第二十四話 魔女の友人(2)
泡が弾けるような音と、先生の短い悲鳴が空気を揺らした。
反射的に伏せていた顔を恐る恐る上げる。私の前にいる人影が一人増えていた。
毛先の跳ねた、赤みがかった短髪。
心が安堵に包まれて私たちは彼の名を口にする。
何もない空間から突如として現れた魔女は、転送の直後に先生の持つ刃を蹴り飛ばした。手放したそれは遠くの床に落ち、硬い金属音を鳴らす。
手を蹴られた佐山先生が彼を怯えた瞳で見つめた。構わず千田くんは、自身の背後にいる林田くんに言う。
「シン、泉を守ってくれてありがとう」
優しい声音。感謝に慣れていないからか、とても言いにくそうだった。
眼前で腰を抜かした狩人を見据えて、彼は地を這うような低い声で言う。
「子ども相手に大人げねぇな、センセー」
怒りの匂いが立つ。しかし彼は睨みつけるだけで先生を攻撃する素振りは見せなかった。
使うのは口だけで、相手の不安を余計に掻き立てる言葉を並べて捲し立てていく。間接的に、ここから消えろと言っている。
脅しにも似た少年の口調と出で立ちに、教育実習生は成す術なく立ち去った。
緊張感で静まり返る廊下に、林田くんの声が響く。
「よ、良かった助かったぁ……でも咲薇、捕まえておかなくていいのかよ」
千田くんは立てた人差し指を口元に寄せて返事をした。静かにしろってことらしい。
間もなく、遠くから女子の話し声が聞こえてきた。
「さっき走ってったのって佐山先生だよね」
「なんかめっちゃ焦ってなかった? どうしたんだろね」
会話は徐々に遠ざかる。やがて聞こえなくなり、やっと彼は林田くんの問いに答えた。
「センセーを縛り付けてるとこ目撃されたら困るだろ」
彼の説明によると、相手は魔力を持たないから戦闘になる可能性は低いため、予測不能な事態にはならないらしい。軽く唆せば勝手に自滅するだとか。
とはいえ他の狩人を呼ばれてしまえば戦わねばならない。再び襲われることだって考えられる。
それに、今回は林田くんも巻き込んでしまったから彼も目を付けられている、と言う。保護対象が増えるのは千田くんにとって大きな負担になるだろう。
逡巡の後、千田くんは指示を出した。
「泉はいつも通り俺が送ってく。あとでハルデを向かわせるから一人になることはねぇな。シンは一旦部活に戻れ。お前も帰りは俺が送って、そのまま泊まる」
彼は私たちの不安を取り除くように、安心しろと言って一笑してみせた。
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「咲薇がうちに泊まるなんて久しぶりだなぁ。中学以来じゃね?」
パジャマ姿でシンが笑いかける。壁掛け時計が煌々と照らす明かりを反射した。短針は十一を指し示す。
借りた寝間着に触れながら俺は頷いた。
昼間、泉が教育実習生だという狩人に殺されかけたところシンが助けてくれた。そのことは感謝してもしきれないが、それが原因で彼も命を狙われる可能性が出てきてしまった。
呪いの相手は使い魔に任せて、俺は友人の守護に回ることになり、こうして泊まりに来ている。
中学以来というのは、過去にもシンを守るために宿泊することがあったのだ。
小五の頃、しつこく付きまとう彼に辟易していたが、彼が俺のせいで殺されるかもしれないと分かって面倒を見るようになった。今でいう泉みたいな状態だ。
以前も話した通りココの関係は呪い云々ではなく、シンが迷子になっているところを助けたのがきっかけで続いている腐れ縁のようなものである。ただ彼がオカルト好きだったというだけの話であって、こちらからは近づいてなどいない。
電気を消してベッドに潜る彼を隣に、俺は胡座をかいて待機する。シンが何度か寝返りをうって言った。
「……一晩中起きてる必要ってある?」
「死にてぇなら遠慮なく寝るけど」
「ごめんなさい起きててください」
寒さはエアコンの恩恵によって耐えられるし、オールすることも慣れているから問題はない。あるとしたらシンが眠れないことくらいだ。
暫くの沈黙。しかしすぐに彼が破った。
「なぁ咲薇」
小学生の頃から変わらない声の掛け方だ。俺は闇に向けた目を伏せて何だと応答する。間を置いてから言葉が返ってきた。
「オレってあんたの負担になってるよね」
何を言い出しているんだと呆れた風に返事をする。彼は普段のような口調で平然と言った。
「あ、いや、負担になっててもオレはあんたにこれからも付き纏う予定だし、縁切るつもりもないけどさ。泉さんのことを見てると流石にオレ、子ども過ぎるなって」
途中、口ごもってしまったため何と言っていたのか分からなかった。俺は溜息を吐いて言う。
「長い付き合いだから言えるけど、変わんねーお前に毎日助けられてんだぞコッチは」
聞き返すシンに続けて言ってあげた。
未知の世界や敵に怯えていた俺を、この世界に留めてくれたのはシンの存在があったからだと。
子どもながらに自分は周りと違う、普通でない境遇に劣等感や嫌悪を抱いていた。共に、安穏と暮らす人々に対して的外れな恨みも感じていた。
そんな人として幼い俺にとって、シンが持つ表裏のない性格は良い薬だったと思う。
彼には俺以外にたくさんの友人がいる。あの人当たりだ、大体の人間が良い印象に思うだろう。
だのに彼は、好んで俺のところへやって来る。他の奴らが「あいつは感じ悪い」と言っても、一言違うと言い切ってしまうことだってあった。
「俺ばっかりに構うのはやめろっつったのに」
同情かと問うたことがある。魔女だという少年の傍に居続ける理由は、ただの哀れみなのかと。
だがシンはきょとんとした顔で答えた。
面白いから。
魔法が、ではない。千田咲薇という人物が、だと言った。
たったそれだけの動機で、彼は魔女の友人になることを選んだ。後悔はないらしい。
問いを言いかけて口を噤む。対してシンは笑い声をあげた。
「構うなとか、格好つけるのは小学生の頃から変わんないね」
「は?」
「オレはオレなりに他の友達とも仲良くやってるよ。友好関係に優劣をつけてるつもりもない。咲薇といる時間が長いってだけ」
彼は一頻りクスクス笑うと、落ち着いた口調で言う。
「あんたこそ他の魔女と仲良くする努力してんのか。これでも心配してるんだからな」
互いに背を向けたまま続けられる会話のキャッチボール。テンポは微妙にずれているが、それが何処か心地よい。
「……昔よりかは良好だと思うけど」
「比べる対象何百年前の話だよ。普通に人としてどうなの」
「多分まだ嫌われてる」
「だめじゃんか」
「因縁って根深いもんだぞ、そんな簡単に仲直りできるわけねーじゃん」
「えーそうかぁ? 咲薇は良いヤツなのになぁ」
シンが打つ半笑いの相槌に、俺は軽く表情を顰める。しかしふっと肩の力が抜けて安心できた。変わらない彼との他愛ないやり取りが、いつの間にか当たり前になっていることに口角が緩やかに上がる。
この部屋の外、恐らく南の窓側に気配を感じた。
使い魔だろうか。宙に浮かぶ魔力の塊に意識を向ける。
邪魔をするなと、こちらから力を込めた矢を放ってやった。気配は二、三度行ったり来たりをして去っていく。諦めてくれて良かった、シンの睡眠妨害はされたくないしな。
気付くと彼の声が聞こえなくなっていた。規則正しい呼吸音が微かに鼓膜をくすぐる。
まったく呑気な奴だな、コイツは。




