女の名前。
「千田くん」
それ以上、言えなかった。
彼はすぐさま立ち上がり、大声で言う。
「泉!? なんでここにッ お前が連れてきたのかハルデ!」
「だって本人がそう望んだんだもん」
「だからいいって話じゃねーだろッ!」
足元の猫を怒鳴りつけると、彼は次に私の方を見た。言うべきことが分からなくなったらしく、彼は二度何かを言いかけて頭を抱える。
呆れを滲ませた溜息と、焦燥。
彼の服はボロボロになって解れている。肌の上にある処置の痕跡や傷跡が生々しく、ずっとここで戦っていたのだと感じた。
魔女は再び私と目を合わせ、押し殺した声で言う。
「……何しに来た。今この世界がどういう状況か分かってんのか」
冷たく這う音に臆する。
私は息が詰まりそうになって無理に答えた。分かっていたからこそ来たのだと。何もできないけれど、足手纏いにしかならないけれど、せめて話がしたかった。
呪いの相手の言葉に、千田くんは二度目の大きな溜息を吐く。苛立ちは感じなかった。彼の薄い唇が開く。
「心配させて悪かった」
素直に謝罪する彼に少しだけ驚く。また怒られるのかと思ってた。
どうやら同じことを考えていたようで、ハルデも目を丸くする。しかし彼は主に、大人になったねと余計なことを言って睨まれていた。
いつの間にか落ち着きを取り戻した私は、赤みがかった瞳に問いかける。
「いつ、帰ってこれるの」
「いつだろうな、今回は終わりが見えねぇ。魔女が狩られるのが先か、狩人が潰れるのが先かだな」
きっと前者の方が時間は要さないだろう。何と言っても人数の桁が違うのだ。人質にされたせいもあって、戦える魔女たちは少ない。
魔法使いも支援してくれているらしいが、完全に肩入れはしていないそうだ。
どうしたら、いいんだろう。
この戦いに何の意味があるんだろう。
早く終わらせる方法は、ないのだろうか。
俯く私に千田くんは言った。
「とりあえず泉は帰れ。呪いに関しては定期的にハルデを遣る、心配すんな」
「でも」
「お前はただ殺されねーようにしてろ。狩人が人間界からいなくなった訳じゃねーからな」
まだ私たちは繋がれたまま。互いの命も繋がったまま。命の責任は未だ残っている。
それに気づいて頷いた。そうだ、私の命は私だけのものじゃない。自分の身を守ることも充分に千田くんを守ることになるんだ。
大人しく従う呪いの相手に、彼はどうしてか表情を緩める。そして傷だらけの右手で私の頭を撫でた。
「姉ちゃんたちに宜しく伝えておいてくれ」
いつもは鋭くて悪い目付きだのに、この時ばかりは酷く穏やかだった。そこに滲んでいるのは、なんの感情なのだろう。
するりと手を離すと、彼は子猫に送って行くよう指示を出した。ハルデは少々不貞腐れた声で「せっかく連れてきたのに」と言う。だが即座に踵を返し、私の足元へと来た。
使い魔が魔法陣を展開する。移動する時、私は精いっぱいの笑みを浮かべて魔女へ言った。
「信じて待ってるからね」
何故だろう、その瞬間だけ彼が泣き出しそうに目を潤ませた気がした。
眩い光に包まれて景色が真っ白になる。ほんの数秒だけいられる、空白に塗り潰されたここは、世界と世界の狭間なのだろう。
足首に擦り寄る子猫の体温を感じながら、私は記憶を反芻していた。脳に彼の別れ際の表情がこびり付いて剥がれない。
でも大丈夫。
前に千田くんは、狩人は怖くないって言ってた。戦闘慣れしているのも、強いのも私は知ってる。だから大丈夫。
『ホントに君はガキ魔女を信用してるねぇ。何を理由に信じるだなんて言えるの?』
悪魔の声が頭に直接響く。私は見下ろして答えた。
「ハルデは主人のことを信じてないの」
『うーん、まぁ一部だけ?』
尾を緩やかに振る。怪しげな眼差しに、不覚にもドキリとした。
一部って逆にどこだと問うと、ハルデは視線を逸らして言った。
『自己犠牲すら厭わない復讐心、かな』
途端、地面が大きく揺れた。
耐えられず手をつくも震動は収まらない。まるで制御不能になったエレベーターの中だ。
本能的な危険信号が体中に鳴り渡る。
咄嗟にハルデを呼ぶが、姿がない。まっさらな視界が唐突に怖くなった。出口もない。そもそも私は今、どこにいるの?
揺れは徐々に大きくなる。落下物などないのに、不思議と体は頭を守ろうと身を縮めた。
壊れそう。
そう思った時には、地面に亀裂が入っていた。
床は口を開けるように裂け、私はそこへと落ちた。震動のせいで上手く四肢が動かなかったのだ。
しかし高所から落下する感覚はない。すぐに違う地が現れて、白の空間から追い出されたかのように外へと出された。
混濁する脳内を必死で押さえつけて、私は上体を起こす。明滅する視界が煩わしい。
「え、人?」
ふと聴こえたのは声だった。
考える間もなく振り返ると、そこにいたのは初老の女性。他にも人影が見えたがよく見えない。ここは何処だろう、元の世界に戻ってきたのだろうか。
「あらやだ、随分取り乱してるわね」
「どっから来たんだ?」
「魔力はなさそう……普通の人間っぽいですよ」
あちこちから聴こえる会話も理解できない。ばくばくと鳴る心臓と揺れの余韻を引きずる視野が思考を阻む。
だが。
「緊急事態と判断、魔女狩り実行は明日に延期だ」
その台詞が何を示すのか、この人たちが誰なのか、悟ってしまった。




