第二十五話 罪の意識(1)
「おはよう泉さん」
朝、家を出ると、私を待っていた人影が二人いた。千田くんと林田くんだ。
挨拶をし、珍しく三人並んで登校する。足元には子猫の姿をしたハルデが歩いていた。ご機嫌に尾を揺らしている。
確か林田くんの家って私と真逆だったから、わざわざこっちまで来てくれたのか。なんだか申し訳ないな。
数分歩いてから例の狩人の話題を上げる。林田くんは自身の眼鏡をくいっと上げ、隣の魔女へと視線を向けた。彼は目を伏せ切り出す。
「アイツは悪魔に魂を売った。もう人間に戻れない状態になってた」
背に冷たいものが這ってくる。即座に耳を傾けた。
彼の話によると、早朝に先生は姿を現したそうだ。この世のものでない禍々しい容姿を身に纏い、ほとんどの自我が消え失せていた。
切り離すことを試みたが、命を売却してからかなり時間が経っていたため殺すほか手段はなかった。
「学校では自殺扱いになる。後処理はハルデに任せてたから、詳しくはそいつに聞け」
俯いた千田くんは沈んだ様子で言う。後味の悪さに私は聞く気になれなかった。
死んじゃった、のか。仇討ちだと言っていたあの人は、人をやめてしまったのか。
事実上、佐山先生は悪魔に殺されたことになっている。千田くんが倒したのは悪魔であって先生ではない。この魔女は誰も殺していない。暗示に似た心の声が反芻する。
あぁ、私、最低だ。
大切な人たちが生きていることに安心してしまって、誰かが死んだという事実から目を背けようとしている。千田くんは正しいことをしたんだと言い聞かせている。
人ひとりが亡くなったのに。
『ときのちゃんが気にする必要はないよ』
不意に、頭に直接声が響いた。思わず足元を見る。そこにいるのは、トコトコと短い足で歩んでいる子猫だ。
彼はこちらを上目遣いで見ながら続けた。
『あの青二才、ちょっと前から安~い下級と契約を結んでたみたいなんだ。たぶん衝動的なモノ。魔女狩りの輩に変な洗脳食らったんだと思う』
ハルデはまるで世間話をするかのように、明るい調子で言って見せた。それに『ぼくにとってはご飯でしかなかったけどね』と付け足す。なるほど、今朝からこの猫の機嫌が良かったのはそういうことだったのか。
複雑な心境のまま学校に辿り着く。
教室の入り口。林田くんは浮かない表情になりつつ、無理に笑ってこちらに手を小さく振った。私も振り返して、次に千田くんへと目を向ける。見た限り彼は平然とした様子だったが、いつにも増して物憂げだった。
朝のホームルームで佐山先生の話が出た。魔女の言う通り自殺になっていた。
胸の中がぐるぐると掻き乱される。
この教室で真実を知っているのは私だけ。彼の死に加担してしまったという真実を知っているのは、この教室には私だけ。
息が、苦しい。
ハルデに気にするなと言われたが無理な話だ。もしあの時、私が大人しく殺されていたら先生は生きていたかもしれない。でも私が死ねば千田くんまで死んでしまう。そうしたらきっと、林田くんも椿妃さんも悲しむ。じゃあ私は助かって良かったのだろうか、正しかったのだろうか。佐山先生が死んで良かったのだろうか。
……わからない。
そんな筈がないと思うのに、思えないんだ。あぁ、私、最低だ。
その日の授業は何一つ、頭に入って来なかった。
*
放課後。
担任の先生のお呼び出しで千田くんがいない。代わりに林田くんが隣で待ちぼうけしていた。今日は部休日である上に、独りで帰るのはつらくてできないと、彼は眼鏡の奥の瞳を濁らせた。
人気のない廊下。
残っている生徒の会話が聞こえてきてしまう。教育実習生の自殺について、無駄な考察を交わす声が響いてくる。
「大丈夫? ってそんな訳ないか」
力のない口調に私は顔を上げる。引きつった笑顔が痛々しく、林田くんは再び口を開いた。
「罪悪感って言うのかな、なんだかずっとモヤモヤしてて」
どうやら彼も私と同じ気持ちだったらしい。殺したのは悪魔でも、千田くんでもなくて、自分たちだったのではないかと。
私は乾いた唇を開いて言葉を紡いだ。
「先生が亡くなったことは別として、林田くんが助けてくれたことは感謝しているよ。ありがとう」
彼はまた困ったような笑顔を浮かべた。
黙り込む空気。他の話し声が遠ざかっていく。
彼は自身の手を見つめて言った。
「オレたちさ、何もできなかったじゃん。だからこうして居られるけど、手を下した咲薇はもっとツラいんじゃないかなって思う」
その言葉が、空っぽの胸に音を立てて入り込んでくる。はっとした。
千田くんの物憂げな横顔が、ハルデの明るい声がよぎる。
使い魔は主の許可なしでは殺しができない。つまり、あの猫が先生を食べたのは千田くんの命令だったから。最終的に殺す判断をしたのは、彼。
一体どんな思いで告げたのだろう。堕ちた人を目にして、殺せと言ったのは。
かつて人だったものに、死ねと言ったのは。
「悪い、待たせたな」
千田くんの声にびくりと体が反応する。慌てて向けた視線の先、彼はスクールバッグを肩に掛け、疲れた顔をしていた。
林田くんが彼の言葉に応答し、寄りかかっていた背を壁から離す。倣って私も一歩踏み出した。
帰路は私の予想と異なり、至って普段と変わらなかった。年相応の軽いやり取りが繰り返され、笑顔も自然と零れる。違和は感じられない。
間もなく林田くんが道を曲がって別れた。別れ際も快活な笑みを浮かべていて、少し安心した。
彼がいなくなると途端に静かになる。
ぽつ、ぽつ、と断続的に声が鼓膜を揺らした。あまりにも下手な会話のキャッチボールである。
八度目の沈黙。こちらに合わせてくれる歩調。時折入る、彼の腕を組む動作。
「ごめんね」
なんの前触れなく私の口が衝く。右隣りを歩く彼は、間を置いてから聞き返した。私は迷って答える。
「貴方ばかりに責任を負わせている気がしたから」
次いで尋ねる。今まで、どれほどあのようになってしまった人を見てきたのかと。魔女はすぐには答えなかったが、少しして「数えたことねぇ」といい加減に回答する。
「相手にしたのは今回が初めてだ。それ以外は遠目に見たくらい」
組んだ腕をほどいて、両手をポケットに突っ込む。声音は暗い。
「ハルデに食わせたことは間違ってねーし後悔もしてねぇ、あれは当然の判断だった。けど」
ふと彼が足を止める。
二歩、先に出てしまった私も立ち止まって振り返った。
魔女は項垂れて言葉の続きを口にする。
「正しいことでも、なかったと思う」
その声は微かに、それでいて確かに震えていた。




