第二十五話 罪の意識(2)
日のまだ登らない、早朝の上空が脳内に広げられる。
薄暗い景色と悪魔の笑い声が、鮮烈に思い起こされる。
シンの部屋の外。
懲りずにまたやって来たのかと重い腰を上げたら、悪魔に身体のほとんどを侵食された彼がいた。空中に浮かんだそれは最早、同じ生き物とも見なしたくないほどに汚らしく、欲に塗れていた。
これを真面に相手してはいけないと、本能的に感じてハルデを呼びつける。いつもなら嫌々拒む俺の手伝いなのに、この時ばかりは子猫の様子がおかしかった。彼は目にした瞬間に、あれを食べ物だと判断したらしい。
始めは先生と悪魔を引き剥がそうと手を尽くした。が、どう頑張っても手遅れだった。
「モう、殺しテ。死にタい。アの世に行キたい。ミユに、あノ人ニ会イタい」
僅かに残った自我が言う。掠れていて聞き取りにくかったが、並べた言葉は総じて「殺してほしい」というものだった。
悲痛な願いに息が詰まる。
あの人に会いたい。何度も聞いた、否、何度も自分が言った台詞。
呑まれてしまいかけるほどの負の感情だった。何とか踏み留まって、使い魔に命を下す。もう食べて良いと。
食事の許可が下りた猫は嬉々として眼前の人外に飛びつく。相手もそれなりに抵抗したが、残っていた人間の強い意志によって大人しく食われていった。悪魔に取り込まれても痛みは感じるのだろう、阿鼻叫喚をあげて彼は絶命した。
俺は、彼の最期の願いを叶えてやることしかできなかった。
あの状態では救えない。為す術などない。だから楽にしてやった。正解のない選択肢を選ぶしかなかった。
なのに、ずっと胸が苦しい。
彼の言っていたミユという人物について調べたところ、三か月前に病死した、先生の恋人だと分かった。
恐らく彼が、大切な人を失ったことによって精神的に弱っているところを、狩人に付け入られてしまったのだろう。病気にかかったのは魔女の仕業だと吹き込まれ、逆恨みを抱かせ、人間離れした行いをさせた。
今朝の出来事を、一度に泉に話した。彼女は無表情のまま黙っている。
当たり前だ。こんな話、誰だって聞かされたら何も言えなくなってしまうだろう。しかし静寂を、彼女自ら断ち切った。
「正しくなくても本人が望んだことなら、先生にとって正しかったんじゃないかな」
冷えた風が横切る。彼女の柔らかな髪がさらわれた。
「恋人に会いたがっていたんでしょう。なら千田くんはその人に会わせてあげたんじゃないの」
死による救い。
彼女の口に似合わない単語で胸がざらつく。
泉は真っ直ぐこちらを見て、諭すように話してくれた。だがそれらは、俺の決断を全て肯定するものではなかった。
自分たちの行動で彼を追い詰めてしまったこと、彼の苦しみにいち早く気付かなかったこと、分かっていたのに助けなかったこと。
先生が魂を売る前に、何か手は打てた筈なのではないかと彼女は続ける。
「もしかしたら、今も同じ境遇に置かれるようになってしまった人が生まれているかもしれない。後悔も大事だけど私たちがすべきことは、その先の『佐山先生みたいな人を助けること』なんじゃないのかな」
彼女は苦し紛れに、しかして濁らせることなく言った。
「私は貴方と繋がっている。だから独りで背負い込まないで」
呪いの刻印を通して伝わる、彼女の手の温度。震えていた。
何故だろう。涙が止めどなく頬を伝う。
俺も、死にたいと思ったことがある。
目の前で父親が殺されて、狂った母親が行方をくらませて、姉ばかりに酷い苦労を掛けさせて。
命を絶って、向こうにいるお父さんに会いたい。
穏やかで心優しいお母さんに会いたい。
家族で笑い合えた、あの頃に帰りたい。
だがそれはできない。俺はまだやらなくてはいけないことがある。
泉との呪いを解き、魔女も狩人も滅ぼし、大切な人たちが危険に晒されることのない世界をつくる。
この身が散り散りなったとしても成し遂げなくてはならない。
お父さん、お母さん、ごめん。
まだ、あなた達には会いにいけない。
ふっと視界が暗くなる。同時に頭上に重みを感じた。
視線を上げると、泉がすぐそこまで来ていて、俺の頭に手を乗せていた。つまり頭を撫でられている状況。
「……何してんだよ」
「泣いてるから慰めてるだけ」
抑揚のない声音と、感情を知らない顔。彼女は目を細めて言う。
「大丈夫、私がいるよ」
一瞬だけ、心にある野望が揺らいだ気がした。




