第二十七話 悪夢の傍で(1)
千田くんが風邪を引いた。案の定だった。
千田姉弟の喧嘩から一夜明けた朝。
身支度を整えていた最中に彼から連絡が入ったのだ。彼曰く「魔力を持つ者にしか罹らない流行り病」らしく、使い魔であるハルデも近づけないらしい。僅かながらも魔力を持つ椿妃さんでさえ距離を置かなくてはいかないそうだ。
文面は相変わらず素っ気なく、普段通りに見えるが病状が心配である。
そういう訳で放課後、私は林田くんと見舞いに行くことになった。
思えば彼の家に行くのは初めてだ。林田くんは小学生の頃からよく行き慣れているため目を瞑っても行けるそう。
彼以外人がいない家はぞっとするほど静かだった。
住宅街から離れた場所、広くも鬱蒼とした庭の先に灰色の壁が立っている。窓は見当たらない。火葬場に似た生気のない空間だった。
雨ざらしになって錆びた鉄の柵を押し、中に入る。案内も兼ねて林田くんが前を歩いているが、胸の中には爪ほどの恐怖心が様子を窺っていた。
魔女の家という肩書がよく似合う。庭で伸び伸びと蔓を伸ばす植物も見たことがないものばかりだ。
チャイムを鳴らす。
インターホンからの応答はなく、代わりに何の前触れもなく扉の鍵が開いた。
「お邪魔しまーす。咲薇ぁ、見舞いに来たぞぉ」
一言挨拶を口にする。彼に手招きされて私も玄関に足を踏み入れた。
途端、背後の扉が独りでに閉まり施錠される。玄関から見えていた室内の形状が歪んでいった。奥へと繋がっていた筈の廊下は消え、何もなかった場所に壁が立つ。薄暗い部屋に明かりが灯った。なんか、ジ〇リ映画みたい。
やがて変形が止まると林田くんが靴を脱ぎ、部屋に上がっていった。慌てて私も後を追う。
フローリングの冷たさが靴下越しでも伝わってきた。音が無さすぎて気味が悪い。本当に此処で生活しているのかと思ってしまう。
階段を上り、角を左に折れる。黒のドアの前に辿り着くと、林田くんが声を掛けた。
がちゃり。
ドアノブが勝手に回り、開いた。中を覗き込むと彼の匂いがした。
「今日も今日とて厳重なセキュリティだな」
「う、っせぇな……」
入口の正面の離れたところに横たわるベッド。その布団の中で蹲る千田くんが片手をこちらに伸ばしていた。
部屋に入ると再びドアが自ら閉まる。同時に魔女が伸ばした片手を動かしていた。なるほど、これも魔法で操作していたのか。
彼の部屋だけは何故か明るく見えた。さっきまでの恐怖心もない。ただ微かに緊張の糸が張っている。
「千田くん大丈夫? じゃないか」
「悪い、な、泉。ほんと、情けねぇ……」
声を出すのもやっとな状態だ。枕元まで行くと、彼は恥ずかしいのか布団に潜って顔を隠してしまった。
隣、林田くんが道中で買い込んだレジ袋の中身を取り出して言う。
「今んとこの調子は? メシは食ったの? あ、あとこれ今週の課題と保護者宛のプリントね。プリントは明後日が期限だからそれまでに治しておけよ。それとあんたの好物も買ってきた」
ガサゴソと音を立て、某猫型ロボットのポケットのように次から次へと食べ物と飲み物が出てくる。
林田くんの流れるような問いと報告を聞いているのかいないのか、千田くんは呻きに似た声で返答した。起き上がるのも儘ならないようだ。
今は食欲がないため、買ってきたものたちの大体は冷蔵庫に収められる。一息吐くのに、私たちはベッドの傍らに腰を下ろした。
にしても広い家だな。彼の自室もそれなりに面積があるし、二人暮らしでは寂しさも感じるだろう。
「そういや、あんたが寝込んでる間お姉さんはどこにいんの?」
小腹を満たすための菓子パンの袋を開けつつ林田くんが尋ねる。すると彼のスマホが着信音を鳴らした。ロック画面には千田くんからのメッセージが表示されている。
『彼氏んちに泊まる
ハルデは知らん』
「ははっ、なんでコッチで返事してんだよ」
彼が画面を見せてくれた。どうやら喉が痛くて喋りたくないみたい。
液晶画面越しの会話がしばらく続くと、数少ない窓から夕方を告げられた。林田くんが顔を上げる。
「オレ明日から大会だから帰るわ。泉さんはどうする?」
「んーまだ居ようかな。親には帰りが遅くなるって連絡はしたし」
「そっか、分かった。じゃあね二人とも」
学生鞄を手にし、彼は眼鏡の奥の瞳を優し気に細めた。片手を振って、私も別れを口にする。
沈黙の帳が下りた空間に、電子音がぽつりと鳴る。私は手元のスマホを起こした。
『日、短いんだから帰れよ』
魔女からのメッセージ。
無機質な文字の羅列から彼の優しさが滲み出ていて、思わず微笑んでしまった。首を緩く振って答える。
「つらそうにしているのに帰れないよ。私の心配なんかしなくていいから」
実を言うと彼の姉である椿妃さんから頼み事をされている。
一つは、軽くで良いから彼に夕食を作ってあげること。もう一つは薬を飲ませることだ。
千田くんの事だから、ご飯は食べずにそのまま寝ている可能性が高い。薬の存在もきっと忘れてしまうだろうと、椿妃さんが電話をしてくれた。
正直、料理の腕に自信はないけれど、食べられるものは作れる筈だ。
そう心中で意気込み、私は部屋を出た。