第三十話 前兆(2)
走って行くには魔女の家は少し遠かった。しかしそんなことを言っていられないほど、私は夢中になっていた。
冬の気配がする庭には、植物の枯れ草が残ったまま放置されている。まさか二度目の訪問が、こんな理由だなんて思いたくもなかった。
錆びた柵を押し開け、インターホンを鳴らす。こちらの息が整わないうちに、彼の姉が出てきた。
「聡乃ちゃん!? どうしたの、こんな暗い時間に」
「あの、今から私が言うことを落ち着いて聞いてくださいませんか」
切羽詰まった女子高生の勢いに、彼女は面食う。しかし即座に頷いてくれた。
私は吸血鬼から聞いた話をそのまま椿妃さんへ伝える。彼女は息を飲んだまま口元を両手で覆い、やがて顔を覆ってしまった。震える肩は、普段の気丈に振る舞う彼女を嘘にしてしまうかのように、弱々しく華奢だった。
当然の反応だ。唯一の肉親である弟が戦場へ行ってしまったのだから、今生の別れとなる予測はついてしまう。
前を向けるほど、私も魔女の姉も強くはない。
でも、折れるには早いと思えた。
潰れそうになっている彼女へ、私はお願いを聞いてほしいと言った。
「貴方が使える魔法は確か、千田くんを見守るための魔法だと仰っていましたよね。今ここで使って見せてくださいますか」
初めて椿妃さんに会った時、見せてくださった魔法。あれならば現地に行かなくとも情報を得られるだろう。
彼女は伏せていた潤む瞳を向けてくれた。振り絞るような声音で答える。
「私にはもう魔力が残ってない。でも、魔法陣を描けば多少はできると思うわ」
彼女もまた、諦めてはいなかった。
椿妃さんにつれられて家の奥へと歩み出す。
明かりが徐々に減っていき、やがて薄暗くなると彼女はスマホのライトで照らし出した。
そこにあったのは、壁を彷彿とさせる本棚と、多量の本の山。
埃っぽい匂いと古びた紙の匂いがツンと鼻を刺す。図書館とは違う、異質な空間が広がっていた。
「ここは昔からの魔導書や文献が残されてるんだけど、咲薇からは入るなって言われてたの。どこかに魔力増幅について書かれた本がある筈よ」
そうは言えど数が多すぎる。加えて書かれてある文字のほとんどは、日本語でも英語でもない、初めて見る言語だ。椿妃さんは読めるそうだが、私には理解ができない。
ここまで来たのに、また何もできないのか。
己の無力さに憎しみを感じる。どうして私はいつも受け身になってしまうんだと、自分を怒鳴りつけても状況は変わらない。今は精いっぱい彼女の手伝いをしなくては。
魔女の姉の指示に従って、目星をつけた本棚に手を伸ばす。綿埃が舞って何度も噎せたが、止まらずにひたすら手を動かした。
小一時間ほど捜索していると、不意に背を引っ張られたような感覚があった。
椿妃さんかと思って振り返るが誰も居ない。代わりにあるのは本の壁。そのうち、一冊に視線を持っていかれた。
何を思ったのか、手に取る。
あまり出されていないのだろうか、黄ばんで傷んだ背表紙に対して、表紙やページはほとんど汚れていなかった。
しかしながら文字は読めない。これは違うだろうと戻した、その時。
パサリと何かが本の間から落ちた。慌てて拾い上げると、それは分厚い紙だった。
私とそっくりな、白い長髪の少女の絵。
そっくりと言っても絵の中の彼女は穏やかな笑みを浮かべている。私では作れないような優しげな表情だ。
加えて写真ではなく肖像画。縁もボロボロになってしまっている。
誰だろう。
胸元に十字が細かく描かれた魔法陣のような紋様が目を引く。
不意に激流が脳内を駆け巡った。
断片的な写真のような、映像のような、今まで見たこともない記憶の流れ。痛みすら感じる。意識が霞んでいく気がした。
多くの中に、たった一つだけ見覚えのあるものがあった。確か、あれは遊園地に遊びに行った時。千田くんが狩人の指を――
「聡乃ちゃん! しっかりして、大丈夫っ?」
我に返ると私は座り込んでいて、傍に椿妃さんが膝をついていた。辺りには本が散乱している。
目眩でも起こしたのだろうか、自分でもわからない。
謝罪の言葉を口にすると、彼女は眉を八の字にしつつ、無理をしないでと言った。
彼女の腕には黒表紙の書物が抱えられている。爪痕のような傷が残っていて、いかにも禍々しい。
魔女の姉によると、魔法陣による儀式は失敗した時のリスクがあるそうだ。今回あげられるものは魔力の一時的使用不可。命に別条ないため、彼女は行えると言った。
書庫の出入り口付近は広いスペースが確保できる。そこで彼女は、本を片手に呪文を唱えながら歩き出した。
小さくステップを踏む。爪先は細かな文字を書く。軌跡は光る線となり、徐々に陣が浮かび上がってきた。
今のところミスはなさそうだ。これなら大丈夫、
『ココにいたんだ、ときのちゃん』
背後から聴こえたのは、鈴に近い悪魔の声。
私は思わず振り返った。




