第二十三話 恋敵(2)
「――チェンジュ」
体が浮く。水中に放り込まれたような感覚が全身を覆うと、数秒も経たずに重力を感じた。
違う、落下してる。
広がった景色は外。上空だ。
「泉、離れるなよッ――コール!」
千田くんの声が耳元に聞こえた。
彼は私の腰の辺りに腕を回し固定する。私も倣って魔女にしがみついた。
靴の裏に何か細いものが触れた。瞬間、がくっと四肢が重力に抗う。唐突に現れた地面、否、箒にふらついた。
彼のお陰でちゃんと箒に乗れたみたい。直に安定すると、千田くんが吐き捨てるように言った。
「ったく、ハルデのやつ外に追い出されてんじゃねーか」
通常通り不機嫌そうだ。大怪我まではしていなさそうだし、良かった。
至近距離で向かい合い、支え合う状態でゆっくりと降下する。彼の心地良い匂いが近くにあるからか、高所でもそこまで怖くはなかった。
ある程度の低さになると私は彼から離れる。彼も地に足をつけると箒を消した。
どうやら降り立ったのは屋上のようだ。冷えた風が髪を強めに攫っていく。
千田くんは大きく溜息を吐き、一帯を見回した。
その生傷に目が行く。私の口が衝いた。
「傷だらけ、だよ」
「あ? いい、後で治すし」
「でも痛いでしょう」
指先を伸べる。彼の左頬を横断する鋭利な傷口から血が一筋だけ伝っていた。
それに触れようとしたが、千田くんはさり気なく片手で拒絶する。半歩後退され、私は伸ばした手を迷わせた。
拒んだその手にも無数の切り傷がある。心配の言葉を掛けたが、彼は素っ気ない返事しかしてくれなかった。
「他に痛むところはないの」
「だから無ぇっつってるだろ」
棘のある口調は出会った頃から何ら変わりないのに、胸に刺さって取れない。覚えず表情を曇らせる。
「最近冷たいね」
そんなこと、言うつもりなかった。
案の定、千田くんはこちらを瞠目する。薄く赤みがかった瞳が大きく瞬いた。かと思ったが、気がつくといつも通りの目付きに戻る。
「ンなことねーよ」
目線を逸らされる。魔女は私を見てはくれなかった。
相手は彼なのに、息が詰まる。
私が責めている気がして居た堪れなかった。謝るべきかと唇を開きかけたが、別方向からの高い声がそれを阻む。
『おーいっ二人とも! こんな所にいたの?』
「こんな所ってお前がいたんだろ」
『だって急に位置交換魔法だよ? 事前連絡はしといてよねっ』
猫耳を反らし、蝙蝠の翼を羽ばたかせるハルデが言った。彼は口元についた血を舐め取ると、むっとした顔を笑顔に変える。
『まぁいいや、お相手さんは底辺悪魔だったし美味しくいただいたよ』
満足そうに笑う猫に対して主は呆れた顔をする。
ここは普段と変わらないのに。私がおかしいのだろうか。
その後は何事もなかった。
柚希くんとも合流できたし、買い物も無事に済ませられた。万事解決と言いたいところなのだが、今度は柚希くんの様子がおかしい。
帰宅の道を辿る。途中はバスに乗ったから足取りは軽い。
道中は終始無言だった。
というより、話せない空気だった。独りで残りの買い物を任せてしまったから機嫌を損ねてしまったのかもしれない。
やっと家に着き、鍵をバッグから取り出す。しかし滑って落としてしまった。
小さく立った金属音。拾おうとしたが先に柚希くんが拾ってくれた。
受け取ろうと掌を差し出す。だが彼は返してくれなかった。つい首を傾げる。
「おれ聡乃のことが昔から好きだった」
不意をつく。
絡みついてくるような視線だった。顔を背けようとしたが彼が一歩近づいてきて逃げられない。
「いつ言おうか迷っていたけど、最近はずっとサクラさんの事ばかり話すし。ねぇ、そんなにあの人の方がいいの?」
心做しか語気が強い。なんだか怖い。
こういう時、ほんの少しでも笑えたら場が和むだろうに、私はそれができない。どうしても無表情が剥がれてくれない。
彼は俯く私の肩に触れてきた。びくりと体が反応する。
肩を覆う大きな手。そこから滲む力。小学生の頃とは全く違う。
「おれ、もう聡乃の背越したんだよ。もう子ども扱いしないで。ちゃんと見てよ」
目も向けられない。彼の言葉が頭に入ってこない。脳内が恐怖の二文字で埋め尽くされてしまう。
彼は指で軽く掴んだ私の顎をぐいっと持ち上げ、無理やり目を合わせさせた。近い。
「鈍感にも程がある。もう逃げないで」
「やめて、柚希くん」
感情のない台詞を言ったところで変わることはない。彼は苦しげな表情で返した。
「返事しなくちゃダメ、答えてよ」
断りたくはなかった。久しぶりに会った幼馴染を傷つけたくなかった。だがそんな事を言っている場合ではない。
それは分かっているのに。
声が出ない、答えないといけないのに、どうしよう、どうしたら、彼に、なんて、返せば。
「怖がってるだろ、見えねーの?」
聞き馴染みのある声。
押さえつけられていた上体が軽くなる。
左を向くと、千田くんが柚希くんの手を払っていた。
「は、なんで居るんすか」
「居ちゃ悪いか。んな事より何、それ」
彼が離れた少年の手を指差す。さっきまで私を掴んでいた手だ。
「想い拗らせてこの有り様かよ。泉がやめろっつったの聞こえなかったか?」
どすの利いた低い声音で牽制するが、魔女は決して睨んでいなかった。
冷静に、諭すように、年上として教えている。見上げた彼の横顔は、いつにも増して強かだった。
言い返せなくなった柚希くんは項垂れて一言謝り、鍵をドアに差し込んだ。そそくさと中に入り、顔を見せることはなかった。
静まり返る空間。
私は隣の彼に感謝を口にする。一方彼は申し訳なさそうに言った。
「後で困んのは泉なのに言い過ぎたかもしれねぇ。すまん」
やはり千田くんはこちらを見てくれない。
複雑な気分が渦巻くが、彼を変に引き止めてはいけないと思った。私は首を振り、できる限りの笑みを浮かべる。
「いつもありがとう。また明日も宜しくね」
帰宅を促す後方への一歩。扉に手を掛ける。
ふと彼が私の名を呼んだ。
視線の先、千田くんの赤い虹彩と合う。
「冷たくして悪かった。本当はそんなことしたくなかったんだが、ユキがお前といるのを見て……嫉妬した」
彼の似合わない単語だった。
呆然とする私を見て、彼は頬を赤らめる。合っていた瞳は解かれた。
自分の言葉を取り消すかのように、慌てて千田くんは別れを言う。こちらを見ることなく、箒を呼び出して行ってしまった。
魔女も嫉妬するんだ、意外。
私は彼が去っていった空に微笑みかけ、身を返す。心はすっかり軽くなっていた。