第二十七話 悪夢の傍で(2)
泉が台所を借りると言って部屋を出て行った。メシを作ってくれるらしい。本当に情けないし申し訳ない。
一つ寝返りを打った。
全身に掛かる重力が重く感じて、頭の中をガンガン痛みが走っていく。喉も息をする度、焼けるように痛んで仕方ない。
大抵この手の発熱は、罹った本人の魔力の強さで治りの速さが変わる。俺の場合だと二日くらいだろうか。
不治の病ではないから命の危険はない。と、言いたいところだが、狩人が嗾けてくることも考えられる。気は休められない。
実のところ、この体がこんな状態だから泉には離れられると困るのだ。簡単に言うと彼女を帰したくない。彼女が襲われた時、即座に向かうことができないから。
階下。
雑音のないこの世界に調理の音が響く。
食器を移動させる音。包丁がまな板とぶつかる音。コンロに火が灯る音。
姉の代わりに看病してくれる泉やシンには感謝しかない。こういう時は俺だって心細くなるものだ。
遠い記憶に母の姿が行く。
彼女の優しい面影が浮かんできた。
いつだったっけ。最後に体調を崩したのは。
確か、まだお父さんとお母さんがいて、ずっと隣に居てくれていたような気がする。あぁそうだ、あれは小四の時だ。
この頃は魔力の操作が下手くそで、よく暴走しかけて母親に止められていた。幼い俺にとっては強すぎる力だったし、誤ってクラスメイトに当ててしまったこともあったっけ。
そんな息子に制御の方法を、お母さんは辛抱強く教えてくれた。
同時に、その力は守るために使うのだとも。
お母さんは俺より魔力が弱かった。でも魔法を使うのは誰よりも上手かった。
当時は彼女の完璧な結界魔法のお陰もあって、狩人と接触する機会などほとんどなかった。あったとしても母親は攻撃せず、ひたすら防御に徹していたのを覚えている。
だから、攻撃以外の魔法に秀でていた彼女が、お父さんを殺したことは言わずもがな大きな衝撃だった。
今思えば、あの悲劇の数日前から彼女の様子がおかしかった。それに気が付かない――否、俺は気付こうとしなかったんだ。
本人も疲れているだけと笑っていたから、それに笑い返すだけで何もしなかった。お母さんならきっと大丈夫だろうと割り切って。
自分を汚い理由で擁護するなんて幾らでもできる。昔はそうして「自分は悪くない」と言い聞かせていた。
だから、あの夢を見るようになったのだろう。
ここ最近は眠っている間に夢を見ることは減ったが、中学の頃は毎晩のように悪夢が襲ってきた。
それは彼女が、少し離れたところで泣いている夢。
真っ白な空間。
しゃくり上げながら俺と、姉と、父の名前を呼んでいる。涙を拭い、謝っている。
でも彼女は洗脳されたままだった。
『ごめんなさい、ごめんなさい。私が異端な存在だから、皆を殺さなくちゃいけないの。全部お母さんが悪いの、本当にごめんなさい。私が皆を連れて行ってあげるから。家族みんなであの世に行きましょう、お願い』
夢の終わりあたりに差し掛かると、母親の容姿は黒くなって人でないナニかに侵食される。
いつだって俺は動くことができない。声も出せない。ひたすら泣き続ける彼女を眺めているだけ。
何度、涙が頬を伝っている朝を迎えただろう。
代わり映えのない悪夢を繰り返し見続けて。目が覚めてもそこに父と母は居なくて。
居るのは、弟のために働く姉と、道に迷って大罪を犯そうとする子どもの魔女だけだ。
馬鹿だな、俺って。
まだ救われると思っている。まだ誰かに救いを乞うている。もう手遅れだって知ってんのに。
「千田くん、大丈夫?」
薄明りと聞き慣れた囁き。
重く閉ざされていた瞼を開けると、無表情の彼女が目を合わせてきていた。いつの間にか眠っていたらしい。
掠れた声で泉を呼ぶ。彼女はほんの少しだけ口角を持ち上げると、うん、と返事をした。
「たまご粥作ったんだけど食べられそう?」
彼女の手元には盆に乗せられた小ぶりの皿がある。白い湯気を立たせ、優しい匂いが鼻孔をくすぐった。
あー、今日は今朝から水以外なにも口にしていない。思い出したかのように腹が微かに鳴った。
鈍痛が居座る頭を押さえつつ上体を起こす。咄嗟に泉が俺の背に手を回し、支えてくれた。彼女の匂いが近く、いつもなら慌ててしまうところだが今日は余裕がなかった。
霞む視界を凝らして時計を見ると、六時を過ぎていた。
盆を膝の上に置き、引き寄せる。ふわりと熱気が肌を掠め、目前の食事に意識がいった。
スプーンで掬って口に運ぶ。それなりに熱かったが空っぽの腹が勝った。
「しょっぱいかな。味見は一応したんだけど」
抑揚のない口調が尋ねてくる。俺はスマホの画面に指を滑らせた。
『悪い。味わかんねー』
素直な感想を述べる俺に、彼女は何の抵抗もなく表情を崩した。それは、まるで母親のような。
俺は粥をあっという間に平らげ、泉は後片付けをしてから帰ると言った。何から何まで申し訳ない。
玄関先。
看病を終え、彼女はローファーを履いた。ドアノブに掛けようとした手を一旦引く。軽くこちらを振り返って、普段と変わらない無表情で別れを告げた。
「明日の朝、ちゃんと連絡してね」
『分かってる。今日はほんとにありがとな』
先程より喉の調子は戻ったが痛いものは痛い。端末片手に会話する異様な空気に、思い出したら笑ってしまいそうだ。
ふと、泉が静止して黙り込む。
変に思って小首を傾げると、彼女は平然とした顔で返した。
「千田くんの声、はやく聞きたいから、お大事に」
そう言って去った。彼女らしくない台詞だった。
閉まった扉を数秒、放心状態になって見ていた。どうしてか頬が熱いし心臓がうるさい。
大きな溜息を吐いてその場にしゃがみ込み、顔を埋める。脳内の整理が追いつかなかった。
彼女は一体何のつもりでそんなことを言ったんだ。他意はないにしろ、あまりにも思わせぶりが過ぎる。
掠れてしまって自分でも何を言っているのか分からない。それでも呟かずにはいられなかった。
「そういうの、やめろよまじで……っ」




